NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第4章 二十三番めの呪縛

4.蜜に溺れる至福  act. 2

 ハングを探しているのは単に脱獄者だからということではなかったのだ。もっとも、ヴァンフリーは自分が愚かでなければならないと云ったけれど、それはそう装っているだけだとわかっている。それ以上に無駄なことも気が向かないかぎり行動に移すことはないはずで、つまり、なんの意味もなくハングを探すことはしないだろう。
 そして、凪乃羽はそのハングと出会って、それをまだヴァンフリーに打ち明けていない。話すべきだと、決心するよりもさきにヴァンフリーが凪乃羽の問いかけに答えた。
「厳密に云えば、おそらくハングを解放したのはロード・タロで、ハングに接触すればロード・タロに行き着き、真相を聞きだせるはずだ」
「ロード・タロとアルカナ・ハングが組んでるってこと?」
「ああ。遥かずっと昔、シュプリムグッドを率いていたのはハングだった」
「え……それって……ハングが皇帝だったってことなの?」
「いや、そういう地位がなかったほどずっと昔のことだ。この国もかつては地球と同じで、いくつもの部族の集合体だった。戦いに次ぐ戦いで部族の一つ、シュプリムグッドは巨大化していった。その間、部族を統率していたのがハングで、戦いの先頭に立ち、指揮官だったのが父――いまの皇帝だ」
 上人が上人たる以前、そんなところにまでまだ考えは及ばず、凪乃羽はびっくり眼でヴァンフリーを見つめた。確かに、最初から上人として生まれたのはヴァンフリーだけだと聞いた。人から上人になった経緯は何かしら存在するに違いなく――
 上人はロード・タロの力で上人になったんですよね――と、凪乃羽は考え考えしつつ独り言のようにつぶやいた。
「アルカナ・ハングは皇帝を殺そうとしたから閉じこめられたって、永遠の子供たちが云ってました。一緒に戦ってたのに仲が悪かったの?」
「一緒に戦う間は互いに最も信頼を置く同志だっただろう。だからこそ、シュプリムグッドは部族ではなく全土を統治するまでの国になった。その過程で捕虜としてエムを捕らえた」
「エムって……ヴァンのお母さん? エム皇妃?」
 出し抜けに話が飛んだ。エムがどう関わってくるのかさっぱりわからない。
 目を丸くした凪乃羽を見てヴァンフリーはうなずき――
「そうだ。母は美しい」
 とだけ云って、促すように首を傾けた。
 凪乃羽に自力で考えろということだ。ヴァンフリーが示した手がかりはごく少ない。人が三人寄ればいい知恵も浮かぶと云うが、逆から極端に穿てば意見が合わないということだ。捕虜と権力者二人、もっと突きつめると女一人に男二人、その間で争いごとが起きるとしたら、すぐに思いつく答えは一つしかない。
「もしかして……三角関係?」
「安っぽいだろう?」
「神様はそんなものでしょ?」
「それを上人の前で云えたら凪乃羽の度胸を認めてやるが?」
 ヴァンフリーはそれまでの神妙さを抜けだしておもしろがっている。
「無理だから」
 凪乃羽は勢いよく首を横に振った。
 ヴァンフリーはくちびるを歪めたような笑みを見せ、それからうんざりした気配でため息をついた。
「ハングによれば、父が母を奪ったらしい。永遠の子供たちの言葉には語弊がある。ハングが一方的に殺そうとしたというよりも決闘だと聞いた」
「だれから?」
「ハング本人だ」
 凪乃羽の思考は目まぐるしく動く。時系列を整理しきれないまま、考えるよりは訊ねるほうが早いと判断するか否かのうちに凪乃羽は口を開いていた。
「本人て、アルカナ・ハングが囚人になるまえに聞いたの?」
「いや、子供の頃――といっても何百年とたっていたと思うが、牢獄に侵入したときにハングの云い分は聞かされた。上人は本当に死ぬことはないのか、決闘と称して試されたとも云っていたな。ハングはその傷が癒えないうちに投獄された。母を取り合っていた以上、当然ながら、おれが生まれるまえのことだ」
 永遠の子供たちはローエン皇帝のことを、過去のこととしてもやさしかったと云った。けれど、夢が本当だとして、そしてハングの云うとおりだとしたら、皇帝には自分本位の横暴さしか感じられない。
「エム皇妃も……その、無理やり……?」
「母はそもそもが捕虜だ。父であれハングであれ、意思は尊重されない。真意は無論、母にしかわからないことだ。少なくとも、皇帝の息子であるおれを厭うようなことはなかったが……」
 ヴァンフリーは言葉尻をうやむやにして、大したことのないように肩をすくめた。そのしぐさがかえって気にしているように見えると思うのは勘繰りすぎだろうか。
 否、きっとヴァンフリーはいろんなことを考えているからこそ愚かなふりをしているわけで、凪乃羽のことにも絶えず気を配りながら、なお且つ、森に行ったり町におりたり、凪乃羽の希望までをも叶えている。
 ヴァンフリーこそがやさしい。
「ヴァン、わたし……アルカナ・ハングに会ったの」
 ハングは口止めはしなかったけれど、それは暗黙の了解のもと秘密にすることを凪乃羽に求めていたのか、定かでないまま打ち明けた。
 ヴァンフリーは奇怪なものに遭遇したかのように目を見開いた。
 驚きから覚めやらぬまま、信じられないとばかりに眉をひそめ――
「会った? いつだ」
 ヴァンフリーは脅かすような声音で詰問した。そうしながら、いざ凪乃羽が口を開くと、その答えを待たずに――
「いや、いい。昨日だ。森のなかで」
 と自ら答えを導きだした。どうだ? と問うように片方の眉をわずかに上げる。
 町の広場に行ったとき、森から帰って以降、凪乃羽の様子がおかしいことをヴァンフリーは察していた。いま、動揺していながらもそのことを思いだして凪乃羽の告白と繋いだ。
「ヴァンは愚者じゃない。たぶん従順じゃないけど本当の賢者。大学で講師に呼ばれるくらい、日本じゃちゃんとした会社の経営者だったし……それって魔法の力とかじゃないですよね?」
「おだててごまかすな」
 ヴァンフリーは顔をしかめて、ぴしゃりと凪乃羽の無駄口を跳ね返した。
「そんなつもりない。気を遣わせてて悪いなって思っただけ」
「本当にそう思うんだったら本題から逸れるな」
 すかさず凪乃羽を咎め、なお且つヴァンフリーの口からうんざりとしたようにも感じるため息がこぼれた。顔の周りに垂れた銀色の髪がふわりと揺れる。思わず凪乃羽の手が伸びて、その髪に触れた。そうした手のひらを、首を傾けたヴァンフリーがぺろりと舐める。
 あ!
 くすぐったさと粟立つような感覚に、凪乃羽はさっと手を引っこめた。
 ヴァンフリーは凪乃羽の反応をおもしろがり、瞳の中で玉虫色が妖しく揺らめく。オイルランプの灯がゆったりと揺れていて、それが陰りぎみの瞳に映ってそう見せているのかもしれない。
「故意にそうしてるわけじゃないから」
「だろうな。凪乃羽は生まれて二十年そこそこで、おれからすればまだ生まれ立てだ」
「だからといって子供扱いされるほど子供じゃありません」
「思考が幼いことは否めないが、子供扱いなどしてない。子供に発情するような癖(へき)はない。おれがおまえの何を気に入っていると思う?」
 訊ねながらヴァンフリーは凪乃羽の胸もとに手をやると、左の胸の下にあるリボンの端を引っ張って結び目をほどき、ドレスをはだけた。
「ヴァン……」
 凪乃羽はとっさにヴァンフリーの手をつかみかけ、すると逆にその手を取られて、また頭上に纏めて片手で括られた。
「ふくらんだ果実に実った粒は食べてくれと云わんばかりだ。加えて、尽きることのない蜜の宝庫は、おれを煽ってやまない」
 ヴァンフリーは俄に色めいた声で囁く。先刻の玉虫色の妖しげな揺らめきは慾情の兆しだったのか、親指の腹が胸の粒を弾いた。
 あぅっ。
 凪乃羽は身をよじった。いま、かつてないほどそこは敏感に反応した。ぴりっとした痛みのような感覚もある。
 敏感さはヴァンフリーにも伝わったようで――
「ずいぶんと反応がいいな。閨事が気に入ったかどうか、答えは聞くまでもないが、誘っているのか?」
 嫌らしい笑みが薄らとくちびるに浮かぶ。
「誘わなくても、ヴァンは毎晩、襲ってくる」
「おまえの蜜に溺れるのは至福だ。いや、蜜ではなく、中毒性の媚薬を分泌しているんじゃないだろうな」
「そんなことしてない! それよりも話が逸れてます」
 立場は逆転して、凪乃羽の言葉に呆れたふうに息をつき、ヴァンフリーは自嘲か皮肉か鼻先で笑うと、凪乃羽の手を解放した。はだけた胸もとの衣を合わせて誘惑の根源を隠す。
「凪乃羽はたまにおれの判断力を鈍らせる」
 媚薬のことといい、それが本当だとしても責任転嫁など凪乃羽からするとまったくの濡れ衣だ。
「何もやってません」
 自覚しておけ、とヴァンフリーは首を振って思考を切り替え――
「それで?」
 と真摯な眼差しに戻した。
「永遠の子供たちといるときにアルカナ・ハングは現れたの。あと、アルカナ・ハーミットも」
「ハーミット? ハーミットも現れたのか?」
 ヴァンフリーはまたもや不意を突かれたようで、くどいような様で問う。かといって、凪乃羽の答えを必要としているふうではなく、自分に云い聞かせている。
 ハーミットは神出鬼没と聞いている。予言者ではなく預言者だとハングが念を押したこと、ヴァンフリーがいま深刻そうに眉をひそめていること、この二つを噛み合わせればハーミットが現れるということ自体に意味があるのかもしれない。
「アルカナ・ハングはいろんなことを知ってるみたい。わたしに協力してほしいって……わたしの力が必要だって……裏切者を抹殺するために。裏切者って皇帝のこと? アルカナ・ハングはヴァンがそれを止めるために自分を探してるって云ってた。わたしの力って……さっきヴァンがアルカナ・ラヴィと話してたでしょ? わたしは皇帝と闘わなくちゃいけないの? それが決まったこと? アルカナ・ハーミットは定めがあるみたいに云ってた」
 凪乃羽は取り留めなく疑問を並べた。
 その縋るような瞳に焦点を合わせたまま、ヴァンフリーは首を横に振った。否定するのではなく、答えを整理するためのしぐさかもしれない。その証拠に、その顔には確固とした気配が窺える。
「おまえがいま話したことではっきり云えるのは、ハングを解放したのはロード・タロであること、おれがハングを探しているのはそれを確かめるためだったこと、そして凪乃羽に皇帝を倒すための呪縛の力が授けられているかもしれないということだけだ」
 はっきり云えることとしながら、凪乃羽が知りたい肝心のことが曖昧だった。
「“かもしれない”?」
 凪乃羽はあえて曖昧な言葉を切りとって訊ねてみた。けれど、想像していたような困惑や狼狽(ろうばい)がヴァンフリーの顔に表れることはない。反対に、疾しさはないといわんばかりの、真っ向から臨むような眼差しは少しもぶれなかった。
「確信はしていても、確証はない」
「……確証できるのは……やっぱりロード・タロだけ?」
「そのとおりだ。ハングと一緒にいる可能性がある。もしくはハングが居場所を知っているか。ロード・タロは方を付けるだろう」
 だが……、とヴァンフリーは云いかけてやめ、つと視線だけ横に逸らすと独り思考を馳せた。その面持ちが不服そうに変化していくだけで、続きを語ることはない。
 ロード・タロの方を付ける相手がローエンであることは明確だ。ヴァンフリーはどんな感情を抱くのだろう。そう危惧した直後には、凪乃羽は自分が傍観者ではいられない――それ以上に、二十三番めというけっして関わりを絶てない立場にいることに考えが及ぶ。すると、肝心なことを思い知り――
「ヴァン」
 凪乃羽は無意識に呼んでいた。
 ヴァンフリーがおもむろに凪乃羽に目を戻す。
「ああ。ハングとハーミットはほかに……」
「ヴァン、わたしは皇帝にとって敵になるんでしょ? それならヴァンにとってもわたしは……」
「違う」
 ヴァンフリーをさえぎった凪乃羽を――問いかけは出し抜けにもかかわらず最後まで云わないうちに理解して――ヴァンフリーもまた鋭くさえぎった。
「親子っていう感覚が希薄だってことは聞きました。でも、親子にはかわりない。もしわたしの力が皇帝を倒すことになったら……」
 ヴァンフリーは首を横に振って凪乃羽の言葉をさえぎった。そうして何か云ってくれるのかと待てば、じっと凪乃羽を見たまま微動だにしない。いや、凪乃羽を見ていながら、その実、目を向けているのはきっと自分の思考の中だ。
「そうすることをおまえが拒むのなら、それがロード・タロの意向であろうと、おれも拒む」
 ヴァンフリーはやがて一言一句、噛みしめるような様で云った。
 逆から云えば、その役目を凪乃羽が果たすのなら、それを認めるということだろうか。
「……ロード・タロに逆らえるの?」

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