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DOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜
第4章 ミスリード〜恋いする理由〜
#3
響生はじっと環和を見つめたあと、目を逸らしたのか単なるしぐさなのか、目を伏せた。センターコンソールのボックスに手を伸ばしたと思ったら、煙草のケースをつかむ寸前でだれかに弾(はじ)かれたように響生は手を引っこめた。
「煙草、吸わないの?」
吸ってもいいのに。そんなニュアンスを込めて云うと、響生は環和を流し目に見た。とんでもないことを云ったみたいに咎めた眼差しだ。
「環和、命一つ抱えてるんだ。少しは自分の躰を気遣え」
その言葉で、煙草を手に取らなかったのは環和が妊娠しているせいだとわかった。
容赦のないことを云っても理に適っていたり、ふざけたりしているだけで、響生はこんなふうにやさしい。
友樹だってそれを知っているから信頼して慕う。それなのに、美帆子はいまの響生を知ろうともしないですべてを否定しようとする。説得を続けたり、なんとか会う機会をつくっているうちに偏見をなくしてくれるだろうか。
環和は無性に触れたくなって、煙草を取り損ねた響生の左手を下からすくうようにして手のひらを合わせた。緩く握り返され、その反射的なしぐさに環和の不安がなだめられる。
「まだ実感が湧いてないだけ。つわりはひどくないし」
「……いまから話すことは気分のいいものじゃない。躰は大丈夫か」
「いま聞いてなかった? つわりはひどくない。すこぶる順調。それとも打ち明け話を引き延ばしてる?」
からかって問うと、響生はかすかではあってもやっと笑った。
「おれが引き延ばしたいと思っているのはもっと違うことだ」
「何?」
環和の瞳を捕らえて何か云いたそうにしたのもつかの間、結局は軽く首を横に振って響生は答えなかった。そうして一つ、深く短く息をついてから響生は口を開いた。
「大学を卒業して広告代理店に就職した。四年勤めて辞めたあとにいまの仕事を始めた。カメラに関したら、高校のときからクラブとかでずっと扱っていたし、就職のときもそういったアピールが有効だったかもしれない。会社ではわりと業績を上げられるようになってたし、のぼせてた部分もあった。カメラマンとしての仕事をメインにやりたいと思うようになったんだ」
「独立したってこと?」
「ああ。独立って云うと聞こえはいいけど、ブランド力がないってことだ。そこそこ人脈はあっても有力者とのコネクションが不足してた。一つの仕事を取るまでにどれだけの時間を費やしたかわからない。覚悟はしてたつもりだ。けど、門前払いを喰らったり横槍が入ったり、そういう妨害を繰り返されているうちに、仕事は卑怯な手を使っても取った者勝ちだと思うようになった」
そのさきはわかるだろう? といったふうに響生は促すように首を傾ける。
「卑怯な手って……ママは響生が女性を利用してるって云ってた。それで合ってるの?」
ためらいがちに訪ねてみると、響生は一瞬だけ目を逸らし、それから何も見過ごさないといった様で環和を見ながらうなずいた。
「ああ。自分の利になって、なお且つあっさり別れられそうな女が寄ってくれば拒まなかった」
「あっさり別れられそうって、雰囲気とか勘で判断するの?」
最初から別れることを準備されていたとわかって、女性はどう感じただろう。
環和はべつに望みがあると思って響生に付き纏ったわけではないし、いつも踏みこめていないという一線は見えていたから、期待していないと云えば嘘になるけれど、いつか響生の拒絶を認めなければならないのだろうと思っていた。いざとなって本当に認められるかどうか、さっき響生が云ったのと同じで、自分でも想像がつかない。
「そういう曖昧なことじゃない。結婚している女だったり、人に知られたくない弱みを持ってる女だったり……何度か断ったすえ一度だけだと断って口説かれてやれば、その一度寝ただけで気を許す女がいるんだ。相づちを打つだけで喋らなくていいことまで喋ってくれる」
「……脅したってこと?」
「ああ……女の顔が利く仕事を紹介してほしいと“頼んだ”。それで話が通じなければ、弱みに付けこむ。平たく云うなら、おれは仕事のために躰を売ってた」
響生は『頼んだ』と皮肉っぽく強調して、最後は嘲るような様でくちびるを歪めて笑いながら首をひねった。
どう考えていいのか、環和にとっては別世界の話のように聞こえて、理解するには程遠い。しかたなかったと同調もできなくて、かといって間違っているとも云えない。
長引く沈黙をどう捉えたのか、響生は、何も云っていないのにもかかわらず環和に向かって同意を示すようにうなずいた。
「別れたくなったら話すって云ってたことだ。環和からしたらおれは汚いだろう」
汚いとは思わない。ただ、嫌なだけで。そんな正直な気持ちは、首をかしげて曖昧に濁した。
「……別れたいの?」
「おれは……必要に迫られて話してる。それがおれの答えだ」
「わたしも……」
別れたくない、と環和が続けようとした言葉は、手が強く握りしめられ、そして首を横に振るという響生のしぐさにさえぎられた。
「まだ全部じゃない。環和は頭は悪くない。わかってるだろう? いま話した以上におれは……環和とは切っても切れない……環和が割りきれないような関係も持っていた」
響生はそれだけ云って口を噤み、環和を見守る。
口を開けば、聞きたくないことを聞かされる。環和がそう思っていることをわかって、あえて響生は何か云うのを待っている。また沈黙がはびこった。
神経質になりすぎて耳の感覚が異様な反応をしているのか、まもなく環和が息を呑む音はやけに車内に響いた。
「ママとはいつ会ったの?」
環和が訊ねると、響生は目を逸らした。それは意図を持ってなされたのか、それとも記憶を探ろうと視線が宙に浮いただけなのか。思いだすには不自然なほど時間を空けてから、響生は環和に焦点を戻した。
「……十年くらい前になる」
十年前と云えば、環和がケガして、美帆子と秀朗が離婚して、真野美帆子の子供であることを隠すように云われた頃だった。