入社式から三週め、週末にもなると生活パターンはおよそ身についた。明日から二連休だと思うと、もう少し、とがんばりがきく。
けれど、想像を絶する朝の通勤ラッシュも仕事も言葉遣いも、まだ慣れることはない。住んでいる町の雰囲気にもなじめていない。
住み処であるアパートだけは、ただ物がそろっていたというだけの無機質さに温かみが宿ってきて、だんだんと珠美らしくなりつつある。感情なんてない物たちが懐いてきている、そんな感覚があって、新品よりも古いことの良さをはじめて知ったかもしれない。
「あ、二宮さん」
午後からの仕事半ば、喉が渇いて給湯室でコーヒーを注いでいると、ビル事業部の内勤主任である谷口由加がやってきた。細身でちょっと冷たい雰囲気だが、それはとびきりの美人だからで、違う部署なのに珠美はすぐ憶えた。いまの声のニュアンスからすると、ちょうどよかった、という言葉が付属しそうだ。
「ミーティングルームの3号室にお茶を頼んでもいいかしら?」
「はい。いくつですか?」
「三つ。うちの課長と課長補佐。お客様は境井組の境井課長代理。このまえの花見に飛び入りしてきた方よ。憶えてる? って憶えてないほうがどうかしてると思うけど。何か云われたら話を合わせておいてね」
「わかりました」
よろしくね、と由加が出ていくと、珠美はふるえた息をついた。手までもがふるえている気がして、カップホルダーを持っていなくてよかったと思う。
いつ境井と会えるだろう。待ち望んでいたはずが、いざ見かけるだけでなく会うという機会を与ると、どうしていいかわからなくなる。
違う、どうもしなくていい。
珠美はすぐさま自分で打ち消した。
ただ、お茶を出すだけの話で、これは仕事だ。勝手に珠美が混乱している。
早くしないと。そう気づいて準備を始めるものの、心臓が痛くなるようなどきどきが耳もとまでうるさく侵してくる。
お茶用として常に調整されている湯の温度を気にしたり、茶托の向きを考えこんだり、落ち着かない。給湯室を出て3号室へと行く間も、足の運びを気にしてしまって逆に歩き方がわからなくなったり、ノックをすれば軽快な音が出せずにつっかえたりした。
はい、という返事がこもって聞こえ、失敗しないように、そう祈りながら珠美は一つ深呼吸をしてドアを開けた。
「失礼します」
軽く一礼をして顔を上げる。覚悟していたにもかかわらず、その横顔が目についただけで緊張度はこれまでの記録を抜くくらいに増幅した。
最大六人用の3号室はひと目で見渡せる。課長と課長補佐はふたりで書類を覗きこみながら議論中で、境井はそれを見守っている。その顔がゆっくりと珠美のほうを向いた。
「こんにちは」
椅子にゆったりとかまえた境井は、わずかに眉を上げたものの至って平常心だった。当然だ。動転する理由は何もない。珠美が一方的に意識しているだけで。
「こんにちは」
境井は花見のときのことは何も口にせず、胸のポケットを探りながら珠美から視線を外した。いや、触れてもらっても返答に困るのは珠美のほうかもしれない。
お茶を出すのに手がふるえるのは止められなかった。新人ゆえのただの緊張と受けとってくれればいいと願う。
課長たちの前にもお茶を並べると、書類から顔を上げることもなく気もそぞろに、ありがとう、と声をかけられた。
珠美は、いいえ、と返しながら、テーブルに置いたトレイを取りあげた。すると、そこに白い紙がのせられた。まず、そのサイズから名刺だと見当をつけた。
珠美は驚きを隠せないまま境井を見下ろした。境井はちらりと珠美を見やると小さくうなずいて、何事もなかったように課長たちへと目を戻す。そのしぐさにハッとして警告を察しながら、珠美は名刺を落とさないように親指でトレイに押しつけた。
会釈したあと部屋を出ると、ドアを閉めてしまう寸前、課長たちが変わらず手もとに目を向けていることを確かめた。見られていないと安堵して、珠美は給湯室に急いだ。
給湯室には一人だけいたが、すぐにコーヒーの入ったカップを持って出ていった。トレイを片付けるのももどかしく、珠美は名刺を見てみた。
普通にある名刺と変わらない。どういうことだろう。つと考えこむと、境井がペンを持ち、腿の上で何か書いていたことを思いだす。もしかして、と裏返してみた。
そこには、携帯電話の番号だろう、数字が殴り書きされていた。
『湯たんぽのお礼は何がいい?』
男の人とは友人以上に付き合ったことがなくて、境井が何を思ってこういうことをするのか、珠美には知る術がない。
ただ、この機会を手放したら後悔するだろうことは確信できた。
「珠美、カレシいるの?」
七時半から始まった飲み会も一時間をすぎた頃、酒のせいもあってか、紀香は無邪気な様でざっくばらんに訊ねた。
「ううん、いない。付き合ったこともなくて」
珠美は周りを気にしながらつぶやくように答えた。
今日、昼休みになったとたん、開発フロアの独身族代表だという男性社員が紀香を連れてやってきて、交流会をするから参加してほしいと誘われ、いまに至っている。その実、誘いとは建前で、新人は強制参加だ。
どちらにしろ、紀香を含めて新人女子たちではじめての食事会をする約束だったし、社内で顔見知り以上に話しやすくなる機会だと思えばメリットはある。総勢二十人が居酒屋の個室に集まり、適度ににぎやかだ。
「えーそうなの? 珠美、小さい雰囲気で可愛いのに。ほっとかれないタイプだと思ったけど」
紀香の発言に珠美は目を丸くした。
珠美が小さいのは事実で、それが可愛いということの百パーセントを占めているのなら納得もする。髪が長いとよけいに小さく見えそうで短くしている。ふわりとしたおにぎり型のボブスタイルだから幼く見えて、それが可愛いという言葉に変換されているのも納得する。目も鼻もくちびるも並みだ。流行のメイクをすれば可愛くなれるけれど、どこにでもいるような顔になって目立たない。ほっとかれないのではなく、ほっとかれてきた気がする。
一方で、紀香は中背で、由加のような極めた美人ではないけれど、俗にいえば色気があるタイプだ。一見バランスの悪いぽっちゃりしたくちびるだが、今日は色がついているかいないかわからないくらいの淡いピンク色で、艶々加減が最大限に効力を発揮している。
「そんなこと云われたの、はじめてかも」
「そう?」
「そう。紀香は本当にモテそうだけど、カレシは?」
「いないんだよね。寄ってくる人はいるけど、理想が高いかもしれない、ピンと来なくって高校のときの一回きり。わたしって意外に男よりはキャリア派かも、よ」
紀香の首がかしいで、セミロングのゆるゆるパーマがふわりと揺れる。まんざら冗談でもなさそうな様子で、くちびるにはめいっぱいの笑みが広がっている。
紀香とは、花見での永本課長の一件以来、急速に近づいた。
永本はパワーハラスメントの事例を模するような人で、大方の人が扱いかねているらしい。紀香が先輩から聞いて、珠美に教えてくれた。紀香は、珠美が思ったとおり酒が好きで強いという。そうだから花見のときはやりすごせたものの、永本の所業に不満は持っていた。何かあったら愚痴を聞いてあげるから、と、永本の直属の部下という不運な珠美をなぐさめた。その話がもとで紀香とは仲良くなったのだ。
紀香は気取ることがなく付き合いやすい。東京生まれの東京育ちだから、珠美にとってはよけいに心強かった。
紀香は顔を寄せてくると――
「それで?」
と囁いた。
出し抜けに促されて珠美は躰をわずかに引く。
「なんのこと?」
眉をひそめると同時に声までひそめた。
「とびきりイイ男、若干一名いるじゃない?」
紀香は目配せして『イイ男』をさした。そのテーブル中央の方向には三人いるが、若干一名がだれだかは珠美にもわかった。
花見のとき、最後に境井を気遣って声をかけた人、大場悠人だ。珠美よりも三つ年上で、入社四年めにしてビル事業部の営業主任という肩書きを持ち、前途有望視されていると噂に聞く。
いまは近くの男女数人で話を交わしていて、人のお喋りに耳を傾けている。
珠美は首をひねり――
「それで?」
と、紀香と同じように訊ねてみた。
紀香は呆れて肩をすくめる。
「狙わないのかなって思って」
「わたしが?」
「珠美ってもしかして男に興味ない?」
「……そんなことないけど」
とっさに境井の顔が浮かんで、答えるのに少し詰まった。
「実はね、今日、大場主任と話してたら珠美と同じ長崎出身だって云うの。珠美を売りこんじゃったけど、よけいなお世話だった? いいきっかけじゃない?」
「そういうのは困る。わたしが好きだっていうんならいいけど。紀香が狙えばいいんじゃない?」
「顔よし頭よし。背も高いしエリートっぽいし、理想に近いんだけど、どこか合わない感じするんだよね」
「紀香は理想が高すぎ」
「大場主任に関心がないっていう珠美に云われたくないよ。同類じゃない?」
ふたりは顔を見合わせて笑い合う。
「そこそこ。女子だけで盛りあがるなよ」
ふいに正面に座った人が注意を引く。
「だったら、もっと盛りあげてくださいよ。営業なんだからトーク得意ですよね」
「んー。オヤジギャグっぽいな、そのコメント」
「オヤジっぽいですね、その返し」
紀香はすかさず喰いついて周りをどっと沸かせた。そういうのは見習いたいところだ。それがきっかけになって話の輪が広がると、メリットだけを考えて〝参加している〟というどこか傍観者のようだった珠美も、いつしか楽しんでいた。
ただ、今日あったことはずっと頭の隅にある。名刺に書かれた携帯番号も空で云えるほど。
終業時間は明らかにすぎているだろうと思って、七時前くらいに境井に電話をしてみた。携帯電話に登録して番号を呼びだしては閉じることを繰り返して何度めだっただろう。ようやく通話ボタンを押したのに、境井は出なかった。
からかわれたのかもしれない、そんなことを思ったり、見覚えのない番号だから出ないのかもしれない――境井のほうから持ちかけたことだから矛盾した考えだが――そんなふうに思ったりした。
確かなのは境井が電話に出なかったことだ。
珠美は思い返してため息をつく。すると、珠美の吐息で息を吹き返したように、さっき全員でやった電話番号の交換後、膝の上に置いたままにしていた携帯電話が振動し始めた。
そっと画面を見ると境井からだった。