NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第4章 二十三番めの呪縛

4.蜜に溺れる至福  act. 1

 ラヴィが去ったあと、ヴァンフリーはつと凪乃羽から視線を外し、後ろへと通り越した。
「セギー、夕食はすぐ部屋に運んでくれ」
「承知いたしました」
 凪乃羽の背後で足音が聞こえだし、遠ざかっていった。入れ替わりに、ヴァンフリーが足音を伴って近づいてくる。
 凪乃羽は一歩、無意識に退いた。
 それを見てヴァンフリーは立ち止まる。
「凪乃羽」
 その呼びかけにはどんな気持ちがこもっているのか。ヴァンフリーが続けるよりもさきに、凪乃羽は口を開いた。
「皇帝の思惑って……地球が滅びたのは……わたしのせい?」
 ハングの言葉によって、それまであった疑問が疑念に変わった。そのことに加えてヴァンフリーとラヴィの会話から凪乃羽が導きだしたのはそんな答えだ。
 ヴァンフリーはしばらく微動だにしなかった。目を逸らしたかと思うとチッと舌打ちが聞こえ、それから凪乃羽に目を戻すとすたすたと歩いてきた。またもや凪乃羽は退いたが、今度は立ち止まることなく、距離を詰めて造作もなく追いついた。
 少し身をかがめて凪乃羽の手首をつかむと強引に引っ張って、ヴァンフリーはひと言も発することなく部屋へと向かった。
 凪乃羽がその手を振り払えなかったのは、否定してもらいたいという一縷(いちる)の望みを捨てきれなかったせいだ。
 部屋に入るとヴァンフリーは凪乃羽を奥にやり、自分は扉の傍に戻った。口を開く気配はなく、ただ、まるで逃げ道をふさぐようだ。その実、庭に抜ける観音開きの窓からいつでも外に出られる。もっとも、どこにでも移動可能なヴァンフリーから逃れることは不可能だ。
 凪乃羽にしろ、さっきの疑問の答えをもらえていない以上、何かしら口を開けば横道に逸れてごまかされそうな気がして押し黙っていた。
 じっと見つめられて、目のやり場に困る。後ろめたさがあるとしたらヴァンフリーのほうなのに、凪乃羽のほうが目を逸らしてしまう。
 地球が滅びたのがもしも自分のせいだったら。そんな仮定からも目を背けたいという意思が働いているからかもしれない。
 否、ヴァンフリーの『目覚める』という言葉と、『皇帝の思惑どおり』というラヴィの言葉の欠片から、凪乃羽は無自覚に結論を見いだしていて、それは本能が察したのであってきっと仮定ではない。
 これまでのいろんなことの辻褄が合うような気がした。
 呼吸さえしづらくなるような時間を経てセギーがやってきた。食事の支度が調えられる間、気まずさ、あるいはぎこちなさは耐えられないほどで、セギーがその気配を感じとれないはずもない。
 無論、何を思ったとしてもそれを表に出すような無能な人ではなく、支度が終わるとセギーは、ごゆっくり、とさり気なく言葉を添えた。そうしながらうなずいて見せたのは、気遣いなくということか、凪乃羽はほんの少しほっとする。
 扉が小さな音を立てて閉まると、凪乃羽は出口のない箱の中に閉じこめられた感覚に陥り、息苦しさがいとも簡単にぶり返す。ヴァンフリーがおもむろに口を開いていくのを見て、思わず身構えた。
「食べたらいい」
 簡単な言葉が理解できなかったのは、凪乃羽が問いかけた核心からかけ離れていたせいだ。それが理解できると、ごまかすための時間稼ぎをする気かもしれないと勘繰って、凪乃羽はやるせない思いでヴァンフリーを見つめた。
「べつに凪乃羽を丸めこもうなんて思っていない」
 責めているように見えたのか、ヴァンフリーは潔白を云い立てる。
「……食べる気になれない」
「それでも食べろ。腹がへっては苛立つし、うまく考えられない。それが人間だろう?」
「ヴァン、わたしは普通に人間なの?」
 凪乃羽はヴァンフリーの言葉尻に重ねるように問うた。不意を狙ってそうしたことは実を結んだのか、それともさっきの凪乃羽みたいに不意を突かれて理解するのに時間がかかったのか。ヴァンフリーの答えはすぐには返らない。
 その実、互いに答えはわかりきっていた。
 シュプリムグッドに来て最初にヴァンフリーは、異世界人の凪乃羽が元凶と捉えられるかもしれないと云い、地球という世界から来たことを口止めされた。目覚めるという言葉はヴァンフリーだけでなく永遠の子供たちも使い、そのときの会話を思い起こせばごまかされたのだ。ヴァンフリーは、子供たちは子供を装っているだけだと云った。それが裏付ける。
「おれから云えば……」
 と、ヴァンフリーはようやく口を開いたかと思うと中途半端に言葉を切った。放つまえに今一度、慎重に吟味しているのか、そのことは紛れもなく枢要なことだと示している。
「おれから云えば、普通に人間であることのほうが不思議だった」
 ヴァンフリーは、凪乃羽が思っていた方向とは逆の方向から答えを出した。
 聞く覚悟はしていたものの、果たして役に立ったのかどうか――
「わたしの両親はヴァンみたいに上人でもなんでもない。普通の人からわたしは生まれて……」
 すぐさま否定しにかかった凪乃羽は、自分で発した言葉からある不可解さを思いだした。今度は凪乃羽のほうが中途半端に言葉を途切れさせた。
 凪乃羽に知未という母親はいるけれど、父親のことは写真があっても脳裡に残らない。物覚えが悪いということはなく、父親に関してだけ記憶障害が発生してしまうのはなぜか。
「ヴァン、わたしの父親はだれ?」
 凪乃羽は半ば無意識に訊ねていた。
 廊下で一歩退いたときのように、ヴァンフリーは彫像のように固まって見えた。
 嘘だったりごまかしだったり、それらを聞くまえに凪乃羽は続けた。
「わたしを普通の人間じゃないって思ったってことは、お母さんのこともお父さんのこともヴァンは知ってるってことじゃないの? アルカナ・ラヴィは呪縛の力を思いどおりにできるって云ってた。わたしは“二十三番め”なの? だとしたら、少なくとも父親は上人ってことじゃないの?」
 矢継ぎ早に、そして責め立てるように凪乃羽は口走った。
 ヴァンフリーの奥歯を噛みしめているような面持ちは、感情を抑制しているとはわかっても、肝心の感情の意はわからない。抉じ開けるような様でヴァンフリーは口を開いた。
「おれは推測でしか答えられない。そんな答えで凪乃羽を惑わせるつもりもない。真実を知るのはロード・タロだけだ」
「そうやってごまかすのはどうして?」
「ごまかしていない」
「ごまかしてる! ヴァンはわたしが持ってる力が必要なの? 最初からそれを手に入れるためにわたしを探してたの? やっとわかった。わたしがだれとも違うって云ってた意味は、恋いしてるからじゃない、二十三番めの力があるから。わたしの扱いはすごく簡単だったでしょ。〇番めの愚者よりもわたしはバカで愚か……」
「黙れ」
 激しく放ち、ヴァンフリーはつかつかと近づいてくる。
「黙らない。残念だけど、きっと人違い。それか、見込み違い。わたしにはなんの力もないから!」
 逃げられないとわかっていても、世里奈は身をひるがえして観音開きの窓に向かい、外へと出るべく手を伸ばした。その手がすかさずつかまれ、腰もとに腕が絡みつく。
「放して! わたしは出てい……」
「残念だが、手放すつもりはない」
「わたしに利用価値なんてない。ごまかしてばかりで、ヴァンはもう信用できない……っ」
 叫んでいるさなか、ずるずると躰を引きずられていた凪乃羽は一瞬、宙に浮いた。あ、と悲鳴をあげた直後、寝台の上で躰が弾み、安定しないうちにヴァンフリーが寝台に上がって凪乃羽を跨いだ。躰の脇に手をついて逃げ場を防ぐ。それでも凪乃羽はもがくようにして仰向けになった躰を起こそうとした。
「少し黙れ」
「嫌っ」
「凪乃羽、落ち着けと云ってる」
「放してっ」
 形振りかまわず振りあげた手が、意図せずぴしゃりと嵌まった。真上でヴァンフリーが顔を背け、それが頬を叩(はた)いた反動だと気づいたのは、その顔がゆったりと正面に直ったときだった。
 凪乃羽を射貫く双眸がきらりと不吉に光って見えたのは幻想にすぎないのか、すくんだ刹那、左右の手首がつかまれて頭上に括られた。右の手のひらはじんじんとして、その痺れの代償がヴァンフリーの左の頬に赤く浮かびあがる。
「おれに手を上げるとはいい度胸だ」
 愚者だと云い張りながら、上人としての自尊心、あるいは傲慢さは排除しきれていない。これがヴァンフリーの本性なのか、双眸に情けは見当たらない。
 “万生”であったときは見守るような気配を持ち、そしてこの国に来て強引でありながらも甘やかになった皇子は消えてしまったのか。
 凪乃羽は顔を背けた。それは逆らうように、もしくは拒むように見えたかもしれない。
「逃げるな」
 鋭く放たれた瞬間、呼吸を間近に感じたかと思うと、そっぽを向いた凪乃羽のくちびるがすくうようにふさがれた。
 んっ。
 本能的に逃れようと首を振ったけれど、ヴァンフリーは頭が寝台に沈むほどくちびるを押しつけてきて役に立たなかった。激しい口づけはいままでもあった。ただし、その激しさは熱であり、こんな痛みを伴うようなものではなかった。
 いやっ。
 無意識に心底で放った叫びは、あることを急速に凪乃羽の中に還らせる。
 夢だ。
 そう認識したとたん、夢の中のフィリルと凪乃羽の波長がぴたりと重なった。
 やめてっ。
 口を抉じ開けながらそう叫んだ声は、言葉にはならず合わせた口の間でくぐもった。同時にヴァンフリーまでもが口を開いて、その歯が凪乃羽のくちびるにぶつかった。悲鳴は呻き声にしかならない。凪乃羽の苦痛は伝わっていないのか、ヴァンフリーはかまわず舌で口腔を侵してきた。
 うくっ。
 嗚咽もまた呻き声にしかならない。そうして、すくわれた舌に異質の味覚が乗り、痺れるような感じがした。
 すると、ヴァンフリーは口づけたままハッと息を呑み、すぐさま顔を上げた。
 直後、嗚咽がこぼれだすくちびるに何かが触れる。瞼を伏せた視界の先に、ヴァンフリーの指が映り、傷ついた上唇をそっと撫でていた。凪乃羽は避けるように首を振りかけると、ヴァンフリーは両側の頬を手のひらでくるんで顔を正面に向けさせた。
「凪乃羽、悪かった。傷つけるつもりはなかった」
 ヴァンフリーは呻くようにつぶやいた。
「ぅっ……いまのは……夢と同じ」
「違う」
 ヴァンフリーはなんのことかと考える必要もなく即座に否定した。
 凪乃羽は顔を上向けられても目を伏せたまま、首を振ってさらに否定した。
「違わ、ない。やっぱり、上人は上人……」
「おれを皇帝と一緒にするな」
 鋭く、怒ったようにさえ聞こえ、凪乃羽は身をすくめた。
「ごめ……なさい。叩く、つもりじゃなかった……偶然……」
 そう云う声はふるえている。真上からため息と小さな舌打ちが降ってきた。
「わかってる。夢と混同して、おれを怖がるな。口づけたのは懲らしめようとしたわけではない。おれの意思を聞いてほしい。誤解のもと、早急な結論に至るまえに。頼む、おれを見てくれ」
 最後の言葉は心(しん)から懇願するようで、凪乃羽はゆっくりと瞼を上げていく。ヴァンフリーと目が合う寸前、少しためらって、それから目を合わせた。
 そこには喰い入るような眼差しがあり、嘘偽りや疾しさは覗けない。もっとも、それらを隠すのはヴァンフリーにとって造作もないことだろう。信じたい。そう思わされているのかもしれない。夢を恋と名づけられたもと、惑わされているのかもしれない。けれど。
 利用するつもりでも、ただ利用するだけならヴァンフリーは万生であったときに、決着は自分でつけろ、と凪乃羽に選択権を与える必要などない。それ以前に、待っていた、といまならその意味がわかる気がした。利用するためであれ、万生が自ら働きかけることはなく――万生がしたことといえば凪乃羽の前に現れたことだけで、あとは凪乃羽が自ら動くのを待っていた。
 なぜそうなるとわかっていたのか、簡単な言葉で片付けるのなら運命だろうけれど、それならなおさら、信じたい気持ちを信じていい気がした。
 嗚咽が静まり――
「ヴァン……」
 呼びかけたとたん、ヴァンフリーは力が尽きたようなため息を漏らした。
「ああ」
 ヴァンフリーはじっと凪乃羽を見つめながら短く応じたあと、自分を見てほしいと云ったわりに自らが目を閉じた。一瞬よりも長く、けれど凪乃羽を締めだすためではなく、何かを噛みしめているような気配だ。
 言葉どおりに、そして万生であったときのように、今し方も凪乃羽が落ち着くのを待っていたのだと気づかされる。
 ヴァンフリーはゆっくりと瞼を上げた。
「不確かなことで凪乃羽を不安にさせたくない。真実を見極めるためにハングを探している」
「……アルカナ・ハングが知ってるの?」

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