|
NEXT|
BACK|
DOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜
終章 ツインソウル〜愛の存在証明〜
#1
環和は時間を見計らい、ダイニングテーブルの真ん中に置いたIHコンロの上に、つゆの入った鍋をのせた。下ごしらえをした具材ののった大皿をキッチンからダイニングへと移動させた。早くから用意したつゆはそう冷えているわけでもなく、まもなく出汁の香りが漂う。鶏の肉だんごと鱈(たら)の切り身、そして海老を入れるとまた違った風味が加わってダイニングに食をそそる匂いが立ちこめた。
無理やり恋に終止符が打たれ、それでも衣食住は保っている。それを放棄してしまえない大切なものが存在するのは環和にとって救いだった。
響生と完全に連絡を絶って三カ月をすぎている。
響生といたのは最後に会った日まで含めれば半年にも満たない。すでにその半分の期間を響生不在ですごしてきた。それならもう一度、半分のぶんだけすごせば、響生がいなかったときのように虚しくもさみしくもならずにいられるだろうか。
本当なら――ごくありふれた他人同士の出会いであれば、十一月というめっきり風が冷たくなった季節、鍋を挟んで向かい合うのは響生だったはずだ。
――と、またなんにもならないことを考えている。
響生のことを考えれば空っぽになった気がして、環和の口からはため息が漏れることもなくなった。ただ、呼吸を忘れてしまう。
息苦しくなるまえに環和の呼吸を再開させたのは、玄関のドアが閉じられた音だった。
すぐにこの家の主が現れた。
「惠さん、おかえりなさい」
「ただいま。いい匂いがする。今日は寄せ鍋?」
恵は鍋を覗きこんでから少し顎を上げると、かすかに鼻音を立てて匂いを嗅ぐ。
「はい、簡単だけど」
「充分よ。着替えてくるわ」
「じゃあ、お野菜も入れておく」
「白菜、たっぷりね」
バッグを空いた椅子に置きながら恵は茶目っ気を出して云い、環和を笑顔にさせる。
「はい」
環和がほぼ身一つといっていい状態で美帆子のもとから失踪同然で家出をしたのは、響生と最後に会った日の翌々日、およそ三カ月前だ。
響生からもらったお金を使えばなんとかなる。そう思ったすえ、頼る人が必要で、環和には恵しか思いつかなかった。
家を買うにしろ借りるにしろ、保証人がいる。美帆子に頼りたくはなかった。秀朗に頼るわけにはいかない。響生は心配するし、そもそも繋がりを絶たなければならず論外だった。
恵が、環和の決意を聞いて驚いたのはもちろんのこと、なんの保証もない自分のためにずうずうしいとわかっていながら頼みこむつもりが、恵はしばらく考えこんだあと、うちに来たら、と自ら云いだした。もう少しよく考えてからでも遅くないと、半ば説得じみて環和を諭した。
それから三カ月、家賃や生活費は渡しているものの、恵が何も云わないのをいいことに環和は居座っている。
そろそろ甘えるのも終わりにしないと。
そうしなければ、唯一当てにできるこの場所さえなくしてしまう怖れもある。恒久的に付き合いができる人など本当に稀少で、それどころか、もしかしたらそんな人間関係は築けない、あるいは存在しないのかもしれない。環和は今度のことでそんなトラウマを抱えそうにもなっている。
環和は椎茸と予め茹でて水気を切った白菜をたっぷり鍋に入れると、リビングに行き、ソファに置いたバッグからカタログを取ってきて椅子の上に置いた。
恵は程なく戻ってきた。スーツからパンツスタイルのルームウェアに着替えて、メイクも落としている。恵は顔に塗りたくるようなメイクが嫌いらしく、オフ日はスーパーに出かけるくらいだったらメイクしないという。土台がきれいなのは同じだが、きれいなうえにきれいであることに執着する美帆子とは違う。
「美味しそう。いただきます」
「どうぞ」
恵が肉団子と白菜を取り分ける。環和は彼女が口に運んだあとの第一声を待った。
「美味しい。風味がいい感じよ」
「市販のスープじゃなくて、出汁から取ってみたの。時間、有り余ってるから」
結婚という幸せは潰(つい)えたけれど、皮肉にも料理の腕だけは上達している。
恵は口をもぐもぐさせながら、かすかに首をかしげた。
「こうやって家に帰ったらお料理ができてるっていうのはありがたいけど、わたしに合わせなくていいのよ。ちゃんと外に出てる? 日に当たらないとだめよ」
恵は保護者みたいに云い、環和は笑ってしまう。そうしながら、水谷家にいれば笑顔さえ失っていたかもしれないと思う。
「ちゃんと出かけてる。今日、不動産屋さんに行ってきたの」
環和は隣の椅子に置いたカタログを取って恵に見せた。
すると、恵はほっとするよりも顔をしかめた。
「独りじゃ無理よ。ここにいていいわ。本当に独り立ちができるまで」
「でも……」
環和が反論をしかけると、恵は首を横に振ってさえぎった。
「わたしはね、結婚もしないし、だから子供も産まない。いずれ、独りぼっちになるわ。環和ちゃんがここにいてくれたら、疑似でも家族がいる気がするのね。こんなふうに家で一緒にごはんを食べる人がいるって幸せなことよ。そんな時間をわたしから奪わないでくれない?」
つっけんどんで遠慮のない云い方は恵らしいが、いまはすべての言葉が環和のためだ。戸惑っていると。
「環和ちゃんがわたしを嫌いって云うんならしかたないけど」
と、恵は環和が断れないような発言で駄目押しをした。
そして、腹部が内側からかすかにつつかれる。
「どうしたの?」
恵が心配そうに環和を見ている。
環和は大きくなってきた腹部に手を当てながら首を横に振った。
「あ、大丈夫。おなかを蹴られただけ」
「ほら。赤ちゃんは出ていきたくないって云ってるのよ。第一、急に具合が悪くなったときに、だれが気づいてくれるの? 赤ちゃんと心中する気じゃないならここにいるべきね」
無事に赤ちゃんに生まれてきてほしい。何よりもそのために美帆子のもとを出てきたのだ。美帆子は産ませてくれないと思ったから。
「赤ちゃんはちゃんと産む」
「じゃあ決まり」
恵は決定権は自分にあるといわんばかりで結論を出すと、隣の椅子の大きなバッグから封筒を取りあげた。鍋の上を避けて、恵は環和に差しだした。
「これ、あとで開けて見てみて。ちょっと噂を聞きつけて、響生からもらってきたの」
恵は響生との別れを知っていても詳しい事情を知らない。そのせいか、気を遣うことなく出し抜けに響生の名を出すからだんだん慣れてきたけれど、やはり一瞬、鼓動が止まる。響生と恵は仕事を一緒にすることが多い以上しかたない。
ただ、いまは環和と関係したことのような云いぶりに感じた。
なんだろう。見たいような見たくないような、内心で好奇心と不安が競い合う。
環和はうなずいて受けとると、努めて気にしないようにしながら食事をすませた。
恵と一緒に後片づけをして、恵がバスルームに消えたところで、環和は封筒を手に取った。本が入っていて、かなり重量がある。
環和は中身を探り、そうして封筒から出てきたのは、ファッション雑誌の大きさくらいあるハードカバーの本だった。
『ツインソウル〜追わずにはいられない、愛の存在証明〜』
表紙に記されていたのは、そんなタイトルと響生の名だった。