■概要■
落ちた消しゴム。すくった、大きな手。果たして、落ちていない、のか―
新人研修での出会いから半年後の合コンをきっかけに始まったグループ交際
どこかクセモノなやり手営業部vsウブな総務部の女子新人社員
*一風変わった構成で描いたヴァージン四重奏
publisher:メディアチューンズ
序章 ASK推進企画室
業平商事では毎年、四月一日の入社式を終えると、新入社員約二百名は三週間の研修に入る。
面接時の選択から基幹職と事務職という大まかな方向ははっきりしていても、入社時点ではまだ配属先が決まっておらず、研修を経て言い渡される。
三週間といっても休日を除けば正味十五日間で、十日間は本社ビル内での研修、そして最終五日間はリラクゼーションとコミュニケーション向上を主目的にして郊外にある宿舎での共同生活となる。
その間、各部署から偵察を兼ねて担当者が入れ替わり立ち替わり教育に当たる。
本社ビルの十階にある四つの会議室ではそれぞれ五十人ずつに分かれ、これまでだれもがそうであったように、今年の新入社員も真剣な面持ちで講義やアドバイスを受けていた。
世界に名の知れた総合商社だけに、不安と相まって表情に見え隠れするのはうれしさと期待と、そして誇らしさだろうか。
「今年はどうかしら」
研修二日め、十階にそろった四人は、廊下から物色するように新入社員たちの様子を窺った。瞬間調光ガラスという特殊な間仕切りガラスは、普段は不透明でプライバシーが守られているが、いまは透明にされて室内は丸見えだ。
「ぜひにも現れてもらわないと、先代もおちおち完全引退とはいきませんもの」
「仕事に関しては問題ないどころか有望なのに。もう身を固めてもいいお年だわ」
「そうね。噂には困ったものだわ。社内では目をつむれるとしても、社外に対してはけっしてプラスにはならないし、我が社の安定した存続のためにも……」
最後は言葉を濁して、しばらく研修会場を見守った。
今日の教育担当は営業部インフラ事業部門で、若手が率先して会場内をまわりながらアドバイスをしている。
中央では一際背の高い担当者が、女性のノートをつついて何やら指南中だ。その彼女は、横顔を見ると女性と呼ぶには少し幼い感じだ。何度かうなずいて顔を上げると彼に笑みを向けた。
「あら、あの子、わたくしたちが推した子の一人じゃなくて?」
「確かに」
引き続き経過を見ていると、彼はうなずき返してそのまえの席へと進む。
彼女の視線は彼を追っていたが、やがて机に向き直った。入れ替わって彼が彼女を振り向く。だれかが悪戯を計ったかのように、彼女の手もとが狂って消しゴムが転がり跳ねた。机から飛びだした瞬間に、彼が消しゴムをつかんだ。
目を丸くしている彼女と、はじめて表情を和やかに崩した彼が、顔を見合わせて小さく笑った。
「あら」
「まあ」
感嘆詞が二つ並ぶと、知らずと四人は顔を見合わせる。
「今年はどうやら、久しぶりにASK推進企画室を復活できそうね?」
「そうね。いい感じじゃなくて?」
「報酬は?」
「今回は社運もかかっているようですし、贅沢に。わたくし、一度〝天国にいちばん近い島〟に行ってみたいと思っていたんですけど」
「ほかにご意見は?」
ほかの二人は同時に首を横に振った。
「では決まり、ね。わたくしが部長に交渉するわ」
「負けてはいられませんね」
「当然です」
「さっそく、内偵しなくては」
「決算準備もお忘れなく」
「ああ、そうでした」
「でも」
「長い目で見れば」
「ASK推進企画室のほうが優先です」
四人はともに意見一致でうなずき合う。
「では、がんばりましょう」
*
新人研修も今日で終わりだ。
最終五日間の宿舎研修は、よく知らないという人ばかりのなかでどうなることかと思ったけれど、仲良くなった人が三人できた。
相変わらず、食事当番で卵焼きを焦がしたり、洗濯物を取りこんでいる途中に呼ばれてそのまま夜まで干しっぱなしだったりと失敗もあって落ちこむこともあった。それでも、ほんの三週間まえまで名前も顔も知らない他人だった人たちを近しく感じるようになった。わたしみたいに地方から出てきた人もたくさんいるからイントネーションが違うこともそう気にならなくて、独り暮らしのちょっとした知恵を出し合ったりする機会もあったし、いろんなことで実のある時間になった。
最終日の昼は、各部署の教育担当者もやってきて、総勢二五〇名でのバーベキューパーティだ。
思い思いに散ってにぎやかに進むなか、仲良くなった四人で固まった。こういうときに居場所があるとほっとする。
パーティはずるずると続いて、食べきれなくなるとわたしたちは小川まで散歩に出た。
「どこに配属されちゃうんだろう」
「四人一緒だといいな」
わたしはそう答えながらちょっと不安になった。
厳しい指導のなかでも責任を持たされる仕事というのはまだこれから始まることで、学生気分が抜けていないのは事実だ。来週からはいよいよ実戦になる。加えて行き先のわからないことがいまはプレッシャーになっている。
「それは難しいかも」
「そうね。でもどうなるにしても、週に一回くらいは食事会とかやりたいって思わない?」
「それいいな」
「わたしも賛成。いま決めておけば?」
「じゃあ、やっぱり区切りがよくって帰る時間を気にしないでいい金曜日は?」
「決まり!」
歓声じみて笑い合った。同じように散歩する人がいるなか、四人の笑い声は目立ってしまい、顔を見合わせるとくすくす笑いに変えた。
小川に沿って歩くと、大きな石が横並びして向こう岸に渡れるところまで来た。小川は三メートルくらいの幅で水深も浅いが、この場所だけ一メートル近く落差があって、まるでミニチュアの滝だ。せせらぎというには水の音が立ちすぎて、流れも少し速すぎる。
さきに行って、と譲ったわたしを最後にして、三人が順番に石の上を渡り始めた。所々が水飛沫で濡れていて、気をつけなければ滑りそうだ。
そうわかっていたのに、わたしはやっぱり思考スペースの大部分を不安に占領されていたのだろう、石の上に乗ったとたんに足を滑らせた。
視界が傾いて躰が浮いた。
落ちる!
目を閉じて覚悟した瞬間、後ろから抱くように腰をすくわれ、出そうになった悲鳴を呑みこんだ。
「ナイスキャッチ」
耳もとで可笑しそうな声がした。自らを褒めた声の主を振り仰ぐと、驚くほど近くに顔があってどきどきした。
「消しゴムだけじゃなくて自分まで落とすってある意味、特技だな」
岸まで引き戻されてからかわれると、自分の顔が赤くなるのがわかる。
「あ、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「……あの……」
「何?」
「……腕、もういいです。立てますから」
わたしは目を合わせたまま、腰に添えた手を指差した。
「そうらしい」
目のまえで短く笑い声を立てた顔は、めったにお目にかかれないほど端整で見惚れた。
「渡る?」
向こう岸を差した指先をたどると、彼女たち三人のちょっと驚いたような顔に合った。
「はい」
「それなら、手を引いてやるのが紳士たるもの、だろうな」
わたしは答える間もなく手を取られて引っ張られた。ともすれば、わたしの手をしっかりとつかむ、大きな手の心地よさに気を取られ、集中力をなくしそうになる。また踏み外して、道連れに落ちてしまったら最悪のパターンだ。
どきどきしつつ無事に岸へたどり着くと、ほっとするとともに手が離れる。
もっと。
無意識に願った。
「落とさなくてよかった」
小さな声で思わず口にすると、見上げた顔から何か含んだような、歪んだ笑みが返ってきたけれど、気のせいかと感じるほどすぐに消えた。
「月曜からいよいよ仕事だな。いろいろあるだろうけど、がんばれよ」
「はい」
「いい返事だ。研修の成果が出てる。じゃあな」
向こう側へやすやすと引き返す背中を見送った。
また……会えるかな……。
内心でつぶやいて、そのはじめての感情に戸惑った。
*
業平ビルのエントランスをくぐり、まっすぐ奥にあるエスカレーターで二階までのぼると、出勤時間の混雑したエレベーターを避けて、三階の営業部フロアまで階段を使った。朝の混雑は通常のことだが、今日から新人が本社ビルに戻ったことでよけいに人が多い。
デスク脇にダレスバッグを置くと、電話機の下に小さな封書が置かれているのに気づいた。電話機を上げてテープで貼りつけられた封書を剥がした。
業平商事の社名が入った封筒には、おれの名と『親展』の文字がある。
封を開け、なかから便せんを取りだして広げた。
招待状
突然のお手紙を失礼いたします。
新人研修の教育、お疲れさまでした。
今年の新人はいかがでしたか。お気に召した子がいらっしゃいましたら、お手伝いさせていただきたく、招待状をお送りしました。
ただし、真剣愛が前提のことです。且つ、こちらを通さない抜け駆けはご容赦ください。大切な人材ですし、社内のことですから不手際が生じては困ります。
ご依頼については、○○○-○○○○-三二〇七、ASK推進企画室までご連絡ください。いつでも歓迎いたします。
なお、この企画は今回、四人限定でご招待しておりますので、ご依頼の有無を問わず、内密にお願いいたします。業平商事上層部公認の企画室です。保証が必要であれば総務部長にご確認ください。
では、是非のご依頼をお待ちしております。かしこ
ASK推進企画室
どういうことだ? どっかの出会い系ビジネスじゃあるまいし……バカバカしい。
ゴミ箱に投げ入れようとして手を止めた。
ふいに笑顔が脳裡に浮かんだ。
……まあいい。
手紙はダレスバッグの奥にしまった。
*
――半年後。
昼間の喧騒が消えた夜、総務部フロアの一室では優雅にお茶の時間が進んでいる。八階の窓から見える夜景は、いくつものビルから漏れる明かりが地上に広がる星のようでロマンティックそのものだ。まさにASK推進企画に打ってつけの風景だろう。
「依頼審査は終わりました。あの方の噂の件を除いて、この一年内ではスキャンダルもなく、それ以上を遡っても気にするほどの問題はないわ。全員合格です」
「あら、優秀ね」
「ただ、噂の真相までたどり着けなかったことが気にかかるところでもあるの」
「そうなの?」
「ええ。お相手の方がどうやっても見当たらないんだわ」
「いいほうに解釈すれば、事実として社外に漏れることはない、ということでは?」
「でも。だとしたら、噂の出所はどこなのかしら」
その発言に四人ともが眉をひそめ、しばし黙りこんだ。やがて、「それはともかく」とASK推進企画室代表が顔を上げた。
「よくこれだけそろったものね。質も量も言うことないし、結果が楽しみだわ」
「ほんとに。あとはこちらをどう進めるか、というところね」
「そうねぇ……」
「そのことについてなんですけど、うちの子。『営業部とは全然接点ないですよね』って言ったのね。営業部に配属を変わりたいのかしら」
「あら!? それって彼女はすでにフォーリンラヴではなくて?」
「そうこなくては。あのシーンで恋に落ちないほうがどうかしてるわ」
「そうよね。では、その子を突破口にしてはどうでしょう」
「いいきっかけだわ」
「では、そちらから進めてくださる?」
「了解です。すでに両想いってことはうちの課の勝ち抜けかしら」
「まあ、わかりませんことよ」
「そうそう。恋の成就はすべてふたりのタイミング」
*
十月の初旬、ASK推進企画室が用意した居酒屋IOMAの一室は、八人そろった当初、緊張していた雰囲気もわずかに緩んで会話が弾みだした。厳密にいえば、緊張しているのは向かい合った女性たち四人だろう。
ASK推進企画室が前置きしたとおり、半年まえと変わらず、彼女たちを見ると女性と言うにはウブな印象が消えていない。
ASK推進企画室の実態がなんなのかは判明しないままだが、あの封書があった日から二カ月後に訪ねた総務部長は『心配ない』の一点張り。とりあえず、選抜されたらしいあとの三人というのがだれなのかだけは教えてくれた。全員が日頃から通じている営業部の奴だった。
声をかけてみるとそれぞれが『お気に召した子』は総務部所属ばかりで、そこに何か意図がある気もした。本来ならASK推進企画室の手助けを借りずとも、どうにかできるだろうという兵ばかりだが、だれからともなく企画に乗ってみる方向へと進んだ。
ASK推進企画室へ連絡をすると、そうしたときからいまに至るまで、ご丁寧に彼女たちの成長ぶりを含めた様子を例のとおり何度も封書で知らされた。白々しいほどに褒めたたえたエピソードがあれば、失敗して落ちこんでいるとか。大丈夫か、と気になるあたり、嵌められている感は否めない。
会ってみてわかったのは、彼女たちがASK推進企画室の存在どころか、こうやって会っていること自体に戸惑っていて、明らかに何も実情を知らないということ。
ようやく和んだのもつかの間、閉店間際というお開きの時間になり、携帯電話の番号とメールアドレスの交換を始めた。
「昨日、ケータイを違うところに変えたばっかりで、呼びだし方がわからないんです。アドレス、憶えてなくて」
「ケータイ、おれのと同じみたいだ。貸してくれるんなら呼びだしてみるけど」
「あ、お願いします」
「ストイックさんのアドレスは長いんだよね。迷惑メール避けるためだっていっても複雑すぎると思う――」
「何、それ」
「え?」
口を挟むと、目のまえの彼女がきょとんとおれを見つめた。
「ストイックさん、て何?」
「あ……えっとケータイ用の名前です。みんなの第一印象の話をしてるときに、なんとなくおもしろいなって始めたんですけど。見られてもわたしたちにしか、だれかっていうのはわからないし」
「って言いながら、おれたちにバラしてる」
おれが指摘すると彼女の頬が赤くなった。
「この際、おれらもケータイネームをつくるってのはどうだ?」
「それ、いいな。内輪の社内伝言にも便利かも」
横に座ったふたりが言いだし、結局おれたち四人にもふざけたケータイネームがついた。
そろって店を出ると駅まで送り、また会うことを約束して別れた。
何も知らない彼女たちからすればただの合コンにすぎず、おれたちからすれば捕獲場となるわけで良心が痛まなくもない。
独りになると喫煙ブースに行って煙草を取りだした。口に咥え、火をつける。
痛む必要なんてないだろう。
前提がASK推進企画室の条件に沿っていることには違いない。
半年まえと変わらない、さっき見た彼女の笑顔が浮かぶ。
――落とさなくてよかった。
果たして、落ちていない、のか――。
紫煙を燻らせながら、独り笑った。
第一話 口説く男
* キラー~プライド~
新人研修期間も明日を残すのみとなり、営業部に宿舎の泊まりこみ当番がまわってきた。日替わりで新人たちは男十五人、女五人というグループが構成されるが、その一つのグループを任されて午後から研修に付き合った。
夜は、最後の晩餐ともあって和気あいあいと、時に、はしゃぎすぎるほどの笑い声が飛び交う。
「竹野内さん、営業の仕事、たいへんですか」
その質問でグループ内の視線が全部おれに集中した。
「たいへんじゃないことはない」
「それって余裕の発言ですよね」
「ここでたいへんだって言いきって、月曜日、もし営業部に配属ってなったら挑戦するまえに引くだろ?」
そう答えるとどっと沸いた。おれは首をひねって続けた。
「正直にいえば、営業の世界はシビアだし、些細なことでこじれることもある。根底は人間関係にあるから。けど、相手に入りこめて返ってくる成果はちょっとした快感だ」
「竹野内さんが快感て言うと、なんか違うこと想像しますよ」
このなかで最も物怖じしない新人男子が言葉尻を捉えてふざけた。おもしろがった笑い声とため息がさざめく。
「やだ。また下品な話になるの?」
「あ、でも竹野内さんにカノジョがいるのか知りたいです。モテますよね」
「わたしも知りたい。できれば立候補もしたいですけど」
「それで営業やってて得したことってあります?」
渡りに船だったのか、一人の新人女子が男子の発言に便乗すると、矢継ぎ早に遠慮のない発言が降りかかってきた。〝快感〟が下品かどうかは別として、おれにとってはあまり歓迎したくない話題だ。
「プライベートに関してはノーコメント。営業に関して言うなら使える武器は全部使う。だれだってそうだろ」
小さく悲鳴があがったが、おれは肩をすくめて流した。
こういうことにいちいち反応すると本当に立候補者が現れたり、ありもしないことが情報として流れたりしたすえ、収拾がつかなくなる。去年の初の研修指導参加でそう経験済みだ。さっきと同じ質問を受けて、いない、とつい正直に答えてしまったすえ、独り暮らしもばれて日替わりで〝手作り弁当〟攻撃が始まったのだ。
ただし、答えを避けたところで、新人たちは勝手におれについての憶測話で盛りあがっていく。答えないという方法もあまり役に立たないとわかって、おれは内心でため息をついた。
もちろん男である以上――という言い方はある種、男の言い訳だろうが、寄ってきた女を摘んだこともある。特定のカノジョという面では、大学時代に一度だけ経験した。いつものごとく寄ってきた女だったが、ミスキャンパスの推薦を受けるほどの容姿もさることながらストイックで頭がよさそうだったし、付き合うということを知ってもいいと思った。ただ、あまり喋らないおれに不安を抱いたらしく、しつこく『わたしのこと好き?』と訊かれることに辟易した。
それ以来、〝特定〟は避けてきた。
裏を返せば、本当に好きであればいくら確かめられても、うんざりすることはなかったのではないかと思う。つまり、好きという気持ちがおれには欠けていたのかもしれない。おれが求めるものに、いわゆる〝イイ女〟という条件は関係ないのだろう。
新人たちの一向におさまることのない駄弁を傍観していると、ただ一人、黙りがちな女子に目が行った。
研修時の率直な発言を見るかぎり、自分なりの判断はできていて、話しかければ普通に喋り、積極性は乏しいものの、そうおとなしいわけでもなさそうだ。黙りがちだがむっつりとした表情でもなく、むしろ話を聞いて笑っている。ただ、遠巻きに眺めているといった感じが否めない。
それは食事後の解散で思い思いに集まった畳の広間でも同じだった。たまに自分から話に加わっているが、端に座った彼女はほとんど大型のテレビ画面に見入っている。
彼女は、高くも低くもない背の高さに、和風寄りの癖のない顔立ちと、外見のみをとれば特別惹く何かを挙げるのは難しい。気になるのは、何気ないながらもじっと観察しているような瞳だ。
「松浦さん、退屈?」
彼女の横に座りこむと、ぎょっとした顔が向けられた。ただのびっくりではなく、拒絶が見える〝ぎょっ〟に内心苦笑いした。おれがあまり受けることのない――それよりは真逆の反応だ。
「え……いえ、そんなことありません」
「松浦さん、下の名前はなんだっけ」
「……ちひろ、です」
当惑した声音だ。
「おれは、瑛」
「知ってます」
肩より少し上までのストレートヘアを揺らしながら彼女が可笑しそうに答えると、おれの自尊心が回復した。
「友だち、できた?」
「はい。いま三人ともお風呂なんです。わたしは今日、最終組であとからになりますけど」
「研修はどうだった?」
「まだわからないことだらけですけど、いろんな部署の先輩方と知り合えたので、どこに行くにしても少しらくな気分になってます。声かけてくれる人もいるから――いま言った三人のことですけど、業平は居心地いい感じです。あ、仕事はたいへんだとわかってるんです」
「独りでいるほうが好き?」
唐突かもしれない質問を投げると、彼女は不思議そうに首をかしげ――
「そんなことはないです」
と即答した。それならどういうことだろう。
「竹野内さん、商社マンは家に帰る暇がないとか聞きますけど、どうなんですか」
彼女は、けっして独りにしてほしいとは思っていないことを裏づけるように、自分から話題を挙げた。
「自分次第だろうな。おれはちゃんと帰るけど」
「有能だって自分で言ってるみたいですね」
「そのつもりだ」
すまして肯定すると、彼女は瞳をくるっとまわしてくすくすと笑った。心底にある何かをつつかれた気がした。
それから仕事と世間話を行ったり来たりしながらふたりで語り合った。まっすぐにおれを捕らえている瞳はくるくると表情を変えて、彼女は驚くほど反応がいい。彼女から話しかけてくることも多く、その率直さは素直さの表れだろうか。
やがて、近くにいた男女も加わってきた。
渋々と――思わず湧いた感情におれは内心で眉をひそめつつ、表面では歓迎を取り繕い、彼らを迎え入れた。
それからまた彼女に目を戻すと、ふたりで話していた間、おれから離れることのなかった瞳が逸れた。同時に、彼女が直接タッチできない膜を覆ったことに気づいた。
* ストイック~キスの味覚~
女四人集まれば、美人(ビューティ)さん、可憐(プリティ)さん、才女(ウィット)さん、並(ノーマル)さん、男四人集まれば、色男(キラー)さん、道化師(クラウン)さん、魅惑(ヴォイス)さん、優男(スレンダー)さん、といてもおかしくない。
おかしくないけれど、よくこれだけ個性派が集まったなと感心している。このなかに入れば並も個性に見えるという、ある意味、お得な空間ではある。
それがどうくっつくかというと微妙な気配。
理想からいえばどういう優先順位がつくだろう。
わたしはクールに見られるらしく、ストイックさんとは呼ばれているものの、何をとってもノーマルでしかないわたしからすれば、順位争奪戦に加わったところで無意味だ。まったくもって労力の無駄遣い。
そもそも、わたしがこのなかにいる理由なんて数合わせにすぎないのだと思う。グループ交際が始まったのはおよそ半年まえの十月初旬。言いだしっぺがだれかは知らない。わたしは最後に声をかけられたわけだから。
同期入社で三週間の研修期間を経て、前出の順番からいくと、総務課、経理課、人事課、庶務課というちょっと地味な部署への配属になった。社内一を争う派手な部署、営業部に比べればはっきりいって閉鎖的だ。イメージするなら、わたしたちは縁側でひなたぼっこをしながらお茶している感じ。テラスでケーキセットを食べている雰囲気の部署とは大違いだ。
つまり、出入りは〝長いものに巻かれろ〟的なおやじたちがほとんどで職場に華がない。女のわたしがこう言うとへんだろうか。
ただこんなふうに説明すると不満に聞こえそうだけれど、そうではなく、元来わたしは地味な性格だけにここが合っているようで、気に入ってもいる。
研修中に仲良くなった彼女たち三人とは、約束どおり毎週金曜日の食事会が続いた。お酒もだんだんと美味しく感じるようになったし、だれかの家に集まってみんなで料理をしてお酒持ちこみのお泊まり会をすることもある。そんなふうに楽しく付き合っていたなかでの合コンのお誘いだった。
女子短大を卒業して、入社半年を越えた十月のこと。
相手は営業部の勤務歴数年という男性たち。うちの会社の営業部は兵ぞろいと聞く。半年もたつと社内の噂も少しは耳に入るわけで、合コンの相手を聞いたらみんな知った名前だった。
いずれにしろ、総務部と営業部とでは仕事上の接点がなく、同期ならともかく入社半年ではほとんど面識がない。強いて挙げるなら、新人研修のとき、向こうは憶えていないんじゃないかと思う程度にちょっと話したくらいだ。
まあ、合コンというのはあらかた初対面が普通のはず。
普通ということにこだわれば、合コンでだれかとだれかが意気投合してくっつくことはあっても、ずるずるとそろって会うということは普通ない――というのも、ほかの子に聞いたところによると、だけれど。
人の情報に頼らざるを得ないのは、わたしは合コンなんていう集い的なものを苦手としていて、今回を除けば一回しか参加したことがないのだ。
どこがどうなってこうなっているのかよくわからないまま、初会から半年たったいま金曜日の飲み会は恒例になってしまった。休みの日も八人そろうときは、美術館のような知的な場所から遊園地という子供っぽい場所までと、どこかに出かけることもある。
社会人になってもグループ交際とはちょっと幼い気がするけれど、楽しいよねと賛同を求められれば楽しいと認めるかもしれない。
わたしには性格上、問題あり、なところもあるけれど、この場所はなぜかけっこう居心地がいい。
庶務課の仕事についてはほぼ一年たって、自分で判断したり動いたりと、一人前とは呼べないまでもぼちぼちと周りを窺える余裕が出てきた。
愛想笑いしていればおやじ、もとい、上司は喜ぶし、それなりに仕事を憶えたせいか、先輩たちに顔をしかめさせることもなく、わたしにとっては平和な生活が続いていた。
そう、〝いた〟のだ。三月の半ばになってそれが怪しくなってきている。
その原因は――。
「ちひろ、弁当」
十二時五分。アラームもどきの時間の正確さで、並列並びしているデスクの間を縫ってやってきたのは、まさに平和をさえぎる原因だ。
周囲のことなどおかまいなくわたしのところまで来ると、当然のように要求した。
「どうしてわたしが竹野内さんのお弁当を持ってこないといけないんですか」
声を潜めたところで無意味なくらい庶務課はしんとしているように感じた。
気後れしないことはなく、努めて何気ないふりをする。だって、プリティさんならともかく、じたばたしても並なわたしは全然可愛くないし、うざったいなんて思われたくもない。平然としていることがベストだ。
あ、そうなんだ。こういうところがクールに見えてしまうのかもしれない。
そんなことを悟っていると、竹野内さんは肩をそびやかすという尊大なしぐさを見せた。
「ひどいな」
「理不尽です」
わたしはきっぱりと切り返した。
事の始まりは先週の金曜日、三月十三日。
――今度、弁当作ってきて。
庶務課に乗りこんでくるなり、グループ交際一員のキラーさんこと、営業部化学事業部門営業課の竹野内瑛は宣言した。
〝頼む〟でも、ましてや〝言う〟でもなく、命令に近い宣言。
月曜日、十二時五分にやってきて、わたしが作ってきていないことを知ると、竹野内さんは、「可笑しいな」とちょっと眉間にしわを寄せてつぶやいた。
べつに可笑しくもないけど、と思いつつ退散を待ったものの、一向に竹野内さんは出ていく様子がない。それどころか目のまえにかがんで腕をデスクに預け、椅子に座ったわたしを見上げた。
日頃は見上げることが多いだけに、見上げられる側となると戸惑いがなくもない。
.....試読end.