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DOOR|オフリミット〜恋の僭主〜
Chapter1 innocent&inhumane
1.イノセンス #6
航はポケットにスマホを戻していた手を止め――というよりも、全身が固まったような気配だ。なんらかの反応があるまで実那都の質問から二拍ほど遅れ、航はロボットのように顔だけをまわして振り向いた。その眼差しは威嚇するのでも揶揄するのでもない。思考をめぐらせているような、もっといえば戸惑っているように見えた。
「そういうこと、訊かれるとか思ってなかった」
「あ……ごめんなさい――」
「べつに謝ることじゃねぇ」
航から素っ気なくさえぎられる。
「ごめ……」
実那都は口にしてから気づいたけれど、自分がした質問はずうずうしかったかもしれず、また謝ろうとしたところでハッとして口を噤(つぐ)んだ。
けれど、航はそのことに気づいていないかのようで――
「ていうかさ……」
と云ったまま、また考えこんだ様子で黙った。
実那都は一口ドーナツを食べて航の沈黙に付き合っていたけれど、また別のことに思い至った。ドーナツを制服のスカートの上に置いて、アイスティで口の中のドーナツを流しこみ、慌てて口を開く。
「もしかして、あのメグさんて人と藍岬くんが付き合ってて、それだったら神瀬くんが云ったように、わたしが邪魔だってことで……」
「それってわざとかよ」
「……え?」
つっけんどんな声音でまた実那都はさえぎられた。航を見やると、横顔には険しい様を映し、流し目が向けられる。
言葉遣いが乱暴なことは承知していても、さっきの素っ気なさといい、いまといい、あまり平気でいられるわけではない。困惑する以上に、実那都はおののいた。
「あの……」
何かを云おうと思って云ったわけではなく、その場をしのごうと無意識につぶやいただけで、実那都は腰を浮かした。まさに逃げ腰だ。
すると――
「逃げるなって」
と、航が実那都の右腕をつかんで下へと引いた。
「怖がらせるつもりじゃなかった。云い方がきついのはわかってる。だから、おまえもわかって慣れろ」
航は自分の振る舞いを弁明したかと思うと、実那都に理解しろと強要する。
「……時間がかかりそう」
「ってことは、さっきのは、わざと遠回しにおれと付き合いたくないって云ったんじゃねぇってことだよな。少なくともおれと付き合ってもいいってことだ」
逃がさないからな、と続けた航はその意思を示すように実那都の腕をつかんだままだ。
そしてまた黙りこんで、それが続くかと思いきや、航はあからさまにため息を漏らした。
「なんかさ、フィフティフィフティだって思ってたし、だから罪悪感とか全然なかった。けど、おまえに訊かれてはじめてバカやってたって後悔してるかもしんねぇ」
「どういうこと?」
「遊びだよ。去年の夏、祐真と良哉とここでナンパしてて、おれはメグさんと知り合った。メグさんが友だちを呼びだすって云って、それからグループで遊びまわってた。普通にカラオケとか遊びにいってたけど……」
航はためらったようにいったん言葉を切った。
航らしくない。航と親しいわけではないのに、実那都はそんなことを思いながら、その顔を覗きこむように首をかしげた。航はちらりと実那都を見やると、正面に向き直って何を見ているのか、肩をすくめた。ためらいを吹っきるようなしぐさにも見える。
「無理やりおれに付き合わせてるってわかってるし、おまえにがっかりとかショックとか云われないうちに教えとく。ナンパの目的は……童貞を卒業するためだった。つまりその……遊びってそういうことだ」
ほぼ“遊び”とはそういうことだろうと思っていたけれど、確かに航が云ったとおり、がっかりとかショックとかいうよりも、実那都は単純にびっくりしている。教えられたことにではなく、航がばつが悪そうにしているからだ。
もしもそういうことを聞かされるとわかっていて、どんなふうに航が打ち明けるか予想するなら、女なんてとっくに知ってると威張りくさって自慢する姿しか浮かばないだろう。
「真剣じゃなくて遊び? メグさんて人、怒ってた。さっきの電話も……」
「なんで真剣になれるんだよ。おれが相手してたのはメグさんだ。けど、あの女は祐真とも良哉ともヤってる。ガキだからって軽く見てるんだろうけどな、まあお互いさまだ」
実那都は呆気にとられて隣を見上げた。
航は実那都を見下ろして首をひねった。たったいまは強気で云ったにもかかわらず、どこか窺うような眼差しで実那都を見つめる。
「なんだか……すごいなと思ってるだけ。わたしと全然違うから」
責められているわけでもないのに、ましてや何か悪いことをしたわけでもないのに実那都は弁解するような云い方になってしまう。
「全然違ってていい」
航は断言すると、少し身をかがめて急に顔を近づけてきた。
「な、何?」
実那都は無意識にのけ反ったけれど、ベンチの背もたれが邪魔して身を引くにも限界がある。
「だから、べつに襲う気はねぇ。けど……」
襲う気がないなら、こんなふうに顔を近づけてくるのは航の癖なのか、実那都の目いっぱい開いた視界は航で占められている。ドアップでも耐え得る顔立ちに一瞬、見惚れた。いや、それくらい端整なつくりだということだ。性格が邪魔しているだけで。
「けど、何?」
「おれが嫌になったとか云わねぇだろうな」
「……嫌になるほど、藍岬くんのこと……航のこと知らないし」
途中、狭めた目が何を訴えたのか察して実那都は云いかえた。
航は機嫌がよさそうににんまりとすると、顔を離しながらつかんでいた実那都の腕も放した。
「スマホの番号を教えろ。あとメッセージIDも」
航はポケットに手を入れて再びスマホを取りだした。
「あ、スマホ、まだ持ってないの。高校に入ったら買ってもらおうって思ってる」
「不便だな。じゃ、家の番号は?」
航は特段、気にもしていないように云って、スマホに実那都の家の電話番号を登録した。
「で?」
航はスマホから顔を上げて実那都を見やると、促すように首をかしげた。
「……『で?』って?」
航は不機嫌そうにして、大げさにため息をついた。
「おまえはおれの番号、訊かねぇのかよ」
「あ、じゃあ教えてくれる?」
「ったく『じゃあ』じゃねぇだろ」
実那都は慌てて前かがみになりかけると、「おい、こぼすぞ」と航がすかさず右手に持っていたアイスティを取りあげた。足もとのバッグからメモ帳とペンケースを取りだし、航が云う番号を書きとめてまたバッグにしまう。
「ありがとう」
と、実那都が預かってもらっていたアイスティを受けとるさなか。
「おまえ、付き合うってどういうことかわかってんだろうな」
「たぶん」
じろりと見やった航は、けれど文句を云うことなく――
「まあ、いまからだ」
と独り言のようにつぶやいてドーナツをかじった。
いまからだ。
何気なく航の口から飛びだした言葉に泣きたくなったのはなぜだろう。悲しいわけではなくて、目の前にある、どうやっても開くことのなかったドアが勝手に開いたような気がした。そのさきにあるのはなんだろう。そこまで見えることはなかった。
「食べないのか」
航が、腿の上に置いたドーナツを指差す。
「ううん、食べる」
いま頃になって航といることに緊張してきて、胸が詰まるような、そんな気持ちになる。
「神瀬くんへのバースデープレゼント、真弓にあげて大丈夫なのかな」
実那都はごまかすように訊ねてみた。
「いいんじゃね。毎年、祐真へのプレゼントがゴミ箱行きになってんのは、あいつのファンなら大抵の奴が知ってる。それを目の前でやられたくないからおれに預けんだよ。ったく、めんどくせぇ」
面倒くさいと云いながら引き受けるのは、航の見かけによらないやさしさだろうか。
航が渋々と祐真へのプレゼントを預かっているシーンを想像しながら、実那都はくすくすと笑う。
すると、航はまた顔を近づけてきた。てっきり笑うなと脅してくるかと思ったのに、ふてぶてしくにやりとして、実那都は肩透かしを喰らう。
「めんどくさかったけど、今日は役に立った。実那都」
「うん?」
返事が欲しそうな呼び方に実那都が応えると。
「祐真にしてやられたのは納得しねぇけど、いまのうちに宣言しておくと、おまえのことは真剣だ」
「うん」
航を知りたい。そんな欲求に抗えず、実那都は無自覚にうなずいていた。