3.生まれたての恋と月並みの言葉

この記事は約12分で読めます。

 境井のほうから電話をかけてくるとは思っていなかった。境井の立場からすれば、見知らぬ番号は珠美の携帯番号とはかぎらない。
 嬉々とした感情などなくて、あるのはひどい当惑から生じるパニックだった。それでも、待ち望んでいたことであり、出なくちゃ、という意識だけはくっきりと浮上してくる。
 携帯電話を握りしめて手のふるえを止めると、珠美は腰を浮かす。
「ちょっと電話に出てくる」
 紀香に断りを入れ、返事を待たないで個室を出た。
 サニタリーエリアに休憩スペースがあったことを思いだしながら、店内用のスリッパを履いて珠美は急いで向かった。切れてしまわないかと焦って、そこに着くまえに通話モードに切り替えた。

「はい……」
『合ってたみたいだ』
 名乗ろうとしたものの言葉が詰まった隙に、おもしろがった声が珠美の耳をくすぐった。
 耳に直接届くという声の近さが、境井に抱かれていた感触を思いださせる。言葉の次には呼吸まで詰まりそうになった。
『二宮さん、だろう?』
 返事ができないうちに境井が呼びかけた。訊ねるようでいながら、やはりからかうようだ。
「はい」
『電話してくれたとき、ちょうど会議中で出られなかった。二宮さんの機嫌を損ねてないならいいけど』
「そんなことありません。タイミングが悪かったんです」
『……そうだな』
 境井が返事するまでに少し間が空いたように感じたのは気のせいだろうか。
『そっち、にぎやかそうだな』
「そうなんです。居酒屋に来てて……あ、会社の人たちです」
『よかった。なじんでるみたいだな。二週間前は大丈夫なのかって感じだったけど』
「わたしは子供じゃなくて二十歳すぎてます。そんなに頼りなくはありません」
『そうみたいだ。ちゃんと自己主張できてる』
 笑みのにじんだ声だ。最初のからかう声はデザートを食べている気分で、次の普通のお喋りはれたてのコーヒーから漂う香りのようで、たったいまは風に守られている――例えば、嫌なことがあれば吹き飛ばしてくれるような、そんなふうに感じた。

『それでおかえしは何がいいか考えた?』
「おかえしされるようなこと何もしてません。わたしのほうが助けてもらったし、タクシー代も出してもらいました」
『あのとき云ったとおりだ。おれは永本課長と張り合ってみたかっただけで、タクシー代はタクシー会社の利益にはなっても、二宮さんにとってなんのプレゼントにもなってない』
 そうだろう? そんな言葉が続きそうな気配で境井は云いきった。
 ここで押し問答をすれば二度と接点はないだろう。そう思うと、この機会は逃せなかった。ひとつだけ、珠美には希望がある。
「食事……に連れていってもらえませんか」
『オーケー。いつにする?』
「わたしのほうが暇だと思うし、境井さんに合わせます」
『じゃ、明日は? 夕食で』
「はい……大丈夫です」
『オーケー。嫌いなものは? 中華が嫌いとか』
「あ、それならココナッツが入った熱帯料理は苦手です」
『なるほど。明日、午後になったら電話する』
「はい。あ、気取ってないとこのほうがいいです!」
 珠美が慌てて付け加えると、耳の中に含み笑いが満ちた。
『個室なら気取っててもかまわないだろう?』
「……たぶん」
『店は適当に見繕っておく。じゃ、今日は気をつけて』
「はい」

 手がまたふるえだす。通話終了のマークをタッチするのも難しい。
 けれど、くちびるは自然と緩んだ。
 よかった、とそんな境井のちょっとした言葉は、珠美が境井をふと思いだすように、境井もそうだったのかもしれないと思わせてくれた。
 そして、会いたい、というたったひとつの珠美の希望はかなった。
 それが明日になるとは思わなかったけれど、会うのが早くなるぶんだけ境井との時間も増えるということだ。また誘われる、あるいは珠美のほうから誘うということが前提だが、一回きりではないという予感がした。

「二宮さん、そんなふうに笑うんだ。電話ってカレシ?」
 ふいに声がして、珠美は両手で持った携帯電話から顔を上げた。すると、正面に大場が立っていた。
 いつからいたのだろう。珠美は驚くよりも不安に感じた。
「違います。休憩ですか」
 珠美は座るほうが落ち着かない気がして立ったまま電話をしていたのだが、隅の壁にはL字型に椅子が並べられている。珠美はそれを指差した。
「長崎から出てきたらしいね」
 大場は幅の広い肩をすくめ、珠美の質問は退けた。
「はい。大場主任もですよね。紀香から……田端さんから聞きました」
「そうだよ。おれは大学からこっち出てきたけど。そのイントネーション、懐かしいな」
「……そんなに出てます?」
「侮辱に聞こえたら謝る。可愛いって思ったんだ。方言を聞くとどこの言葉でも和むけど、特に九州の北のほうの言葉を聞くと泣きそうになるな」
 大場は、計算どおりにペンを走らせてできあがったような、すっとした顔立ちをしている。どのパーツをとっても輪郭がきれいなのだ。かといって女っぽいわけではなく、むしろ、男という雰囲気が前面に出ている。つまり、それだけ強い人なのだと思う。そんな大場が泣くところなんて想像できない。
 珠美は思わず笑った。すると。
「ちょっと違うな」
 訳のわからないことをつぶやいた。
「え?」
「今度、同郷のよしみで食事に行かないか? 連絡する」
 そう云って、大場はくるっと背を向けると貸切部屋のほうに戻っていった。
 断る暇もなかった。珠美はため息をついた。が、大場に続いて部屋に戻ろうとして手の中の携帯電話に意識が向くと、約束をしたことが思いだされて珠美の顔は綻んだ。

 何を着ていけば境井と釣り合うだろう。
 昨日の飲み会は二次会まで連れていかれて、珠美が家に戻ったのは日付が変わってからだった。入浴をすませてベッドに入っても、眠るには神経が休まらず、ずいぶんと起きていた気がする。落ち着かない原因はひとつしかない。反動で、土曜日は朝といえる時間をとっくにすぎて正午に目が覚めた。
 それ以来、小さなクローゼットを覗いては出して、出してはしまって、その繰り返しだ。まして、境井がスーツなのか、そうではないとしたら私服はどんな感じだろうと想像がつかなくて、珠美は楽しみとは程遠い不安に駆られていく。

 六畳半という狭い部屋を一キロ分くらい歩いたんじゃないかという頃、境井から連絡があって、それからそわそわした気分が少しおさまった。どきどきなのかびくびくなのか、そんな気持ちで電話を取れば、淡々と時間と待ち合わせ場所を指定されたからかもしれない。
 珠美が会いたいと思うだけで、礼がしたいという境井との間には感情の温度差がある。そう気づいて心もとなくなった。
 いずれにしろ、気取っているところでも個室というのなら、境井とのバランスを考えなくてもだれの目にも留まることはない。
 開き直ると、珠美は部屋の掃除をして時間を潰した。

 待ち合わせたのは北千住の駅で、二十分くらい早めに来た境井は、すでに約束の場所にいた珠美を見て呆れたように首を振った。そして、頭のヘアピンに目を留めると、そこから靴までひととおり珠美を眺める。
 ボウタイ付きのブラウスにスカートにジャケットというコーディネイトは仕事着と一緒だが、格子とパネル柄を組み合わせたミニ丈のフラワースカート、そして、裏返した袖にレースが施されている腰丈のジャケットはフェミニンで、オフィスでの印象とは少し違うかもしれない。
 何か云うかとかまえていたが、境井はかすかにうなずいただけで、行こう、と珠美を促した。

「今日は仕事でした?」
 駅でタクシーを捕まえ、走りだしてまもなく珠美は訊ねてみた。境井はいつもの雰囲気と同じでスーツ姿だ。
「ああ。土日関係なく、一日の大半は仕事だ」
「休みは?」
 目を丸くした珠美を見やると、境井は吐息をこぼすのに紛らせて笑う。
「仕事してるほうが安らぐって云ったら?」
「ワーカホリック」
「そのとおりだ」
 境井は冗談でもなさそうにあっさりと認めた。ふたりは顔を見合わせて笑みを交わす。

 何を話そうかと思い悩んだのはまったくの取り越し苦労だった。それからの移動中、境井からどんな仕事をやっているのか教えてもらい――そもそも共通の業界にいて、味気なさは否めないものの――話題には事欠かない。
 名刺に『建築部設計課、課長代理』とあったように、境井はいろいろな施設から高層ビルまで、設計に携わる仕事をしているという。一昨日、柏田住建側の課長たちが見ていたのは確かに図面だった。
 境井は生粋きっすいのやり手ビジネスマンというイメージがぴったりだと思っていたが、一級建築士の資格を持っていて、設計というデスクワークも好きらしい。
 大学卒業後、ずっと境井組にいて――創業者の身内ならそれもあたりまえかもしれないが――八年めだと教えてもらうと、珠美は少し気が遠くなる。自分の八年後の姿など想像もつかず、柏田住建にいるとは確信できない。

 タクシーはやがて都心部へと来た。境井が会社で仕事をしていたのなら、珠美をわざわざ迎えにきたことになる。
 それはきっと珠美が東京に詳しくないためで、つまり子供扱いだ。今度三十歳になる境井からすれば、七つ年下の珠美はひどく子供に見えるだろう。だから『二十歳すぎてます』と昨日は主張したのに、なんにもなっていなかった。
 そうしてまもなく、境井の指示を受けてタクシーは歩道に寄って止まった。
 降り立ったところに〝キッチンハウス 花鳥風月〟というこぢんまりした店がある。イーゼルに飾られた看板が素朴ながらもお洒落しゃれだ。格子のガラス窓は一面ではなく個別にいくつかあって、模様を施したすりガラスになっているから店内はよく見えない。ただ、明かりは漏れていて、なんとなく個人宅のような温かみを感じる。

「ここだ」
 珠美は背中に添えられた手に促された。
 境井は予約していたようで、店内に入って名乗ると、歩道に面した窓沿いのテーブル席ではなく奥の個室に通された。個室とはいっても、和紙のプリーツカーテンで空間が仕切られただけだ。しんと静まっていれば会話は筒抜けになるだろう。畳部屋だが、テーブルの下には炉が設けられて腰かけられる。床暖房だろうか、足の裏は冷たさを感じず、むしろ脚全体が温かく包まれた。
「コース料理を予約してる。ここはリーズナブルだから、二宮さんも遠慮なく好きなものを追加できるだろうと思った。まずは飲み物だ」
 境井はテーブルにあったメニュー表を珠美に向けた。
 ここで大人っぽいワインだとか注文できたら恰好もつくが、ほぼ手つかずのまま残ることは必至で、そうなればごちそうをしてくれる境井にも申し訳ない。珠美は、シャンパンベースのピーチカクテルと書かれたベリーニを頼んだ。

「カクテルはいける?」
「甘さがあれば」
 答えると境井は、なるほどといったふうにかすかにうなずいた。
「それなら居酒屋では楽しめるわけだ。昨日は楽しかった?」
「まだ親しいという感じじゃないから、すっきり楽しいとは云えませんけど、けっこう楽しめました」
「ややこしいな」
 境井は可笑しそうにつぶやく。
 その表情はふわりと珠美の琴線に触れてくる。境井の顔立ちはきれいだと思う。切れ長の目と鼻と少し薄めかというくちびるのバランスもさることながら、顎のラインが全体の印象を引きしめている。緩く波打って後ろに流した髪が顔立ちの繊細さを崩し、ただきれいというよりも、芸術作品を見たときに思う、美しいという言葉がふさわしい。
 珠美の中で、これまで感じたことのない、触れたいという欲求がどんどん大きくなっていった。
 境井の視線はずっと珠美の顔にあって、見破られているような不安に駆られる。飲み物と前菜が来たときはほっとした。

「甘い?」
 乾杯をしてベリーニを一口飲むと境井が訊ねる。
「はい。ピーチがいい感じです。境井さんのは?」
 白ワインが入ったグラスを指差すと、境井はそれを差しだした。
「飲んでみる? カクテルが飲めるなら、アルコールは苦手でも弱いわけじゃなさそうだし、美味おいしく感じるようになるかもしれない。慣れていけばいい」
「じゃあ少しだけ。……わたしの、飲みますか?」
「じゃ、少しだけ」
 境井はおどけた様で珠美を真似まねた。釣られて珠美も笑みを漏らした。
 交換して飲んでみると、珠美の美味しいという味覚には程遠い。
「やっぱり苦手みたいだ」
 顔をしかめた珠美を見て境井は笑った。けれど、その照準はアルコールが苦手ということからずれているような印象を受ける。
「ヘンですか」
「いや」
 境井は否定しつつも、そのひと言にも何か含んでいる気がした。が――。
「それで、昨日のメンバーは?」
 境井は出し抜けに飲み会の話に戻した。

 境井の問いに従って珠美が一人ずつあげていくたびにコメントがつく。柏田住建の社員の話は共通して知っているから、お喋りがぶつ切りになることもない。ことに、現時点では新人の珠美よりも外部にいる境井のほうが物知りで、だれそれはプライドが高そうだとか、だれそれはとっつきにくいけれど人見知りをする反動で実はやさしいとか、これからの付き合いに役立ちそうなことを話してくれた。
「大場主任は同じ長崎出身だろう?」
 境井が大場のことを持ちだすと、珠美は昨日、大場と交わした会話を思いだした。
「はい。昨日、知りました」
「話した?」
「……同郷のよしみで今度食事に行こうって」
 云おうか迷ったすえ口にしてみると、境井はうなずく。それだけの反応に珠美は漠然と物足りなさを感じた。

「彼は将来有望だ。呑みこみが早いし、考えに融通ゆうずうが利く」
「社内でもそう聞きます」
「野心もある」
 それはわざわざ付け加えられたように感じて、珠美は首をかしげた。
「そういうの、仕事するんだったら持ってたほうがいいんですよね?」
「……そうだな。使い方を間違わなければ持っている価値はある」
「使い方?」
「ああ。ラクなほうを選択しても結果は出ない。もしくは代償がある。だから、遠回りでも自分自身に懸けるべきだな」
 まるでそうした経験があるような云い方だった。
 再び首をかしげ、珠美は無言で問いかけてみたが。
「大場主任は頼りになる。何かあれば彼を頼ればいい」
 その云い方は違う!
 内心のことだったが、珠美はとっさに訴えていた。
 境井さんを当てにしちゃだめですか?
 云いたくなったことは封じこめた。
 ふたりの感情に温度差があるのは明確だった。大場から食事に誘われていることを打ち明けてもなんともないという反応もそれを決定づけていた。

「口に合わない?」
 ふと、境井が問いかけた。
 唐突に聞こえたのは会話が途絶えていたからかもしれない。気がつけば箸は手にしたまま止まっている。沈黙が気にならないほど気落ちしているのだろう。珠美は他人事みたいにそう思った。
「そんなことありません。……美味しいけど、ボリュームあるから休憩です」
 どうにか云い訳を探しだして珠美が補足すると、境井は納得したように首を縦に振った。
「ここは気取らなくていいだろう? 高級っていうのを売りにした場所は好きになれない。その点、ここは手頃だ」
「そうなんですか。境井さん、気取ったところ慣れてそうなのに」
「おれが?」
 境井の発言は意外な感じがしたと思っていたら、境井もまた意外だといったふうに珠美に問い返した。
「境井さんのお父さんは境井組の社長でしょ? それか親戚?」
 境井はためらうような面持ちを見せた。見間違いかと思うほどの一瞬だった。
「違う。境井社長は、おれじゃなく、妻の父親だ」

 心拍がいきなり停止する。そんな感覚におちいった。
 いまのひと言が、さっきは見間違いではなかったことを珠美に確信させた。いや、それどころじゃない。境井が答えるのに躊躇ちゅうちょしたかどうかなんてどうだっていい。
『けど――』
 公園で境井の温度にくるまれながらその言葉の続きを考えている間に、珠美は恋に落ちたのかもしれなかった。
 初恋は実らない。
 だれかが云っていたそんな月並みの言葉が、シャボン玉を指でつついたみたいにごく簡単に単純に、生まれたての恋を打ち砕いた。

error: Content is protected !!