NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第1章 でも、好きかもしれない

#13

    *

 どこかでせっつくような音が鳴っている。それが何か、突きとめる気にはなれなくて音の届かない場所に潜む。
「いいかげん、起きろ。人んちでいつまでくつろいでるんだ」
 せっつく音がやみ、入れ替わりの声は乱暴なのに、子守歌に聞こえてしまう。それほど心地がよかった。
 んっ。
 うつぶせになった躰を起こそうとしたものの、この心地よさを手放すのが惜しい。環和はちょっと躰をねじっただけでまたもとに戻った。

「無防備すぎるだろう。よくこんなんでヴァージン守り通せたな」
 呆れきった声は低く、けれど艶っぽいビブラートが時折混じって耳が潤う。その満足感が深いため息となって環和の口からこぼれた。
 残念なことにそれは長くは続かず、躰が粗雑にひっくり返されて、呼吸の出入り口が摘ままれる。とたんに息苦しくなって喘いだが、その口もまたふさがれた。
 んんっ。
 焦点が合わないほど近くにだれかの手があって、環和はとっさにその手首をつかんだ。環和のそれよりずっと太い手首はつかみきれず、押しただけではびくともしない。けれど、死に直面したら、どうやっても生き延びようとするのが動物の本能だ。環和はあきらめるなど思いもつかずに、皮膚に爪を立てた。その矢先、いきなり解放された。

 いまやくっきりと目覚めていて、環和は荒れた呼吸をしながら、躰を起こしていく安西の顔を追った。
「わたし、を……殺す、気……?」
 呼吸の合間に途切れ途切れで問うと、涼しい顔をして安西は鼻先で笑った。
「おまえを殺しても、おれにはなんの得もない」
「じゃあ、さっきの、何? 人工呼吸の……まるで逆!」
「目覚まし時計の役を買って出ただけだ。仕事あるんだろう。同じ恰好で出勤する気か?」
 鼻をさすりながら文句を云う環和に対して、安西は至極もっともなことを云い、大人ぶる。

「何時?」
「十時すぎた」
 帰って着替えてメイクしてという過程を考えると、確かに時間はあまりない。
 環和が手を伸ばすと、ごく自然なしぐさで安西の手が伸びてくる。環和の手がつかまれて引き起こされた。伴って、おなかの奥に、躰と同じように気だるいような感覚が呼び起こされる。
「疲れてるのは響生のせい。疲れてるのにやるとか、オジサンのくせに二回もとか、もしかしてゼツリンて感じ?」
「はっ。どこでそんな言葉を憶えるんだ? ヴァージンの耳年増ってやつか」
「いまの女の子事情を知らなすぎ。漫画とか小説とか、きっと男顔負けのポルノだから。今度、持ってきてあげる」
「いらない」
 安西は呆れたように首を横に振り、「やっぱり耳年増だ」と揶揄した。

「で、どうだった、ファンタジーと違ってリアルは?」
 自信満々でなければ訊けないような質問だ。
「ファンタジーは抱きしめてもらえないから」
 環和の遠回しの答えはすぐに察せられ――
「素直じゃない。頭はそこそこまわるようだけど、人生、損してるな。有効的じゃない」
 と、犬も食わない定例句じみた言葉が降ってかかる。
「お説教なんてオジサンくさいことはノーサンキュー」
 環和は脚に絡んだふとんを剥がした。すると、シーツに赤っぽい染みを見いだす。
「洗わないと」
「云われなくてもそうする」
 環和のつぶやきは素っ気ないほどの声で応酬された。

 ヴァージンを軽々しく扱ったのは自分だが、かといって安西から軽くあしらわれるのはかちんとくる。勇んでベッドをおりたものの、威嚇するには環和の身長が低すぎた。
「それで、響生は二回もやれるほどゼツリンなの? それともセックス依存症?」
「絶倫でも依存症でもない」
「ふーん。じゃあ、わたしによっぽど欲情したんだ」
 にっこり笑うと、ばつの悪い思いをするかと思ったのに安西は舐めまわすように環和の裸体を見下ろしていった。居心地が悪いことこの上ない。
「お互いさまじゃないのか? 気絶するほどよすぎたらしいし、はじめてがおれでよかったな」

 本当を云うと、起きてから昨夜のことを思い返しているけれど、二度めの途中からはほとんど記憶にない。あるのは快楽という感覚だけのような気がする。
 一度めのあと、おなかの上をきれいにした安西が再び触れてきたとき、環和はまだ快楽の余韻のなかにいて、ちょっとした刺激にも敏感になりすぎていた。安西は、セックスをするためというよりはそんなびくつく躰をなだめるつもりだったのかもしれない。
 けれど、環和の過剰な反応が安西の慾に火をつけたのか、一端の女よりタチが悪いな、とつぶやいて挑んできたのだ。
 二度め、安西は避妊具をつけていたと思う。果てにイったのかどうか、それすらもはっきりしない快楽のなか、それでも体内の奥で熱が迸る感覚がして、それきり記憶は途絶えている。

「お互いさま?」
「躰の相性はいい」
 安西はくちびるを歪めて放つ。太刀打ちできないのは安西がそれだけ大人だということだろうか。十五歳も離れていれば、経験も雲泥の差がある。
「やっぱりエロおやじっぽい」
 環和は云い放ってバスルームに向かった。
 気はすんだ――というよりも『お互いさま』という言葉に気をよくした、というほうが当たっている。段違いの大人でも、自分が夢中にさせたのなら自信もつくというものだ。
 顔を洗って歯を磨いて、けれどなんとなく躰は自分の体温とは違う熱を感じていて、シャワーを浴びるのはやめた。

 髪を洗って服を着て、そして髪を乾かしてからリビングに戻ると、香ばしい匂いがしてくる。パンにバター、ベーコン、それにコーヒーだ。
「スマホ、鳴ってたぞ。寝てるときも鳴ってたけど傍に置いても起きないってどうなんだ?」
 対面式のキッチンは、バーみたいにカウンターテーブルになっている。キッチンの向こうから安西がテーブルのほうを指差した。
 そこに行ってスマホを見ると、電話が三回、メッセージが五回、全部が美帆子からだった。
 いまどこ? 連絡して。それらの言葉が並んでいる。
 環和はため息をついて美帆子にリダイヤルした。ワンコール鳴り終わっただろうか、すぐに通じた。

『環和、どこにいるの? 帰ってないじゃない! 無事なのよね!?』
 美帆子はヒステリックに捲(まく)し立て、環和は電話を遠ざけた。
「ちょっと外泊してるだけ」
『外泊? どこに?』
「どこでもいいでしょ。遅出だし、いまから帰って、すぐ仕事に出るの。ということで話す時間なんてないから帰って」
『今度こそほんとなんでしょうね。まったく気の利かないコンシェルジュだわ。帰ってこないって連絡してくれればいいのに放置するなんて! 朝、訪ねたらもぬけのからだし、もう少しで捜索願出すところだったんだから』
「捜索願? やめてよ、そういうの。とにかくママの相手してる暇ないから帰ってて。じゃあね」

 ぷっつり通信を切ると、環和はため息をついた。
 ちょうどキッチンから出てきた安西はプレートをカウンターの上に置いて、環和に目を向けた。プレートは二つあり、ということは環和のぶんに違いなく。
「ありがと」
 安西はお礼などどうでもいいといったふうに首をひねる。
「すごい剣幕だな。こっちまで聞こえた。まさか、おれは誘拐犯に仕立てられるんじゃないだろうな」
 と云いつつも安西は少しも心配しているふうではない。
「母は心配してるふりをしてるだけ」
 もしかしたら、本当に誘拐されたとしてもその悲劇すら演技の糧にするのかもしれない。
 母親に対してつれない環和の口調に安西は眉をひそめたが、環和は素知らぬふりでプレートの前に座ると、手を伸ばしてカウンターに置かれたコーヒーカップをおろした。

 隣に座った安西は、食事に手を付ける前に煙草を咥えている。
「煙草って食後じゃないの?」
「おれの勝手だ」
 顔をしかめた環和におかまいなしで煙草に火をつけている。
「煙草、嫌いなのか」
「吸ったことないから味は知らないけど、匂いがつくのはとにかく嫌」
 そう云ったとたん、安西が顔を近づけてきたかと思うと、目の前で思いっきり紫煙が撒かれた。
「ひどい、髪、洗ったのに!」
 安西は紫煙を避けるためか目を細め、そして可笑しそうに笑った。その顔は悪戯な少年っぽい。
「ついでだ」
 その言葉を理解するまえに安西は一服して環和のくちびるをふさぐ。今度は口の中に煙草の香りが充満する。安西が離れたとたんに咳きこんだ。

「ひどい!」
「それしか云えないのか。お決まりの文句じゃなくておれを悩殺するくらいじゃないとな、いい女にはなれない」
「ノーサツって?」
「自分で調べろ」
 安西の口角が小馬鹿にしたように片方だけ上がる。とたんに、少年を脱して色気たっぷりな大人の男に変身した。
 癪に障る。煙草は好きじゃないと思っていたけれど――
「食べろよ。ただし、文句は云うな。これくらいしか作れないから」
 ――でも、好きかもしれない。
 人から作ってもらった料理を食べたのは何年ぶりだろう。ただ、美味しかった。

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