ONLY ONE〜できること〜 #41

終章 いま幸せですか

   

「良くん、どうかした?」
 ライティングデスクの整理をしていた良哉の手が止まっていることに気づき、昂月は声をかけた。
「いや……昂月、この書きかけの楽譜(スコア)、おれが預かっていいか?」
「……? うん、いいよ。形見に持ってて」
「ああ」
「急に呼びだしちゃってごめんね」
「これくらい、お安いご用だ。高弥も大変だよな」
 言葉とは裏腹に、良哉の口調は少しも案じているとはとれない。むしろ、おもしろがっている。
 一昨日、レクイエムライヴを終えて、やっと引越しを決める気になったのはいいが、英国ホテルに置きっ放しだった祐真の持ち物が予想以上にあり、一人で持ち運びするには何度も行ったり来たりを繰り返しそうで、良哉と慧に応援を頼んだ。
「高弥は来ないほうがいいの。報道がタイミングいいといえばいい感じ」

 昨日発売だった週刊誌の記事には、イギリスから帰国後、ドライブに行った先で、車に乗る瞬間の昂月とドアを支えている高弥の写真が掲載された。昂月の顔はモザイクになって一年前のように判別できないが、高弥の顔ははっきりしている。
 祐真の妹であることを(かんが)みれば、高弥と祐真が親友だっただけに、云い逃れしようと思えばできなくもない。最初、高弥が昂月に約束したように、かわりに面倒をみている、とでも。
 けれど、ユーマとFATEの新曲が同じ曲名であることに加えて、無償である意味、そして航の(たわむ)れによった、『愛してる』の波紋が憶測となり、云い逃れを難しくさせた。
 昨日から尾行が多くて高弥は閉口している。
 こんな引越しの手伝いなどさせたら、それこそいいネタにされる。高弥がやって来ることで、祐真がここで終わりを遂げたことまで調べられてしまうかもしれない。そうなって真貴に迷惑をかけるわけにもいかない。
 要するに昨日から会えないままだ。
 昨日、高弥は事務所と協議した結果、公言することを渋々ではあったが認めさせて取材の場を設けることになった。今頃はインタヴューの最中だろうか。

「引越しを今日やってること、高弥には教えてないから」
「なんで?」
「引越し先……」
「……そういや、聞いてなかった」
 慧が横でくすくすと笑っている。
「良哉兄ちゃん、高弥さんちの隣の部屋なんだって」
 昂月のかわりに慧が教えると、良哉は呆気にとられた。
「高弥のお父さんの(はかりごと)。それで、高弥の驚く顔が見たいんだって」
「……一緒に住めばいいだろ」
「……そうしたい気持ちはあるけど、自分と約束したの。願い事が叶うまでは高弥に甘えきらないって。でもたぶん、一緒に住んでるのと変わんないかも……」
「高弥が放っとくわけないしな」
 良哉は再びライティングデスクを整理しながら昂月をからかった。
「通い婚みたいなもの?」
 慧も可笑しそうに応じた。
「あれ……?」
 クローゼットを見渡していた昂月がつぶやいて顔を曇らせた。
「昂月、どうしたの?」
「……うん。祐真兄のジャケット。いちばん気に入ってたのがないの」
「ああ、あのグリーンのジャケットか? 家には?」
「ううん。家の荷物はある程度は午前中に持っていこうと思って、そのときに探したんだけど見つけられなかった」
「そのうち、こんなところにって出てくるんじゃないか?」
「……うん。こんなふうに祐真兄のを整理できる日が来るって思ってなくて……でも、やっぱりこうやって片づけちゃうのもさみしい。だから、祐真兄が大事にしてたもの、一つくらい持っておきたいなって思ったの。着るものだったら、なんとなく温かい感じがするし」
「高弥が()くぞ」
「高弥はそんなに心狭くないよ?」
「おまえがそう思ってるだけだろ? あいつは冷静にかまえてるけど……まあ、まえよりは砕けてきてるから、それ以上におまえが振り回して高弥が()になるのを期待してるよ」
「振り回すって、なんだか人聞き悪い」
 昂月が顔をしかめると、良哉は、
「早く終わらせるぞ」
とごまかすように肩をすくめた。
「良くん、何が云いたいの?!」
「昂月、引越し祝いも準備しなくちゃいけないし、早くやるよ」
 良哉を庇って慧が急かした。
 明らかに慧は良哉が云わんとするところに賛同しているが、急ぐべきことも事実で、昂月は仕方なく引き下がって荷造りを急いだ。

 祐真の荷物は家に持ち帰り、その後、マンションへ行って慧と二人で当面の引越し祝いの準備をした。
 盛大な引越し祝いは飲み会の口実にされて、FATEのメンバーとともにあらためてやることになるだろう。
 夕方になって良哉が追加の買いだしから戻った頃に、携帯が鳴った。
『昂月ちゃん? 私だ。高弥はいま、車を止めてる。すぐ、一緒に上がっていくよ』
 伊東の声には悪戯心がいっぱいに詰まっていて、昂月は笑いながら了解した。
「高弥さん、帰ってきたの?」
「うん」
 慧までがわくわくしているようだ。
 昂月は高弥を呼びだした。
「高弥、いまどこ?」
 昂月が白々しく電話越しの高弥に訊ねると、慧は吹きだしそうになる。ほかの参加者も笑いを堪えた。
『いま帰ってきた。何してる?』
「引越し」
『引越し?』
 眉をひそめていそうな声で高弥が問い返した。
「そう。これから引越し祝いしようと思ってる。来てくれるよね?」
『なんで黙ってやるんだ? 手伝ったのに……』
 そう云うなり、昂月の返事を待たずに高弥が電話の向こうで、伊東に抗議している声が小さく聞こえる。
 昂月は玄関へ行ってそっとドアを開け、エレベーターの十一階の数字が点灯したのを確認して、またドアを閉めた。
「高弥?」
『……ああ。いま、父さんと一緒なんだ。それで、どこなんだ?』
「んーっとね……」
 生返事をしつつ、タイミングを計る。足音がドアの向こうから聞こえ、鍵とキーホルダーがぶつかる金属音がした。
『……昂月?』
 昂月はドアを開けた。
「高弥、ここ!」
「高弥さん、お帰りなさい!」
 昂月がドアを出るとともに、背後から慧も出てきて声をかけた。
 高弥は携帯を耳に当てたまま、茫然自失といった様だ。携帯を下ろすと、少しうつむいて髪をかきあげ、声を出して笑った。
「父さん、ありがとう」
 横に立った伊東は、照れながら云った高弥を満足気に見ている。
 伊東親子の溝が以前より浅くなっているようで、昂月もうれしくなった。
 そのまま彼らは昂月の部屋に入った。
「よう。会見はどうだった?」
「問題ない。しばらくは煩いだろうけど、そのうち飽きるさ」
 玄関まで出てきていた良哉の問いに、それに関しては動揺した様子もなく高弥は返事した。
「おまえがどう対応したのか興味ある」
「ワイドショーでも見るんだな。月曜日にはどの局もやってる……」
 リビングに入った高弥の足が止まり、言葉が途切れた。

「……なんでこいつがここにいるんだ?!」
 高弥が昂月を振り返って責めるように叫んだ。
「せっかく友人になったんだから親交を深めようと思っただけだろう?」
 昂月より早く答えたのは高橋だった。
「……だれが友人だって――?」
「高弥! あのね……ちょうどホテルを出ようとしたときにばったり会って――」
「まだ昂月の周りをうろちょろしてるのか?」
 高弥は昂月をさえぎって高橋に批難を向けた。
「あの……だから、あたしが誘ったの! 迷惑かけたし……」
「だれに?」
 高弥が疑うように昂月を見下ろした。
「え……? 高橋さんに……」
「なんでそういう考えに至るんだ? 迷惑かけたのはこの高橋って奴だ。しかも未成年のおまえに酒まで飲ませてんだ。未成年者飲酒強要罪で訴えてもいい! ついでに昂月、酒を飲んだおまえもおまえだ。一緒に捕まりたいか?」
「……高弥……えっ……と……」
 昂月が逆上している高弥を見上げて戸惑いつつ首をかしげたとたん、良哉の笑い声が爆発した。(もろ)に良哉が狙った素が見られた瞬間だった。
「高弥、おまえも変わったよな」
 やっとそれだけを口にして、良哉はまた笑いだした。
 慧と伊東も吹きだしているといった具合だ。他人事のように愉快そうに眺めている高橋の横で、真貴がにこやかに笑っている。
「安心しましたよ、いまのお二人を見て」
 どこに安心材料があるのか、昂月はよくわからないまま、とりあえず、はい、と返事をした。
 一方で、高弥は苦々(にがにが)しく顔を歪めてむっつりと黙り込んだ。

 それでも食事が進み、お酒が入ってくると、高弥も気を取り直し、良哉と高橋も含めて三人で何やら談議に盛りあがっている。
 九時を過ぎた頃、だれともなく立ちあがってお開きになった。
「昂月お嬢さま、さみしくなりますよ、喜ぶべきことですが」
「はい。お世話をかけました。またかってうんざりさせるくらいに顔を見せに行きます」
 真貴は目を少し潤ませてうなずいた。
「ぜひ、高弥さまとご一緒に。ご馳走させていただきますよ」
 エントランスまで見送って、ふたりは昂月の部屋へ戻った。

 テーブル一つしかないリビングの床に座り込んで、酔い覚ましに高弥にウーロン茶を渡す。
「びっくりした?」
「こうくるってだれが予想すると思う?」
 あらためて訊ねると高弥は可笑しそうに問い返した。
「当のあたしだってびっくりしたから」
「最高の防犯設備か……父さんもやるよな……最近……」
「何?」
「不意打ちをやられてばっかりのような気がする。ペースがめちゃくちゃだ……怒鳴って悪かった。頭に血が上った」
 昂月はくすくすと笑う。
「いいの。あたしのことを考えて怒ってるってことくらいはわかるから」
 それでも高弥は後悔に大きく息を吐いた。
「それより、高弥……あのね……」
「なんだ?」
「えっと……引越しって急に決めたでしょ。それで……」
「それで、何?」
 高弥は云い難そうにしている昂月を促す。
「……だから……布団がないんだけど!」
 高弥は笑いだし、
「コーヒー淹れてくれるんなら、泊めてやるよ」
と返事を聞くまでもなく、防犯設備の役目を放棄して昂月を攫っていった。


 二年後。
 キッチンで来客を迎える準備をしていると、泣き声が上がった。昂月はタオルを取って手を拭きながら、リビングのソファの横に置いた小さなベッドのところへ急いだ。
「もう、起きちゃったの?」
 そう声をかけると一旦止んだが、また泣きだした。微熱があるので、ぐずるのは仕方ない。
「抱っこ?」
 そう問いかけると、不機嫌ながらも一才を過ぎたばかりの小さな手が伸びてくる。
「マ、マ……」
『ママ』か『まんま』、どちらでも取れるような片言の寝ぼけた言葉が呼びかけると、電話も昂月を呼びだした。
「高弥、講義、終わったの?」
『ああ。講義のあと、教授に呼び止められて遅くなった。いまから帰るけど、追加で買ってくるものはない?』
「ないと思うけど、どうしよう、まだ準備終わってない。芽衣ちゃんを寝かせるのに戸惑っちゃって」
『良哉たちが来るのは六時くらいだし、(かしこ)まる必要もない。育児放棄しないように頑張れよ。じゃ、すぐ帰る』

 今年の春から高弥は大学に復帰して、昂月と一緒に来年の春の卒業を目指している。
 歌をやめたわけではなく、この春から二年、FATEは充電期間に入った。
 充電期間というのはファン向けの建前のような気もするが、つまり、高弥と航は一年、健朗は二年を残して大学を休学していたなか、卒業はしようという気持ちが三人ともに固まった結果で、自我を高めるためと思えば充電期間と云えなくもない。
 三人が復学したということで、当初の一カ月くらいは大騒ぎといっていいくらい、大学もそわそわとした雰囲気が漂っていたが、そのうち彼らの云うとおり、いるのがあたりまえになるとずいぶんと落ち着いた。
 有名人と仲良くなりたいという、見え見えの気持ちで近づいてくる人を追い払うのに苦労していたものの、講義以外のときは三人と昂月たち、だれかしら固まるようにしていたので、だんだんと遠巻きに見られるようになっていった。
 高弥の“彼女”として公然となった昂月はもちろん、慧たちにも対してやっかみが無きにしも(あら)ず、のなか、何人か新しい友人ができたようで、三人とも楽しくやっている。
 ライヴは凍結になっているが、活動をまったく休止したわけではなく、アルバムも手がけていて、テレビ出演も頻度(ひんど)を抑えたくらいで露出はしている。欲求不満をそこそこに溜めて二年後、一気に活動を全開にすることでファンも喜ぶはず、と唯子は計算している。
 FATEをいかに不動の地位まで持っていくか、という戦略を練ることに生きがいを見いだしている唯子は、ますます(きわ)やかになって憧れるばかりだ。
 いまでも不動の地位に近いと思うのに、唯子もFATEも狙っているのはまだ上らしい。
『二年間、ゆっくりふたりで過ごさせてあげるから、その後は協力お願いね』
 恩着せがましく云った唯子には、いろいろと無理をさせたこともあって頭が上がらない。
 逆らえないと知っていてお願いした唯子が云う協力とは、活動再開した(あかつき)にライヴツアーに同行すること。
 二年前、高弥が彼女の存在を公言した会見後のファンの反応は甘くなかった。
 それを緩和(かんわ)させたのが、無期限で無料配信したFATEの“ONLY ONE”だった。
 携帯版も合わせると、ほぼ日本の人口に匹敵する人がダウンロードした換算になる。いまは海外のファンもついているうえ、無料なので当然といえば当然だった。
 けれど、そのかわりであるように高弥がこの曲を公の場で歌うことはない。
 ただ、今年の一月にやったドームの二日間ライヴで、はじめてアンコールの曲として歌った。
 その後、打ち上げに同席した、いまではすっかりFATEの友人を公言している高橋が、航から秘話を聞きだした。
 何かとFATEを擁護(ようご)して芸能記事に手を出すようになった高橋が、記事にしてしまったことは云うまでもない。
『“ONLY ONE”は彼女が傍にいないと歌えないらしい』
 その記事のおかげで“ONLY ONE”のナマ歌が聴きたいと、なぜか、『ライヴには彼女を連れて来て』コールがはじまった。
『これでファン公認になっただろう』
 高橋は後ろめたいどころか、高弥に恩を売った。
 こういう経緯があって、唯子の協力依頼に至る。おかげで昂月は就職活動もできない。

 ふぇ……っ。
 昂月の腕の中でうとうとしていた芽衣が、悲しい夢を見たように一泣きしてまた静かになった。
「芽衣ちゃん、ママがもう……」
 話しかけているとき、ちょうど電話が鳴った。芽衣を片手に持ち替えて携帯を耳に当てると息切れした声が届いた。
『坂田です。ごめんなさい、遅くなって。いま下にいるの』
「いえ、大丈夫ですよ。上がってきてください」
 電話を切ると、玄関のドアの開く音がしたので昂月は芽衣を抱いたまま廊下に出た。
「おかえり」
 靴を脱いで顔を上げた高弥は一瞬、動きを止めた。
「……ただいま」
「どうかした?」
「……なんでもない。子供の熱、大丈夫か?」
「うん。ちょっとぐずってるけど、なんとか。いま、芽衣ちゃんのお母さんが下に着いたみたい」
「荷物は? 取ってくる」
「ソファの上」
 高弥はリビングに行ってすぐにマザーズバッグを手にして戻ってくると、先立って玄関を開けた。
 ドアを出たところで、芽衣の母親がちょうどエレベーターを出てくる。
「昂月ちゃん、ありがとう、いつも。仕事がなかなか抜けられなくて」
「どういたしまして。ドクターは風邪だろうって。三十分くらい眠ってさっき起きたの。薄めたポカリを飲ませて抱っこしてたら眠ったんだけどやっぱり機嫌が悪い」
 芽衣を母親に返しながら様子を伝えた。
「バッグ、下まで持っていきますよ」
 高弥が申し出ると、子供のことを気にかけていた母親はその存在にはじめて気づいたようで、あら、と声を出して固まった。が、すぐに気を取り直すと、あらぁ、と微妙に語尾を伸ばして同じ言葉を繰り返し、
「いいのよ、母は強し、だから」
と心得顔でバッグを受け取り、坂田親子は帰っていった。
「子供の扱い、慣れたみたいだな。最初の頃は怖々で疲れ果ててたようだけど」
 部屋に戻りながら高弥が可笑しそうに云った。
「一年かかってやっと、ね」

 昂月はどの方面に進もうかと自分がやりたいことを探していたなか、一年前、両親と一緒に食事を取っていたとき、芳樹がふと、勤めている病院で日帰り手術の患者がいるが、母子家庭で三才の子供の面倒を見てくれる人が都合つかないらしい、と漏らしたことによってそれが見つかった。
『じゃあ、あたしがその間、見てるよ』
 軽く請け合ったものの、入院した母親の母親、つまり預かった子の祖母の手が空いて迎えに来るまで、病院のプレイルームで扱い慣れない子供相手に孤軍奮闘した。
 疲れたけれど、見返りの感謝の言葉と子供の、ありがとう、ばいばい、という笑顔で一気に報われた。
 そう話した昂月に、母子家庭支援施設というのがあるからそういうところで働いてみたらどうか、と芳樹が助言した。
 見学をしに行ったとき、流れで手伝いをしたことにより、そのまま実習を兼ねてボランティアとしてやっている。
 坂田親子は施設に入所しているわけではないが、連携している保育園での縁により、今日のように熱を出したりという緊急の場合に個人的に援助するようになった。
 正式に施設の雇用試験を受けようと思っていたが、唯子のお願いのため、定職にはつけないので、このままボランティアとして活動を続ける。
 ファンが積みあげてくれる祐真の遺産を食い潰しているようで、罪悪感がないわけではないが、祐真自身の生まれた境遇を考えると祐真も許してくれそうな気がする。

「急いで、準備しなくちゃ。あと一時間もない!」
「慌てるな。良哉たちが来てからでも充分だ。おまえは慌てると何か一つは失敗やらかすだろ? このまえ良哉のところへ駆けつけたときはタクシーの中に教科書を忘れるし」
 キッチンに入りかけた昂月は足を止めて、あとをついて来ていた高弥を振り向いた。
「高弥、なんだかすごく意地悪になってない?」
 不服そうな昂月を見下ろして高弥は笑い、昂月が嫌がっている出来事を持ちだす。
「慌てた挙句、昂月がやったいちばんの失態は州登に自分を差しだしたことだ」
 自分で云いだしたくせに、高弥自身が不快さを甦らせて顔をしかめている。

 二年前の報道、そして会見後、祐真のことを含めて、あることないことの中傷記事がなかったわけではない。
 そのときに高橋が宣言したとおり、弁護した記事を書いたことで、世間がどう受けとったかは知らないが、少なくとも昂月の傷が緩和されたことは事実だ。
 それ以来、高弥は努力の限りで寛容にかまえている。
 冷静さを欠いた高弥が見られるのを楽しんでいた良哉は残念そうだが、高橋から州登という呼び方に変わるほど“友人”になったにも拘らず、高弥はいまだに雄弁すぎる高橋を扱いかねている。
 高橋自身は高弥のことが心底、気に入っているようだ。特定の女性と付き合うでもなく、独身を徹していて、まるで身内のように連絡もせず、高弥と昂月を不意打ちで訪ねてくる。そして高橋が帰ったとたん、高弥は昂月にちょっと機嫌が悪いところを見せる。
 良哉は、
『嫉妬だろ? 祐真に似てるし』
とおもしろがって昂月に教えた。
 不機嫌なのがうれしいというのもどうかしてると思うが、普段、泰然としているだけに、昂月の特権のような気がした。不機嫌というよりは、おれを見てろ、という高弥のわがままとも感じる。

「間に合わなかったらどうしたの?」
 昂月が逆襲すると、自らの首を絞めることになった高弥がこの上ない不機嫌さを顕わにした。
「失敗、じゃすまされない」
 高弥はつぶやくと、突き動かされたように昂月のくちびるを襲った。すぐに昂月が躰を(ゆだ)ねて応えると、高弥は気がすんだようにやさしくなる。
「昂月、結婚したい。通い婚はもういいかげん、面倒くさい」
 高弥が少し顔を上げて、なんの心構えもない昂月のくちびるに囁いた。
 昂月は目を見開き、次には困ったようにすぐ傍にある高弥を見上げた。
「高弥、あたしは――」
「返事はあとで聞く」
 まだ昂月の願いは叶っていない。ということは返事は決まっている。
 それを知っている高弥はあえて昂月に最後まで云わせなかった。
『あとで』というのがどれくらいの『あとで』を示すのかわからないまま、昂月は高弥とテーブルのセッティングをしたり、準備を急いだ。

鈴亜(れあ)ちゃん、もう傷は全然問題ないのかな?」
「全然てことはないだろうけど退院はしたんだし、命に別状がないってことはたしかだ」
 今日は良哉が彼女を連れて来る。
 彼女、鈴亜は、トラブルという言葉ではすまされないほどの過程のなかで怪我を負った。
 やっとその傷も()え、高弥の提案で今日は快気を祝って四人での食事会だ。
 鈴亜と出逢ったことでそれまでの(つか)えが吹っきれたらしく、良哉はFATEに復帰した。戒斗と唯子はもちろんのこと、だれもが歓喜したことは云うまでもなく、ますます上昇志向に拍車がかかった。
「良くんが面倒くさいって云ってた生徒に手を出したってことも信じられないけど、それよりも良くんが慌てるのって一生見られないかと思ってた」
「良哉の立場だったらおれも……」
 高弥が云いかけたとき、昂月の電話が鳴った。直後にドアベルも鳴って、来客を知らせる。
「おれが行く。電話、出ろよ」
「うん」
 携帯の着信音はめずらしく非通知着信だということを知らせている。

「はい?」
『……昂月さん?』
 忘れられない声が昂月の名を呼ぶ。いま電話をくれたことの意味は一つしかないはず。
『いま幸せですか』
 そう訊ねた声はまえと同じなのに、届く印象はまったく違っていた。
「はい」
 高弥が良哉たちを連れてくる足音がする。
「いま……幸せですか」
 すでに彼女の声に答えを見いだしつつも、昂月が同じ言葉で訊ねると同時に、高弥の後ろから、携帯を耳に当てた鈴亜が良哉を伴って入ってきた。

 祐真とのことは昂月の中でだんだんと柔らかい色に染まりつつある。
 祐真兄、あたし、気づいたの。幸せじゃないときなんてあたしにはなかった。どんなに苦しくても愛はあったから。いまもそれに守られている。
 あの少女()も――。

「はい、幸せです」
 直に聞いた声はたしかに電話からの声と変わらない。

 近寄っていきなり鈴亜を抱きしめると、彼女は戸惑うように身動(みじろ)ぎした。
「どうして……気づかなかったのかな……」
 昂月はつぶやき、腕を解くと、溜まった涙で、照れ笑いしている鈴亜の顔が滲んだ。横に立った高弥を見上げると涙が頬を伝う。

「……高弥……知ってたの……?」
「ああ。彼女の名前を聞いた瞬間にそうじゃないかと思った。二年前、真貴さんに無理やり白状させたんだ」
「……意地悪……」
「鈴亜ちゃんが幸せじゃなければ知っても意味なかっただろ?」
 昂月に対する高弥の忠実さにはだれも敵わない。
「返事は?」
「……壁、いますぐ壊して!」
 そう云うなり、良哉と鈴亜のまえで体裁もかまわず、昂月は高弥に手を伸ばした。
 昂月の大好きな少年のような笑みが高弥の顔に満ちる。

「さっき、子供を抱いてる昂月を見たら、未来のおれたちが見えたんだ」
「うん」

 高弥の腕が昂月を幸せの中に閉じ込めた。

The Conclusion. Many thanks for reading.

BACKDOOR
    
あとがき
2008.05.17.【ONLY ONE 〜できること〜】完結/推敲校正済
大切な人と、死という別れ。二度と会えないことのつらさ。
けれどそれが終わりではないこと。別れから始まるものがあること。 心の継承は絶えないことを、この物語でお伝えできたらいいな思います。
昂月のマイナス志向も高弥に廻り合ったことで立ち直っていく。
どんなに傷ついても苦しくても、そういう出会いやきっかけを見逃すほどに心を閉じないでほしい。 そんなエールを込めて。   奏井れゆな 深謝

Material by Heaven'sGarden.