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DOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜
第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”
#3
*
響生は閉ざされたドアに背を向けたまま、そこにとどまった。耳をすましたが、なんの音も聞きとれない。ドアを隔て、きっと環和はすぐ後ろにいる。たった一歩を踏みだすだけのことに気力を要するくらい、いまの状況は互いの意思に反している。
傷つけたくなどないのにそうせざるを得なかった。いや、それ以上に残酷な仕打ちをした。
ため息を呑みこみ、呼吸さえ押し殺してしばらく立ち尽くしていたが、その間ずっと背後は静かなままだった。
環和は云いたい放題で一見わがままにも映るが、それが自信のなさの裏返しだというのはわかっているつもりだ。それは母親の所業のせいかもしれない。ファザーコンプレックスだと認めていながら、両親の離婚後、その父親と会えないことを話すのにもあっさりとすませた。環和は実の父親ではないと知らないまま捨てられたと思っていて、あっけらかんとしているのは強がりにほかならない。
そう察していながら、響生は突き放すという以外にほかの方法が見いだせなかった。
響生は呑みこんでいた息を吐きだし、背後の気配を断ちきるように歩きだした。
エレベーターを降りて地下の駐車場に行くと、シルバーの外車に近づき、助手席のドアを開けて乗りこんだ。
「終わりましたよ」
素っ気なく云いながら、響生はシャツの胸ポケットから煙草を取りだした。
「煙草はやめて。匂いが移るから」
運転席に座った美帆子は、ありふれた日常の会話のように響生を咎める。
「おれがあなたの云いなりになるのはここまでです」
吐き捨てると響生は煙草を咥えて火をともした。深く息を吸いこんで、躰の隅々まで行き渡るのを待って紫煙を吐きだした。
「父親だって云ったの?」
「云えるわけがない。あなたが云ったとおり、環和は父親の――水谷さんのことが好きだ。これ以上、ショックを与える必要がどこにあるんだ」
響生は携帯灰皿を取りだして、ひと息吸ったばかりの煙草を押しこんだ。
「落ち着くまで……おれとのことを吹っきれるまで環和を独りにしないでください。環和に何かあったら……」
響生は中途半端に言葉を切り、正面を向いていっさい美帆子を見ることのないままドアを開けた。
「何かあったら、どうするの?」
「覚悟してもらいます」
響生は車を降りてその場を立ち去った。
一歩進むたびに環和と離れ離れになることを咬みしめる。
突き放す方法しか見いだせなかったのは自分のためだった。そうでもしなければ、離れられない。
*
意味のない時間ばかりがすぎているような気がする。
ミニョンではまるで仮面が貼りついたような感覚で仕事をこなしているけれど、家に帰れば何をする気になれずベッドに引きこもる。だれかに命令されなければ、食べることも身を清潔にすることも怠ってしまう。
人の会話も雑音も聞こえるけれど、日常から環和独りだけが疎外されたような静けさを感じていた。
「環和、ここは引き払うわ。うちに戻りなさい」
ダイニングのテーブルに座って味のよくわからない夕食を食べていると、唐突に美帆子が云いだした。
あれから一週間たっただろうか。そんなこともよくわからないまま、美帆子とはろくに口もきかずすごしてきた。
思わず美帆子と目を合わせたが、それも何日ぶりだろう。
「……響生に……何を云ったの?」
響生と発する言葉はふるえ、環和は痞えながらはじめてそう訊ねた。
響生が別れを告げたのは、美帆子と話したせいだと思っている傍らで、本当に嫌われたかもしれないという怖れもあって、ちゃんと訊ねる勇気がなかった。
「何も云ってないわ。彼が終わりにしたいって云っただけ。それなのにわたしが何か云う必要ある? わたしはそれを望んでたんだから」
「違う」
「違わない。安西響生のことは忘れなさい。あなたにはもっとふさわしい人がいるわ。見合う人を探してたのに、あなたったら……」
「わたしのことはほっといて」
「ほっとけないわ。手遅れになるまえにおなかの子もなんとかしなきゃ……」
「なんとかって何? ママが決めることじゃない。わたしが決めるの。わたしは生むから」
「響生がいいって云った?」
美帆子は畳みかけるように問うた。
「赤ちゃんは生きてる。わたしのものでも響生のものでもない。生むのはわたし!」
環和の声がひと際大きく響くと、美帆子は自分を睨めつける目をじっと受けとめて押し黙った。互いが一歩も引かないといった様で微動だにしない。息さえも押し殺していると、やがて美帆子が根負けしたのかため息をついた。
「それならよけいに家に帰らないと面倒見きれないわ。美野さんに通ってもらうのも気の毒だから」
「家になんて帰らない。独りで……」
「独りでできてないじゃない」
美帆子にさえぎられ、その言葉どおりで環和は反論もできない。
あの日から、美帆子がマンションに居着いて、自分が仕事で出かけるときは家政婦の美野を寄越す。最もひどい干渉は、環和は仕事でしか外出することはないが、そのとき美帆子の付き人がつくことだ。そうしなければならないほど、環和はいま自立できていないのかもしれない。
「それで赤ちゃんを産んでどうやって育てるのかしらね。責任を持てないならいますぐ産婦人科に行ってちょうだい」
「ちゃんとする」
「できるかどうか、ちゃんと見てあげるわ。うちでね。とにかく、ここは売りに出すって決めたの。いいわね」
自分で家賃を払っているわけでもなく、美帆子に甘えていたことがいまさら情けなくなる。
響生は環和のことをどう見ていただろう。はじめて一個人として認められた気になっていたけれど、響生にも甘えていたかもしれない。だから、秀朗と同じように環和のことが面倒になったのだ。