ふぃるふぃーる-恋愛短編集-

きみへ

−前 編−



 ハルくん、きみはいつもあたしの中に生きている。
 ときどき、あたしに会いにきて励ましてくれる。
 きみの笑顔はあたしの目標なんだ。



 カチッ。
 ひっそりと静まり返った部屋に、ワンルームの住処(すみか)で一つだけしかないドアの向こうから合図音が聞こえた。
 ドアを開けると、ひんやりとした空気の中に甘酸っぱいモカの香りが広がっている。流しの横の水切りカゴから、大きなオレンジ色のガーベラが一輪描かれたマグカップを取り出して、コーヒーを注いだ。
 部屋に引き返すとカップをテーブルに置いて座り、狭い部屋に無理やり置いたベッドにもたれかかった。
 二カ月前からざわついた感覚がため息となって部屋を満たす。
 テーブルに置いた携帯電話が嘲笑(あざわら)っているような気がした。
 ホットカーペットの温もりも、手に持ったカップの温かさも心の中までは伝わらない。数分しか経っていないのに、香りに慣れた鼻はコーヒーがもたらす安らぎも(とら)えられなくなっていた。

 もう一つふっとため息をつくと携帯を手にとって開き、見慣れた番号を呼び出す。
 それからボタンを押すまで画面と終わりのない(にら)めっこを繰り返した。
 三十分くらいそうしていただろうか。時計の針が十時半を指す頃、意思に反して指先がボタンを押した。

 迎えた声はふわりと優しく揺さぶるような低さで耳に届き、寒い夜に温かく深くあたしの中を響き(めぐ)る。

「トダさん…風邪ひいてない?」
「ひいてないよ。リエ……どうした?」
 たまに意味もなく潰れそうになるあたし。
 それを知っているトダさんは、隠そうとした努力も報われず、電話越しにあたしの声に(ひそ)んだ感情を察した。

 トダさんとは波長が合う。それが恋なのかどうか、よくわからない。
 もしかしたら彼女への嫉妬。
 トダさんの電話の声に(あこが)れた。

 あたしがこんなふうにトダさんと話せるようになったのは彼女、マキのおかげだった。


 あたしとマキは小さい会社ではめずらしい同期入社だ。
 仕事上で助け合ったり、休日もドライブをしたりと、なんとなく気が合って一緒にいることが多かった。
 それが一年も続くとマキは、こんなになんでも話せる友だちはリエがはじめて、と、こっそり自分の病気のことまで語り、うれしそうな笑顔を向けた。
 そういうことを面と向かって云われたことがなく、あたしもなんだかうれしくて、マキを大事にしたい、ずっと友だちでいたいと思った。
 どちらかというと頼られている側のあたし。
 マキはよくあたしの真似をした。身につける物や持ち物だとか。
 あたしは特別にこれといって自慢できるものを持っていたわけでもなく、それに伴って自信も持っていなかったのに、あたしが気づかないなにかへの、憧れみたいなものがマキの中にあったのかもしれない。

 その実、マキの素直さのまえではあたしのほうがずっと臆病で、いつも一歩が踏み出せない。
 会社に入って二年も経つと、小さいからこそがんばれば目の前で認めてもらえるうれしさを知り、経験を重ねるごとに『仕事をする』ことの楽しさを覚えた。
 それはあたしの自信になった。
 そんな余裕ができた頃にトダさんを知った。
 トダさんは会社の取引先の人で、面識はないけれどたまに電話で話すことがあった。後にトダさん側で社内配属の変更があり、あたしの会社の担当となった。必然的に電話でのやり取りをする機会が頻繁(ひんぱん)になる。
「声がいいよね」
「そうそう。実物を見てみたいね」
 あたしたちはよくそう話した。
 あたしにとってそれはあくまであり得ないことだったのに、マキは信じられない積極さでいつのまにかトダさんと友だちになっていた。
 二人は会ったわけではない。仕事上、通常では考えられない気安さでマキはトダさんと話していただけのこと。

 あたしの中に見知らぬ感情が生まれる。
 それなのにマキはその素直さであたしとトダさんを繋いだ。

 昼休みになると会社の電話を三人で回しながら、ちょっとの時間だったけれど、いまになると覚えてもいないたくさんのくだらない話をした。
 (はた)から仲良く見えるのとは裏腹に、あたしの中にあった見知らぬ感情は次第に大きくなっていた。
 もしかしたら、マキの中にも…。
 (きし)んでいく自分を持て余していたある日、トダさんがふと、
「携帯、教えて」
と突然、マキを目の前にしたあたしに云った。
 あたしはマキに目をやり、そして目を()らした。
「え……? あ…あとで、えっと…調べて連絡する…。……それよりもね ――――」
 あたしはごまかすのに必死になって、『それよりも』なにを話したのかまったく記憶にない。
 なぜ、あたし、だったのか。
 それはトダさんの中でしかわからないこと。
 こうやってトダさんと屈託なく話せるようになったのは、友だちとしてずっと大切にしたいと思ったマキの素直さが与えてくれたものだった。

 けれど、あたしはマキを裏切ってトダさんを選んだ。
 その日以来、三人で話すことは(まれ)になり、そして、なくなった。
 気づかれないようにしていたつもりが思っているよりもずっと鋭く、マキはあたしを観ていたのかもしれない。

 マキは昼休みになると携帯を持って外へ出て行く。一時になるまで戻ってくることはない。

 マキもまた、あたしを裏切ってトダさんを選んだ。
 トダさんは……あたしを選んだ。

 夜になると携帯電話を前にトダさんの声を待って、あたしはそわそわした。
 あたしだけがそうなのかどうかはわからないけれど、その時の気分によって、(うれ)いを抱いてもどうにもならない世間のことを気にしすぎて()ちる時がある。
 トダさんはそういうことを素直に云わせてくれる。
 わかってくれるということはトダさんも同じ感性を持っているということ。
 あたしだけじゃないとはじめて安心をくれた人だった。
 あたしを(さと)す声が心地いい。
 毎日とはいかなかったけれど、毎日のようにあたしに注がれる声はあたしの中でだんだんと存在を大きくしていく。

「今度、そっちにいる友だちに会いに行くんだよ」
「そっか……会える時間、ある?」
 何気なく口にした日常会話がこんなふうに発展するとは思わなかった。あたし自身の鼓動が耳に響く。
「……うん、時間取れると思う」
「お初、だな。楽しみにしてる」
 トダさんの声は至って冷静に聞こえる。電話の向こうのトダさんはどんな表情をしているんだろう。
「うん」
 夜にかかってくる電話が日課のようになって二カ月経っても、会うまでには至らなかった。
 顔を知らないまま育った感情は、会う、ということに対して必要以上にあたしを緊張させる。

 トダさんの領域で、あたしが知っている場所を待ち合わせ場所にした。
 先に来て白い車にもたれて待っていたトダさんは顔を知らないにもかかわらず、すぐにあたしだと気づいて初対面ではないように屈託なく手を上げる。
 あたしはトダさんの視線に見守られながら近づいた。
「こんにちは」
 これまでずっと気さくに電話をしていて、ましてや同級生なのに面と向かって声をかけるのははじめてだったせいか、あたしが口にした言葉はバカみたいに他人行儀な発音になった。
「ぷっ。こんにちは」
 トダさんは吹き出し、あたしはその声を聴いて、トダさんだぁ、と妙に感動した。
「想像以上」
 同い年には見えない穏やかさでトダさんは(つぶや)いた。
「なに?」
「思ってるより小さかったな、ってこと」
 そう云ってトダさんの右手があたしの頭に降りた。
「なに、それ?!」
 どきどきしながらそれを隠すために抗議すると、
「可愛いって云ってるんだよ」
とトダさんは初対面を感じさせない様子で緊張すら見せなかった。

 そこにあたしは頼れる強さを感じた。
 それくらいトダさんの声の中に飾らない心を見たと思ったんだった。
 照れ隠しに笑ったあたしをトダさんが(まぶ)しそうに見下ろす。
 トダさんが車で案内してくれた山の絶景スポットより、あたしが知らないことを傍で語り(つむ)ぐ声に見惚(みと)れた。
 けれど、この時はすでに…。

 それからしばらくして一度だけ、トダさんがあたしに弱音を吐いたことがある。

 電話の向こうでため息をついたトダさんに、
「どうかした?」
(たず)ねた。
「…………ミスやった。こんなつもりじゃなかったんだ……」
 呟くように云ってしばらくトダさんは黙った。
「……仕事?」
「ん? いや……」
 いつもにないトダさんの曖昧(あいまい)な返事。
 あたしは()いてはいけないことなのかと思って深く追求はしなかった。
 まだたまに、マキがトダさんに電話していることを知っている。マキの様子を見ていてわかるし、トダさん自身が、相談持ちかけられてるんだ、とあたしに打ち明けた。

 あたしは本当に選ばれたのかな。

 見知らぬ感情は嫉妬という言葉に代わり、その不安の中でも、電話越しではなく、触れられるほどの距離で紡がれる声にあたしは(おぼ)れていたかった。

 でも、聞いたんだ。
 トダさん自身からではなく、人づてに。
 もしかしたらマキもすでに知ってた。

 結婚したんだね。
 あたしがまったく知らない彼女と。

 あたしは訊けなかった。

後 編DOOR