グループ交際

序章 ASK推進企画室


 業平(なりひら)商事では毎年、四月一日の入社式を終えると新入社員約一五〇名は三週間の研修に入る。
 入社時点では配属先は知らされず、研修を経て云い渡される。
 三週間といっても休日を除けば正味は十五日間で、十日間は本社ビル内での研修、そして最終五日間はリラクゼーションとコミュニケーション向上を主目的にして郊外にある宿舎での共同生活となる。
 その間、各部署から偵察を兼ねて担当者が入れ替わり立ち替わり教育に当たる。
 本社ビルの十階にある三つの会議室ではそれぞれ五〇人ずつに分かれ、これまでだれもがそうであったように、今年の新入社員も 真剣な面持ちで講義やアドバイスを受けていた。
 名の知れた総合商社だけに、不安と相俟(あいま)って表情に見え隠れするのはうれしさと期待と誇らしさだろうか。

「今年はどうかしら」
 研修二日目、そろった四人は廊下から物色するように新入社員の様子を(うかが)った。
「ぜひにも現れてもらわないと、先代もおちおち完全引退とはいきませんもの」
「仕事に関しては問題ないどころか有望なのに。もう身を固めてもいいお年だわ」
「そうね。噂には困ったものだわ。社内では目をつむれるとしても、社外に対しては決してプラスにはならないし、我が社の安定した存続のためにも……」
 しばらく研修会場を見守った。
 今日の教育担当は営業部で、若手が率先して会場内を回り、アドバイスをしている。
 中央では一際背の高い担当者が、女性のノートを(つつ)いて何やら話している。横顔を見ると女性と呼ぶには少し幼い感じだ。彼女は何度かうなずいて顔を上げると彼に笑みを向けた。
「あら、あの子、わたくしたちが()した子の一人じゃなくて?」
「確かに」
 引き続き経過を見ていると、彼はうなずき返してその前の席の新入社員へと進む。
 彼女の視線は彼を追っていたが、すぐに机に向き直った。入れ替わって彼が彼女を振り向く。だれかが悪戯(いたずら)を計らったかのように、彼女の手もとが狂って消しゴムが転がり跳ねた。彼が机から飛びだした瞬間に消しゴムをつかんだ。
 目を丸くしている彼女とはじめて表情を和やかに崩した彼が顔を見合わせて小さく笑った。
「あら」
「まあ」
 感嘆詞が二つ並ぶと、知らずと四人は顔を見合わせる。

「今年はどうやら、久しぶりにASK(アスク)推進企画室を復活できそうね?」
「そうね。いい感じじゃなくて?」
「報酬は?」
「今回は社運もかかっているようですし、贅沢(ぜいたく)に。わたくし、一度“天国にいちばん近い島”に行ってみたいと思っていたんですけど」
「ほかにご意見は?」
 ほかの二人は同時に首を横に振った。
「では決まり、ね。わたくしが部長に交渉するわ」
「負けてはいられませんね」
「当然です」
「早速、内偵しなくては」
「決算準備もお忘れなく」
「ああ、そうでした」
「でも」
「長い目で見れば」
「ASK推進企画室のほうが優先です」
 四人はともに意見一致でうなずき合う。
「では、頑張りましょう」



 新人研修も今日で終わりだ。
 最終五日間の宿舎研修は、よく知っている人のいないなかでどうなることかと思ったけれど、仲良くなった人が三人できた。
 相変わらず、食事当番で卵焼きを焦がしたり、洗濯物を取りこんでいる途中に呼ばれてそのまま夜まで干しっぱなしだったりと失敗もあって、落ちこむこともあったけれど、いろんなことで実のある時間になった。
 最終日の昼は各部署の教育担当者もやって来て、総勢二〇〇名でのバーベキューパーティだ。
 思い思いに散って(にぎ)やかに進むなか、仲良くなった四人で固まった。こういうときに居場所があるとほっとする。
 パーティはずるずると続いて、食べきれなくなるとわたしたちは小川まで散歩に出た。

「どこに配属されちゃうんだろう」
「四人一緒だといいな」
 わたしはそう答えながらちょっと不安になった。
 厳しい指導のなかでもまだ責任を持たされた仕事ではなく、学生気分が抜けていないのは事実だ。来週からはいよいよ実戦になる。加えて行き先のわからないことがいまはプレッシャーになっている。
「それは難しいでしょ」
「そうね。でもどうなるにしても、週に一回くらいは食事会とかやりたくない?」
「それいいな」
「わたしも賛成。いま決めておけば?」
「じゃあ、やっぱり区切りがよくって帰る時間を気にしないでいい金曜日は?」
「決まり!」
 同じように散歩する人がいるなか、四人の笑い声は目立ってしまい、顔を見合わせるとくすくす笑いに変えた。

 小川に沿って歩くと、大きな石が横並びして向こう岸に渡れるところまで来た。小川は三メートルくらいの幅で水深も浅いが、この場所だけ一メートル近く落差があって、せせらぎというには水の音が立ち、流れが少し速い。
 三人が順番に石の上を渡りはじめた。所々が水飛沫(みずしぶき)で濡れていて、気をつけなければ滑りそうだ。
 そうわかっていたのに、わたしはやっぱり思考スペースの大部分を不安に占領されていたようで、石の上に乗ったとたんに脚を滑らせた。
 視界が傾いて躰が浮いた。
 落ちる!
 目を閉じて覚悟した瞬間、後ろから抱くように腰をすくわれ、出そうになった悲鳴を呑みこんだ。
「ナイスキャッチ」
 わたしの耳もとで可笑(おか)しそうな声がした。自らを()めた声の主を振り仰ぐと、当然、驚くほど近くに顔があってドキドキした。
「消しゴムだけじゃなくて自分まで落とすってある意味、特技だな」
 岸まで引き戻されてからかわれると、自分の顔が赤くなるのがわかる。
「あ、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「……あの……」
「何?」
「……腕、もういいです。立てますから」
 わたしは目を合わせたまま、腰に添えた手を指差した。
「そうらしい」
 目の前でクッと短く笑った顔は、めったにお目にかかれないほど端整で見惚(みと)れた。
「渡る?」
 向こう岸を差した指先をたどると、彼女たち三人のちょっと驚いたような顔に合った。
「はい」
「それなら、手を引いてやるのが紳士たるもの、だろうな」

 わたしは答える間もなく手を取られて引っ張られた。ともすれば、わたしの手をしっかりとつかむ大きな手の心地よさに気を取られ、集中力を無くしそうになる。また踏み外して、道連れに落ちてしまったら最悪のパターンだ。
 ドキドキしつつ無事に岸へたどり着くと、ほっとするとともに手が離れる。
 もっと。
 無意識に願った。
「落とさなくてよかった」
 小さな声で思わず口にすると、見上げた顔から何か含んだような(ゆが)んだ笑みが返ってきたけれど、気のせいかと感じるほどすぐに消えた。
「月曜からいよいよ仕事だな。いろいろあるだろうけど、頑張れよ」
「はい」
「いい返事だ。研修の成果、出てる。じゃあな」
 向こう側へ易々(やすやす)と引き返す背中を見送った。
 また……会えるかな……。
 内心でつぶやいて、そのはじめての感情に戸惑った。



 エスカレーターで二階まで行くと、出勤時間の混雑したエレベーターを避け、三階の営業部フロアまで階段を使った。今日から新人も本社ビルに戻って余計に人が多いようだ。
 デスク脇にダレスバッグを置くと、電話機の下の小さな封書に気づいた。電話機を上げるとテープで張りつけられた封書を()がす。
 おれの名と『親展』の文字。
 封を開けて中のメモを広げた。

招待状
突然のお手紙を失礼いたします。

 新人研修の教育、お疲れさまでした。
 今年の新人はいかがでしたか。お気に召された子がいらっしゃいましたら、お手伝いさせていただきたく、招待状をお送りしました。
 ただし、真剣愛が前提のことです。且つ、こちらを通さない抜け駆けはご容赦ください。大切な人材ですし、社内のことですから、不手際が生じては困ります。
 ご依頼については、〇九〇−〇〇〇〇−三二〇七、ASK推進企画室までご連絡ください。いつでも歓迎いたします。
 尚、この企画は今回、四人限定でご招待しておりますので、ご依頼の有無を問わず、内密にお願いいたします。
 業平商社上層部公認の企画です。保証が必要であれば総務部長までご確認ください。
 では、是非のご依頼をお待ちしております。
かしこ
ASK推進企画室


 どういうことだ? どっかの出会い系ビジネスじゃあるまいし……バカバカしい。
 ゴミ箱に投げ入れようとして手を止めた。
 不意に笑顔が脳裡に浮かんだ。
 まあいい。
 手紙はダレスバッグの奥にしまった。



 ――半年後。
 総務部フロアの一室では優雅にお茶の時間が進んでいる。十一階の窓から見える夜景はロマンティックそのものだ。まさにASK推進企画室に打ってつけの風景。
「依頼審査終わりました。全員合格ですわ」
「あら、今回は優秀ね」
「よくこれだけそろったなというくらい質も量も云うことないし、結果が楽しみだわ」
「あとはこちらをどう進めるか、というところね」
「そうねぇ……」
「そのことについてなんですけど、うちの子。『営業部とは全然接点ないですよね』って云ったのね。営業部に配属を変わりたいのかしら」
「あら?! それって彼女はすでにフォーリンラヴではなくて?」
「そうこなくては。あのシーンで恋に落ちないほうがどうかしてるわ」
「そうよね。ではその子を足掛かりにしてはどうでしょう」
「いい取りかかりだわ」
「では、そちらから進めてくださる?」
「了解です。すでに両想いってことはうちの課の勝ち抜けかしら」
「まあ、わかりませんことよ」
「そうそう。恋の成就はすべてふたりのタイミング」



 ASK推進企画室が用意した居酒屋IOMA(イオマ)の一室は、八人そろった当初、緊張していた雰囲気もわずかに(ゆる)んで会話が弾みだした。厳密に云えば、緊張しているのは向かいあった女性たち四人だろう。
 ASK推進企画室が前置きしたとおり、半年前と変わらず、彼女たちを見ると女性と云うにはウブすぎる印象が消えていない。
 ASK推進企画室の実態がなんなのかは判明しないままだが、あの封書があった日から二カ月後に訪ねた総務部長は心配ないの一点張り。とりあえず、選抜されたらしいあとの三人と云うのがだれなのかだけは教えてくれた。全員が日頃から通じている営業部の奴だった。
 声をかけてみるとそれぞれが『お気に召した子』は総務部所属ばかりで、そこに何か意図がある気もした。本来ならASK推進企画室の手助けを借りずとも、どうにかできるだろうという兵ばかりだが、だれからともなく企画に乗ってみる方向へと進んだ。
 ASK推進企画室へ連絡をすると、それからいまに至るまで、ご丁寧に彼女たちの様子を例のとおり何度も封書で知らされた。
 会ってみてわかったのは、彼女たちがASK推進企画室の存在どころか、こうやって会っていること自体に戸惑っていて、明らかに何も実情を知らないということ。

 ようやく和んだのもつかの間、閉店十二時前のお開きの時間になり、携帯の電話とメールアドレス交換をはじめた。
「携帯、昨日変えたばっかりで、まだアドレスの呼びだし方がわからないんですけど」
「赤外線でこっちの受けて、あとでメールを返してくれればいい」
「あ、そうですね」
「ストイックさんのアドは長いんだよね――」
「何、それ」
「え?」
 口を挟むと、目の前の彼女がきょとんと見つめた。
「ストイックさん、て何?」
「あ……えっと携帯用の名前です。みんなの第一印象の話してるときに、なんとなくおもしろいなってはじめたんですけど。見られてもわたしたちにしか、だれかっていうのはわからないし」
「って云いながら、おれたちにバラしてるよ」
 おれが指摘すると彼女の頬が赤くなった。
「この際、おれらも携帯ネーム作るってのはどうだ?」
「それ、いいな。内輪の社内伝言に便利かも」
 横に座った二人が云いだし、結局おれたち四人にもふざけた携帯ネームがついた。
 そろって店を出ると駅まで送り、また会うことを約束して別れた。

 何も知らない彼女たちからすれば合コンにすぎず、おれたちからすれば捕獲場となるわけで良心が痛まなくもない。
 一人になると煙草を取りだして口に(くわ)えた。立ち止まって火をつける。
 痛む必要なんてないだろう。
 前提がASK推進企画室の条件に沿っていることには違いない。
 半年前と変わらない、さっき見た彼女の笑顔が浮かぶ。

 ――落とさなくてよかった。

 果たして、落ちていないのか――。

 歩きだし、煙草の煙を吐きながら、独り笑った。

 ― The story will be continued in ' 口説く男 '. ―

NEXTDOOR

* 文中
  『天国にいちばん近い島』 … 森村桂さんの旅行記よりニューカレドニアのこと(映画化されています)
  ダレスバッグ … ビジネスバッグの一種(アメリカ別名ドクターズバッグ)