NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第3章 恋は刹那の嵐のようで

#13

    *

 六月の末、環和にとっては最も憂うつな梅雨まっさかりだ。例年なら学校や仕事で出かけること以外、極力外出を避けているところなのに、響生に会えると思うと出かけるのも億劫にならないところが不思議だ。
 もともとは環和が押しかけなければ会えないという状況だった。環和の休日は定休ではなくシフトだし、響生の仕事はもっとそうだ。どうかすると、響生は休みなしで仕事をしていることがある。その合間に、自分が撮りたいものを撮るという時間をつくるから、やっぱりスタジオでの仕事を狙って会いにいくしかなかった。
 雨に濡れた日以来、“撮りたい”対象は環和になっているらしいから、そのぶん会える時間が増えてはいた。そして一カ月前の告白の日以降は、響生から誘ってくれるようにもなって、会う機会は着実に増えている。

 今日も響生の誘いだ。ドラマ宣伝のためにポスター写真の製作依頼があって、いま目の前にそびえるビル、日東(にっとう)テレビのなかに響生はいる。環和が早出であり、なお且つここは環和の家と同じ方向にあって途中下車すればいいことであり、待ち合わせをして食事をしようと誘ってくれたのだ。
 約束の六時半をすぎたけれど、仕事が押しているのだろうか、まだ響生は待ち合わせ場所に現れない。
 太陽も沈んで辺りが暗くなっていく。空を見上げると、夕闇ではなく真っ黒い雨雲が押し寄せていた。

 日東タワーの二階は一般開放されていて、歩道や広場が設けられている。入り口には、カメラや時計などテレビアイテムをユニークに表現した巨大なオブジェがあって、ベンチもあるし、待ち合わせをするには最適だ。けれど、六時には閉めきられるし、雨が降ったときに避けきれないからと、響生が一階の玄関先で待つように云ったのだ。
 はじめて日東テレビに来たのだが、ここは上の歩道を兼ねた広場が屋根になっているから、嵐みたいな雨でないかぎり、濡れることもない。

 一陣の風が通り抜け、ざわざわと歩道沿いの木を揺らす。風の音に紛れて、メッセージの着信音が鳴った。
『もうすぐ行ける』
 バックからスマホを取りだしてみると、端的な言葉が画面に現れている。
『大丈夫。ちゃんと待ってる!』
 本当は、雨が降りそうだから早く来てと云いたいところだが、響生を心配させたくはない。
 メッセージの画面に『既読』の文字がついて、環和はスマホをバッグにしまった。直後、いきなり大粒の雨が降りだした。歩道ぎりぎいのところにいた環和は、慌ててエントランス側へと移動した。持ってきた傘が役に立たないくらいの土砂降りだ。

 すると、環和を感知したのかと思うくらい、タイミングよく自動ドアが開いた。実際は、環和はかなりエントランスからずれたところにいて、自動ドアは建物のなかにいる人に反応したに違いない。すぐに男性がふたり出てきた。
 彼らは、エントランスの正面にちょっとまえから待機していた車にまっすぐ向かう。ふたりのうち、後ろを歩く男性が環和の目を引いた。
「パパ!」
 気づいたときは呼びかけていた。

 雨音に紛れて聞こえたのかどうか――スーツをかっちりと着こなした水谷秀朗は、そこに壁があるようにぴたりと足を止め、ゆっくりと爪先の方向を変えた。
 無視されることなく、そのうえ振り向いてくれたことが、ほっとする以上に環和はうれしかった。響生が云って、環和が認めるとおり、やっぱりファザコンだ。環和は小走りで駆け寄った。

 環和が十四歳のとき両親が離婚してちょうど十年がたち、それ以来、会っていないけれど、多少しわや白髪が増えたくらいで、秀朗の端整な顔立ちは変わりない。むしろ、しわや白髪が渋い面立ちにして、子供のひいき目か、存在感が際立つ。
 やっぱり響生に雰囲気は似ていて、あと二十年もすれば響生もこんなふうになるのだと、環和は独り想像してにやついてしまいそうになる。
 きっともてるだろう。そう思ったとき、ふと秀朗は再婚しているかもしれないという考えがよぎった。そうして子供がいるとしたら――。

 環和の思考が右往左往している一方で、秀朗も環和の変化を探すように視線がひと巡りする。
「元気そうだな。もう社会人か」
 久しぶりに会ったことを秀朗がどう感じているのかわからず、おずおずとした気持ちでいるけれど、環和はそうとわからないように笑ってうなずいた。
「うん。ミニョンていうアパレルのお店で働いてるの。パパも元気そう。いまもドラマつくってるの?」
「いや、三年前に一線はおりて、いまは専務兼役員としている」
「だからドラマのエンディングで名前見なくなったんだ」
 秀朗は眉をひそめ、慮(おもんぱか)った面持ちで環和を見つめた。
「チェックしてたのか……。まあ、そういうことだ」
「パパは……再婚した?」
「ああ」
 その返事にホッとしたかもしれない。環和と会わないのは、新しい家族に気遣ってのことだと理由がつく。

「子供もいる? わたしの弟とか妹とか?」
「いない」
 さり気なく、けれど気になって訊いてみた質問に、秀朗はためらいもなく否定した。少し素っ気なくも感じて――
「なんだぁ、独りぼっちにならなくてすむって思ったのに」
 と、環和はわざとがっかりしたふりをすると、その努力が実を結んだのか、秀朗ははじめて微笑を見せた。
「悪かったな。ケガはすっかり治ったんだな?」
 なんのことかと思いきや、背中の傷のことだと思いついた。忘れていなくて具合まで訊くというのは、離婚したときも気にしていたという証拠なのか。

「うん、全然問題なし」
 よかった、と秀朗は云い、ふと何か思いついたような顔になる。
「ところで、なぜここにいるんだ? 私に用事があったのか? 美帆子と何かあったのか?」
 秀朗は矢継ぎ早に問いかけた。
「ママは相変わらず。そうじゃなくて、今日ここで仕事してる人を待ってるだけ」
「ここで? ……付き合ってる奴がいるのか?」
 どうして相手を男と判断するのか、それは父親ならではの心配からくるのか。だとしたら、見棄てられたわけじゃないと思えるけれど。

「そんなところ。安西――」
 ――響生って知ってる? そう訊きかけると。
「専務」
 秀朗と一緒にいた男性が声をかけた。秀朗は振り向いて、ああ、と応じ、環和に目を戻した。
「これから人と会う約束がある」
「うん、わかった」
 秀朗はうなずくだけで車に向かった。

 環和が、またね、と付け加えなかったのは、期待する言葉が返ってこないかもしれないという怖れがあったからだ。案の定、秀朗は“また今度”といった類いの言葉をなんら発せず、環和の連絡先を訊くこともなかった。

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