NEXTBACKDOOR|オフリミット〜恋の僭主〜

Chapter1 innocent&inhumane

2.ふぃーる   #5

 帰る頃には霧雨になっていて、校門を出て、じゃあな、と横断歩道を渡って実那都たちとは違う方向へと歩いていく祐真と良哉は傘も差していない。
「持ってやる」
 ふたりきりになったとたん、航が実那都の手から傘を奪った。航も傘を差していない。
「傘くらい……」
「おまえとおれのデコボココンビじゃ、話すにも傘が邪魔して顔が見えねぇ」
 頭の天辺が航の肩くらいまでしか届かないから、実那都が傘を差せば確かに航からは顔が見えないだろうし、実那都にしろ航の顔を見るには傘を高く上げなければならない。その点でいえば合理的だろうけれど。
「じゃあ、わたしも傘は閉じてく」
 航は実那都のほうに傘を傾けていて、実那都だけ雨から守られて航をないがしろにしているみたいで申し訳ない。

「だから、遠慮するんじゃねぇ。おれがやりたいからやってる。おまえに損がない以上、おまえには拒否する権利がねぇ」
 むちゃくちゃな論理だけれど、航が云ったように実那都に損があるわけでもないし、航は実那都の性格を見越して云っているにすぎない。
「それなら……半分ずつ」
 全面的にではなく半分だけ譲歩してみると、とたんに航はしたり顔になった。
「いいけど、こういうのを相合い傘っつうんだよな」
 もしかしたら実那都がそう云いだすのを待っていたのか、なんとなく罠に嵌められたような気分になった。ただし、嫌なんてことは全然ない。
「……特別なこと?」
「だれでもとはやらないぜ」
「わたしは真弓としたことある」
「おれとダチを同等に扱うんじゃねぇ」
 一拍も置かず、航は云い返してきて、実那都はくすくすと笑った。

 笑われたからといって航は不機嫌にはならず、薄らと笑った。こういう寛容さが見える瞬間に感じるのは、言葉遣いはやんちゃな子供みたいだけれど、その本質は違うところにあるんじゃないかということだ。びくともしない意志が――もっと簡単にいうなら強さが根底にあって、だから航は云いたいことを臆することもなく口にできるのだと、そんな気がしている。

「良哉くん、ちょっと立ち直った感じ? コンクール、金賞取るって云ってたけど」
「いつまでもうじうじしてるんなら、おれが張り倒してやる。だいたいが、励ましてるだけのことを、ざまあみろって思ってるわけでも嫌味でもねぇのにさ、勝手に良哉を悪人呼ばわりするような奴と関わることはねぇ。ほっときゃいいんだ」
 そうすることが簡単ならだれも悩まない。航もわかっていて、あえて口にするのは良哉を思ってのことだ。

 良哉には同じピアノ教室に通うライバルの男の子がいて、コンクールではいつも金賞争いをしているという。同級生だけれど、通っている学校は隣町だ。
 一カ月前、横断歩道を横切っていた男子中学生が車にはねられる事故が市内であった。男の子がイヤホンをしていたことから、全校集会で注意するよう呼びかけられたけれど、あとでそれが良哉のライバルの子だと判明した。
 彼は車にぶつかったとき、転んだ拍子に手をついたすえ骨折した。それだけではすまず、神経を傷つけたという。ピアニストを目指していたというから、彼にとっては夢を絶たれたのも同然だろう。良哉はお見舞いに行って、その彼を傷つけたと云っていた。何を云ったのかは教えてくれないけれど、同じ夢を持つ自分が云ってはいけないことだったと、良哉はピアノの練習さえままならないほどひどく落ちこんでいた。
 今日はコンクールの課題曲を何度も繰り返し弾いていたけれど、そうできるくらいには気持ちの切り替えができたのだろう。

「でも、いつかその子も立ち直れるといいね」
「微妙な時期だしな、早く立ち直らねぇと、ずっと引きずってくかもな」
「微妙な時期って?」
 問い返すと、航がしかめ面で実那都を見下ろす。
「おれたちは受験生だって、おまえさっき云ってなかったか」
「うん」
「そいつは音楽系に強い高校を目指してたらしいからな。しかも特待生で、だ。だから、ひょっとしたら進学もピアニスト断念ていう予定外のことで狂う。それに耐えられるかって話だ」
 実那都みたいに能天気な希望ばかりではなく、航はもっと向こうまで考えていた。
 いつか、と実那都は云ったけれど、航は、いまからだ、と云う人だ。その違いはとてつもなく大きい。
「まあ、そいつがどうなろうとおれには関係ねぇけど」
 つれない航の言葉は、感心していた実那都の気持ちを見越して、わざとがっかりさせているのかと疑ったけれど。
「それを良哉までもが引きずらねぇといいけどな」
 それは憂いを含んで聞こえた。

 航は友だちのことを心底から心配していて、だから、つれないのではなくて、発言がストレートなだけだ。万人のことに気を遣っていられるのは聖人君子だけで、そんな人が存在するかはわからない。神様だって平等に計らえないのだから。

「うん。良哉くんも高校は音楽系に強いとこ行くの?」
「いや、普通に進学校に行くってさ。貴友館(きゆうかん)だ。祐真もそうするらしい」
 貴友館は県立でも知名度を誇る進学校だ。学年で二番というから、良哉は余裕で合格しそうだ。ここまで自分と違うと、うらやましいよりも感心しかしない。
「……すごいね」
「おまえは? どこ行くつもりだ」
「普通に久築高校」
「私立は?」
「考えてない。県立がいいの」
 航は歩きながら首をかしげて実那都を見やり、何か云いたそうに見えたかと思うと口を開く。
「家の事情か?」
「貧乏かっていう意味なら違う。普通だと思う。お父さんもお母さんも普通の会社に勤めてるし、妹は中学受験して私立の一貫校に行ってるから。……やっぱり、わたし、自立心あるかも。あんまり親に負担をかけたくないし、早く働いて独立したい感じ」

 航は怪訝そうに首をひねる。
「好きなことないっつってたけど、やりたいことはあんのか?」
「ううん。いまは高校受験をクリアすることだけしか考えられない」
 そう云うと、航から黙りこむ気配を感じた。そうして、きっと、どういうことかを実那都の言葉から探しだそうとしている。考えてもわからないだろうけれど、実那都は、「航は?」と問いかけて沈黙をさえぎった。
「おれ?」
「うん。高校はどこに行くの? 祐真くんや良哉くんと同じ?」
「まだ決めてねぇ」
「余裕っぽい」
「出来が違う」
「ほんと」
 実那都があっさりと同意すると、航はぴたりと足を止めた。もともとゆったりした歩調だったから、実那都は一歩先でそれに気づいて立ち止まった。

「いつまでなんてねぇからな」
 振り向いたとたん、航は実那都の目を射貫くように捕らえると、出し抜けに宣言するような様で云った。
「……なんのこと?」
「違う高校に行くとしても、おれたちは続く。あんまりさきのことを云うと嘘っぽく聞こえるだろうし、だからそのさきのことは云わねぇけど、おれとおまえに、いつまでなんて期限はねぇ。いいな」
 実那都はびっくり眼で航の目を見返した。
「真弓と話してたこと、聞いてた?」
「聞こえた」
 航はその違いは大きいとばかりに訂正した。

「なんでおまえかって疑問にはおれもよくわかんねぇし、はっきりは答えられない。けど、おまえ、どっか消えそうなとこある。だから、ついおまえを追ってるし、捕まえておきたくなる。それを祐真に見破られてた」
「そう思うの、きっと航だけだよ」
「そう思うのがおれだけじゃないって気づいたときはちゃんと云え。そいつと決闘だ」
「決闘?」
 実那都は目を丸くして裏返りそうな声で問い返し、航は挑むように顎をくいっと上向ける。そうして、可笑しそうに笑った航に釣られるようにして、実那都の口もとも綻ぶ。
「安心しろ。おれはケンカできるし、強い」
「うん」

 歩きだしてまもなく四つ角に差しかかる。ここで実那都の家はまっすぐ北に、航の家は東にとふたりの家の方向は違ってくる。まっすぐの方向は信号機が青になっていて、航を振り仰ぐと――
「いちいち訊くなよ」
 と、実那都の無言の疑問を先回りして釘を刺した。
 航は止まることなく、実那都と一緒にまっすぐ横断歩道を横切った。
 一緒に帰るとき、もうひとつの分岐点まで航が遠回りをするのはいつものことだ。そうしたいからそうする。それはいつもの航の云い分で、実那都はそれでもいつもだったら申し訳なさがある。けれど、今日はそんな気持ちよりも、もうひとつの分岐点が逃げ水のように近づくぶんだけまた遠ざかっていけばいいのに――とそんなことを思う。
 一緒にいたい。いままで感じていた居心地のよさを飛びこえて、そうわがままを吐きたくなった。
 いつまでという期限のない時間は、“いつか”と同じように曖昧なのに、航が口にすれば不思議と確かなものに感じられる。ケンカが強いことよりも、実那都を心強くする。

「航、高校が離れてもたまに駅で待ち合わせて、こんなふうに一緒に帰れたらうれしいかも」
 好き、と直接口にするにはためらって、遠回りの言葉になってしまう。
 じろりと実那都に向かってきた眼差しで、何が云いたいのかはもう容易に察せられた。
「かも、じゃなくって、うれしい」
 実那都が急いで云い直すと、航は短くだったけれど声に出して笑った。『よろしくな』と云ったときの笑顔と同じだ。
「それ、おまえから云ったんだってことを忘れるなよ」
「うん」
 不安はいつだって付き纏う。けれど、航は曖昧な言葉にも未来を約束するかのように感じさせる。
 その未来を手に入れられないまま、うんざりさせてしまうまえに。
 好きという気持ちが伝わっていますように。

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