NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第1章 恋は悪夢の始まり

1.二者択一

――見つけたぞ。
 いつにない感覚はライヴホールが開場される間際からあった。
 会場のなかに人間が増えていくのを注意深く見守っていると、そうする必要もなく意識が一点に引かれた。
 直感が働くだろうことはなんとなく気取っていたが、いざそうなると善悪の判断が曖昧になる。無論、善悪はその者の主観によって変わるものだが。
「お呼びですか」
「ああ。二階席Cの一列二十三番のチケット購入者を知りたい」
「え? それはどうでしょうね……取り扱いは方々(ほうぼう)ありますし、該当のチケット会社が情報を出してくれるかもわかりま……」
「とりあえず当たれと云っている」
「あ……すみません。わかりました、手配します」
 話している間もそこから視点をずらすことなく、目を凝らしているうちに焦点が合ってくる。人間なら到底判別できない距離も、己(おのれ)の目なら探し求めていたからこそ確実に捉えられる。
 二十三番め。
 その共通点は果たして偶然か、皮肉っぽくくちびるが歪む。
 おそらくは何も知らないまま、この世界に守られて生きているのだろうが、あいにくとその存在は無風ではすまされない。
 ふと、己の視線に気づいたかのようにその瞳がこちらを向く。だが、人間の目に――少なくとも目覚めていないゆえの人間としての目に捉えられるはずはなく、さっきまでそうやっていたように隣席の女に顔を向けて何やら語りだした。
 もはや年齢など気にすることもないが、かつて清純という言葉が似合った姿を思い浮かべれば年の頃は近いように思われた。
 呪いは真実なのか。いずれにしろ、すべてを手に入れるのはおれだ。

    *

『成功するイベント企画力 イベントプロデューサー古尾万生(ふるおばんせい)講演会』
 そんなタイトルのもと、講演会という企画自体が大盛況で、最後にディスカッションタイムが設けられていたにもかかわらず、終了したあともなお、古尾の周りには人だかりができている。
 これじゃあ近づけない。
 遠巻きに眺めながら、麻井凪乃羽(あさいなのは)はため息をついた。
 古尾は、今春からオープンカリキュラム“想像と創造学”の特別講師として大学に招かれた。三年生になった凪乃羽は、その科目にも興味を惹かれたけれど、就活にも役に立ちそうだと思って希望を出した。同じような考えの人は大勢いたらしく希望者は定員をオーバーして、凪乃羽は抽選で運良く生き残ったのだ。
 講師が古尾だとわかると――正確にいえば、古尾がどういう容貌かわかると、受講できなかった友だちからうらやましがられる。
 遠目に見ると、古尾は頭ひとつくらい抜きんでて、背の高さが際立っている。二十九歳の若さで、業界では引く手あまたの逸材だといい、その年齢よりも落ち着き払っていて危なげがなく、大人にしか見えない古尾には羨望の目が集まる。顔立ちは作り物かと思うほど、それぞれパーツのラインに狂いがない。繊細というよりは、いかにも男っぽく強い意志を秘めた雰囲気だ。
 邪推すれば、いま集まっている学生たちの半分は女性で、その半分は講演についてではなく、ただ古尾とお喋りがしたいという不純な動機を持っている。
 ただし、なんのために近づくのかということを考えれば、凪乃羽は人のことを云える立場にない。
 時間がたつにつれ、だんだんと凪乃羽も冷静になったのか、帰ろうかとも思い始める。
 あのおかしな夢が悪いのだ。同じ夢を何度も見る。それが古尾と会ってから始まったという符合は、凪乃羽がこじつけているにすぎない。けれど、夢の中の人物が似ているのだ。いや、古尾を知ったからこそ似た人物が登場するというだけかもしれない。
 ううん、違う。
 凪乃羽は自分がした否定をまた否定した。
 はじめての講義で、古尾が教室に入り、教卓の上にテキスト一式を置いて顔を上げたとき、その目はまっすぐに凪乃羽を射貫いた。
 偶然にすぎず、自意識過剰だ。けれど、ただ目が合ったという以上に、凪乃羽の頭の中ではまるでロボットを起こすようにスイッチの入った感覚があった。
 それから三カ月、ずっと落ち着かない。
 学生が入れ替わり立ち替わり、これではいつまで待たなければならないのか見当もつかない。もしかしたら、話しかけるべきではないという、なんらかの意図や警告が働いているのかもしれない。
 凪乃羽は観念して再びため息をついた。そうして、踵(きびす)を返そうとしたその矢先。
「はい、今日はここまでですよ。講演会は終わりです」
 という司会者の声に、さっきのあきらめはどこへやら、きっとこれは話しかけるべきだというチャンスを与えられたのだと思い直した。それもつかの間――
「先生はお仕事を控えていらっしゃいますからね」
 という言葉が続き、学生たちの落胆の声が蔓延(まんえん)するなか凪乃羽もまた肩を落とした。
 やはり、天のお告げは近づくなということなのか。
 凪乃羽はバッグを肩にかけなおし、会場をあとにした。ロビーから外に出ると思いのほか日差しが強く、急に喉が渇いた気がしてロビーに引き返した。自動販売機にコインを入れて、何にしようか迷っていると、横から手が伸びてきて勝手にボタンを押した。
 呆気にとられつつ、缶コーヒーを取りだすのにかがめていた躰を起こしていく人物を見守った。ぴんとその背筋が伸び、そうして見上げたさきにあった顔を認識すると凪乃羽はびっくり眼になった。
「おれに用事があるなら聞くが?」
「……え?」
「さっき、待っていただろう?」
 古尾は自信たっぷりで尊大な口調だ。けれど、そんなことはどうでもいい。そんな感情と、気づいてもらえていたことに驚く以上にうれしさを覚えて、凪乃羽は自分に戸惑う。
「仕事があるってさっき……」
「おれに聞いてほしいのか否か、どっちだ?」
 古尾は凪乃羽をさえぎり、ひとつの答えしか出せない選択肢を提示した。
「聞いてほしいんじゃなくて、訊(き)きたいことがあります」
「なんだ」
「あの……まえに……大学じゃないところで、ずっとまえに会ったことありませんか?」
 ない、という答えはすぐには返らなかった。それが答えだと思ったのに。
「残念だが、ない」
 古尾は小ばかにした様子で嗤(わら)った。
 否定するだけならいい。嗤われただけで傷つくと訴えれば、繊細すぎると片付けられるかもしれない。もしも故意に傷つくように云ったのなら、古尾は尊大だという以上に冷血だ。
 “できる”人だから講義中に時折見せる多少の権高(けんだか)な部分は致し方ないと、さして気にならなかった。いまの古尾は、まったく嫌な人間に成り下がっている。話しかけて、凪乃羽が喜んだことを読みとって、フランクに近づいてみせ、反応を窺いながらもしかしたら内心でおもしろがったり嘲ったりしていたのではないかとも疑った。
 それとも、話しかけるまでは本当に凪乃羽の用事を聞こうとしていたのに、凪乃羽がまるで陳腐(ちんぷ)な口説き文句みたいなことを云ったから牽制(けんせい)したのだろうか。古尾なら誘惑はごまんとあるだろう。そういえば結婚しているかどうかも知らない。
 ともかく、誘惑だと勘違いしたのなら、古尾の無神経なしぐさは理解できなくもない。けれど、凪乃羽は至って真剣だった。
「ひどい」
 気づけばそんな言葉を発していた。
 凪乃羽が呆然としているうちに、勝手に缶コーヒーを開けて一口二口と飲んでいた古尾は悪びれることもなくにやりとした。
「お詫(わ)びに夕食をごちそうしてやろう」
 古尾は『ひどい』という言葉を“飲み逃げ”のことだと思ったのか、ワンコインとはいえ人のお金を勝手に使いながら、恩着せがましい。
 普段は講義だから真面目に振る舞っているだけで、仕事はできても実はいいかげんで鼻持ちならない人かもしれない。
 凪乃羽が答えないでいると、太い首がかしぐ。
「ついてくるか、来ないか、どっちだ?」
 古尾はまたもや二者択一を迫った。
「……いまですか」
「確かに夕食には早いが、待ち合わせとかいう面倒なことをするよりも、いまから一緒に来て、仕事が終わるまで待ってくれるほうが助かる。打ち合わせがあるが、そこに同席してもいい。社会勉強にもなるぞ」
 今度は古尾のほうが凪乃羽を誘惑している。あっさりコインを返せばすむものを、是が非でも凪乃羽を連れだそうと説得しているように感じた。
「古尾代表、車が来ました」
 返事をしないうちに、エントランスのほうからだれかが声をかける。
 凪乃羽に目を留めたまま、わかった、と古尾は応じ――
「行くぞ」
 と、凪乃羽の横に移動したかと思うと背中を押した。
 凪乃羽はつまずきそうになりながら歩きだし、ワンテンポずらして歩き始めた古尾はすぐさま追いついて一歩前を先導していく。ついていく間、一度も凪乃羽を振り返らないのは、ついてくるはずと当然に思っているのか、それとも、そうすることでついていかざるを得ないという心境に及んでしまう凪乃羽の性格を見切って利用しているのか。
 古尾と凪乃羽の接点は週一の授業だけで、これまで大した会話もしたことがない。こんなふうに声をかけてくれたことだけでもびっくりしている。だから、凪乃羽のことなど知らないといっていい程度なのに、見透かされているようなこの感覚はなんだろう。
「その学生さんは?」
 外に出てまもなく、そのさきに止めた車の傍で待機する男性が問いかけた。声を聞けば車が来たと知らせた人だ。凪乃羽が会釈をすると、古尾と同年代だと思われるその男性も軽く頭を下げて応じた。
「アシスタントにした。とりあえずインターンとして受け入れを頼む」
 驚きの度合いは男性よりも凪乃羽のほうが遥かに上回る。頼んでもいなければ、了解も得ず、勝手に決めつけている。さすがに口を開いて抗議しかけたものの、わかりました、という男性の返事のほうが早かった。
 後方のドアがすでに開けられていて、そのドアを支えるように持って古尾は凪乃羽を振り返る。さきに乗れということだろう。逃さないぞといった意志が見え隠れする。
 “飲み逃げ”から始まったことは、最初から凪乃羽をそうするための、すべてが計画のもとの言動なのか――違う、自意識過剰だ。
 凪乃羽の戸惑いをよそに、古尾はマイペースで、いや、それ以上に自分のペースに合わせろといわんばかりで、洗練されたオフィスで古尾の仕事に付き添う間、交わす会話は、そこに座って聞いていろ、とか必要最低限のことばかりだった。
 打ち合わせが終わったあとも社員共々、古尾の仕事が終わる気配はない。外も暗くなってきて帰ったほうがいいのかもしれないと思い始めた頃。
「終わるぞ、今日は解散だ」
 低い間仕切り(パーティション)はあるが、個室のないオープンなオフィスに、古尾の声が通り渡った。一斉に、ため息やら伸びやらがはびこるなか、古尾は凪乃羽を見てうなずいた。それだけで、行くぞ、と命令を下す。根っからの上に立つ人というイメージが、ますます強くなる。
 案の定、何が食べたいかと聞くこともなく、古尾は凪乃羽をイタリア料理店へと連れていった。案内された個室は、イタリアンには不似合いな、絨毯(じゅうたん)の上に座布団のある部屋だった。高いだろうということだけは判断がつく。好き嫌いも訊かれず、メニューが適当に決められたことには、腹が立つよりもほっとした。
「それで、おれとおまえが会ったことがある、と思う理由はなんだ」
 食前酒と前菜が据えられ、古尾に倣(なら)ってそのスパークリングワインをひと口嗜(たしな)んだところで、古尾は嗤ってあしらったくせにその話を蒸し返した。

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