NEXTDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

Intro 廻り廻る運命の輪

1.神界

 一歩足を踏みだせば着地するまでに気を失い、気がついたときには別世界が広がるといわれる、断崖絶壁のそこからは、森の壁が立ちはだかる遥(はる)か遠くまで一望できる。
 別世界というのは、その麓(ふもと)にある樹海からなかなか抜けだせないためか、それとも死を経た、本当に別の世界があるのか。
 もっとも、死という果てを知らない自分の身が死の向こう側に逝(い)けることはなく、麓の樹海を住み処としている以上、一歩踏みだしても別世界などない。あるのは躰が回復するまでの痛みのみだ。
 それを経験していても、この場所に立つのは気分がいい。
 胸もとを締めつける純白の衣(ころも)は、腰のくびれから足先まではゆったりとしていて、風が吹き抜けるたびに大きく揺らめく。
「痛みがなければここから飛んで帰れるのに」
 そうつぶやくと、くっくと笑い声が躰に纏(まと)わりつくように聞こえた。
「ずいぶんと懲りたようだな」
「タロ様、いつの話をしていらっしゃるのかしら」
「おや、怒っているのか」
「いつまでも同じことでからかいになるなんて、少し子供っぽくはありませんか」
 云(い)い返すと、フィリル、とタロは咎めるように呼びかけた。
「あのとき、どれだけ私が慌てさせられたと思う。卒倒しそうになっていたんだぞ。死ぬ思いというのを、あの瞬間に教えられた。いくらおまえをからかっても足りぬというものだ」
「タロ様には死などあり得ないでしょう? わたしも死なないわ。それなのに、動けるようになるまで三晩、お役目を放棄してずっと傍(そば)にいらっしゃったわね?」
「フィリル、私をからかうのか?」
「いいえ。ただ抱きしめてほしいのにってタロ様を責めているだけ……そう思うことも不謹慎ですか」
 気配だけだったタロが姿を現す。姿といっても、やはり気配にすぎない、かすかに陰を思わせる程度だ。
「思うだけではすんでいないだろう。言の葉にのせてフィリルは私をここから引きずり堕(お)とそうとしている」
「わたしといることは……主(ロード)にとっては堕落ですか」
「私が私の望むことを成してしまえば、間違いなく堕落するだろうな」
「酷(こく)すぎます」
「それだけ私はおまえに夢中だということだ。それでも酷すぎるか」
 拗(す)ねたようにそっぽを向いていた顔をぱっと声のしたほうに振り向ける。けれど、そこには気配しかない。告白を聞き遂げた瞬間の喜びは、あっという間にさみしさに変わっていく。
「云い間違いました。タロ様は酷ではありません。わたしがさみしくてたまらない。それだけです」
「フィリル……」
「そろそろ樹海におりなくては。下界の民はお祈りの刻です。タロ様も降臨なさるお時間ではありませんか」
 諭(さと)しかけていたタロをさえぎって一方的に別れを告げたフィリルが拗ねていることは歴然で、彼女自身、云ってしまってから恥ずかしくなった。フィリルは謝罪する時間を引き延ばすように、あるいはタロといる時間を引き延ばすようにため息をゆっくりとついた。
「こうやってお会いできるだけでも光栄なことなのに……タロ様、ご無礼をお許しください」
「フィリル、私が戻るまでここに……」
「いいえ、天啓をお望みの方が訪ねてみえるんです」
「祈りの刻だというのにか?」
「云わずとも、お訪ねの方はだれだかおわかりでしょう? あの方は放蕩息子に頭を悩めていらっしゃるんです」
「だが、あの息子は……」
 怪訝(けげん)そうな気配にフィリルはくすりと笑みをこぼした。
「ええ。タロ様と同じようにわたしも感じています。つまり、上界も下界も子を持つ親に大差はないということなんですね」
 フィリルに纏わりついたタロのため息は、わずかに批難めいている。それがフィリルに対してではないことは彼女もわかっている。
「頭を悩めていらっしゃるのはタロ様もそうですか? お望みでしたら天啓をお示ししましょうか」
 からかってみると、今度は笑みの混じったため息を感じた。
「私かフィリルか、あるいは双方が関わることについては、いつ何時に占っても答えが出たためしがない。だろう?」
「何事にも“はじめて”は付きものでしょう? 今日は何番めになさいますか」
「それは……私は逢瀬(おうせ)の約束を取り付けられているのか」
「そのように」
「仲直りだ。今宵(こよい)、迎えにおりる」
「はい」
 そうしてフィリルが首をかしげると――
「二十三番めだ」
 無言の催促にタロは答え、彼女は目を丸くした。
「それは存在しないカードですよ?」
「二十三番のカードとは云っていない。二十三番めとは一巡すれば?」
「〇番め、ですか」
「正解だ。では送ろう」
 けっしてタロに手で触れることはかなわないけれど、触れ合うという経験がないからこそ、フィリルは心が触れ合うことで満ち足りる。たったいま抱きしめてほしいと吐露したばかりで云うにはおこがましすぎるが、さみしさとともに幸もある。
 フィリルは断崖の上からもう一度、眼下の景を賞する。
 陽の光を受けて、眩(まぶ)しいほどに光と色彩を放つ水晶の城が天をつくように高くそびえ、規則正しい格子縞(こうしじま)の城下町、さらにその周りは集落が見受けられつつ、大河が延々と下界を二分(にぶん)している。
 遥か昔から変わらない壮大な景観はいくら臨もうと飽きることもない。けれど、退屈している上人(かみびと)もいるらしい。
 フィリルは独り笑って、傍らにタロを感じながら樹海におりていった。
 樹海は木々が生い茂り、人の方向感覚を麻痺(まひ)させて行く先を惑わすが、葉の隙間から光が降り注ぎ、けっして暗いことはない。むしろ、風に揺れる葉によって、光が瞬くようできらきらとした幻想的な空間を醸(かも)しだす。
 天啓を授かるには最もふさわしい場所かもしれない。
 葉のさざめきの下、太い木の幹が円卓となり、地上に這(は)いだした根っこを椅子がわりにして座り、フィリルはいくつもの円が重なった年輪の上にカードを並べていく。
 遥か昔に稲魂(いなたま)が落ち、太い木は真っ二つに裂けた。残った根元を精霊たちが磨いて平らにした。以来、ただのカード遊びだったはずが、フィリルがひと度カードを扱えばそれは意思を宿らせて暗示する。
 そのうちフィリルは暗示を読み解けるようになり、いまでは天啓として上人に、あるいは民に教え導く役目を担(にな)っている。
「二十三番めなんて、タロ様も人間みたいにひねくれ者ね」
 フィリルはくすりと笑いながら、一巡して一枚めということは、最初に置いたカードを見ればすむにもかかわらず、順に二十二枚すべてを並べた。
 そして、二十三番めのカードをポンと指先で叩く。すると、カードがひとりでに宙に浮いた。フィリルは目を丸くしてそのカードを見た。
 いや、不思議なのはカードが勝手に浮いたことではない。それはいつものことだ。けれど、タロが云っていたように、フィリルとタロが関わるかぎり、カードはぴくりとも動かないのだ。それは、フィリルが占い手であり、タロがロードであるせいだと思ってきた。
 まるで動かないから、何番めかと問うのは天啓を授かるためではなく、ふたりのお遊びにすぎなかった。
 それなのに、いま、どういうことだろう。
 フィリルは、真っ青の巨大な星とそれを縁取る光、そして周りには小さな星を散りばめたカードをじっと見つめた。手に取るのをためらうのは、そこに天啓があるからだろう。
 天啓を求める者は望んでそれを手にする。切羽詰まった者もいれば、娯楽でやってくる者もいる。身に降りかかるもの、それが不幸であれば幸に転じるよう指し示し、それが幸であれば自戒を促す。
 いずれにしろ、覚悟を持ってフィリルのもとに訪れるのだから、いまのフィリルのような怖れはないはずだ。
 フィリルはため息をつく。
「タロ様が二十三番めなんておっしゃるから、罰が下されたのね」
 つぶやいて、今度はくすりと笑う。
 そうしてフィリルは手を伸ばしてカードをつかんだ。くるりと表に返すと絵柄を見て目を丸くした。カードはそれぞれ上人が描かれている。いま手にしたカードはフィリルのしるし、“運命の輪”だった。しかも逆さまだ。
 輪は廻(めぐ)り始め、不幸が降りかかるということか。あまつさえ、世界を変えてしまうような。それはフィリルの身に? それともタロに?
「でも、大丈夫」
 フィリルは邪気を振り払うように宙に向かって宣言する。
 不幸は幸の始まりにすぎない。
「出迎えがないとはめずらしいこともあるものだ」
 ふと、尊大な声が轟(とどろ)き、フィリルはびくりとして持っていたカードを取り落とした。

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