ふぃるふぃーる-恋愛短編集-

きみへ

−後 編−



 コーヒーはすでにぬるくなって寒さが増してくる。
 カーテンを閉めようと窓辺に寄った。少し曇ったガラス窓を空いた手で拭くと、ぼんやりしていたネオンがくっきりと色を出す。
 このワンルームに決めたのは、近辺に高い建物がなくて見晴らしが気に入ったからだ。
 引っ越したばかりの頃は、五階の部屋から見える夜景を独りでうっとりと眺め入っていたのに、いまは色褪せて見える。
 あたしの心の目がそう映しているのかもしれない。
 広がる灯りのぶんだけ、そこにそれぞれの時間がある。

「ううん。最近、精神力が落ちてるだけ」

 電話ではじまった、もしかしたら恋と呼べる感情はあっけなく幻と消えた。互いに確かめることのなかった気持ちはふたりが共有した時間をも周りから消した。
 それぞれを裏切ったことは明確なのに、それ以上のことはマキでさえも確信を持っていない。

 あたしたちのことはだれも知らない。
 結婚してからも、あたしと会った理由はなに?
 たまにトダさんは含んだ言葉を吐く。

『あー、もっと早くに会ってたらなぁ』

 そのときは意味がわからなかった。

『時間、戻したい』

 不自然な言葉なのに、それらはあたしにはなぜか自然に聞こえた。

 あたしのこと、好き?

 あたしは、たぶん、恋してる。
 その声から紡ぎ出される言葉の羅列に溺れていたい。気づかないふりをしたまま。自分を騙して。
 あたしの中にある優越感と嫉妬。同じくらい醜くて。

 結婚、後悔してるの?
 でも、かわいそうだよ、トダさん自身も。

 最後まで訊けなかった。
 いまは落ち込む理由があるんだ。
 それさえ伝えられない。

「そういうことあるよ。おれもいまそういう気分……リエに会いたいな」

 あたしも……でも ――。

 いま時間を戻したいのはだれよりもあたしなんだ。
 いつも素直になれなくて臆病だったあたしが、たった一歩を踏み出さなかったことへの後悔。
 トダさんが云い出すよりずっと早く、あたしがそう思いはじめたときに素直に一言、会いたい、とそう云えば、見知らぬ彼女の存在がすでにあったとしても、 トダさんが『もっと早く』と口にすることも、卑怯(ひきょう)なトダさんを知ることもなかったかもしれない。
 ふたりの未来があったかもしれない。

 あたしはまた逃げている。

 学生の頃はだれもがレベルは同じだって思っていた。
 けれど、『仕事』をするようになって『できる』ことの自信とともに必要ないプライドを構築し、それはあたしに目隠しをして素直さと、優越感や嫉妬なんていう、少なくともあたしにとってはなんの利にもならないものとを引き換えた。
 しばらくは知らないふりして続けていた電話ももう(みじ)めな自分しか見えず、薄暗い会社の中で正面のデスクにいるマキから向けられる眼差しは、あたしをますます惨めにする。

 なにやってるんだろう……さよならも云い出せない。
 まっすぐに生きたかったのに、全然まっすぐじゃない。
 優しく生きていくつもりだったのに、あたしの中に優しさなんてなかった。
 あのとき、きみのぶんまで ――。
 そう思ったのに。

 ハルくん、きみと出会ったのはやっぱり小学校に入学したときだったんだろうか。

 きみがいたりいなかったりすることに気づいたのは五年生になった頃だったと思う。
 ハルくんは帽子を(かぶ)っていることが多くて、いつか雪国から転校してきた男の子よりも色が白かった。
 めずらしく学校に出てきたハルくんは、教室の自分の机から動くことなく、いつも笑っていた。優しく笑っていた。

 きみが病弱だということはわかっていたのに、きみがいつも死と隣り合わせだったことは知らなかった。
 小学生だったあたしは気づかなかったけれど、いまのあたしはわかる。
 ハルくんがどんなに強く闘っていたのか。あたしが知らないところで、どんなにきみががんばっていたのか。
 同級生なのにあたしたちがハルくんのお見舞いにただの一度も行けなかったこと。
 きみはあたしたちから一欠片(ひとかけら)の病ももらうわけにはいかなかったんだ。

 中学二年生になってすぐ、なんの用事だったかは忘れたけれど、同じクラスの子と二人で職員室を訪ねた。
 ノックしようと手を上げた瞬間。
『亡くなったそうです』
 そう云った先生の口から出た名前は、ハルくん、きみでした。
 あたしの手は力なく落ちた。
 友だちと顔を見合わせて言葉を交わすこともなく、結局あたしたちは職員室には入らなかった。入れなかった。

 中学生になってからきみに会った記憶があたしにはない。
 ハルくんが亡くなるまで病名を知らされることはなかった。

 こんなに呆気なく人はいなくなるのだろうか。
 まだ十三歳なのに。

 この頃、世の中のいろんなことが目につくようになって、あたしは生きるということについて考えはじめていた。
 そんなときにはじめて直面した、失われた命。
 生きることに疑問を感じてはいたけれど、このときはまだ祖父母も元気で、人の命に果てがあることを現実としていなかった。

 ハルくんの(からだ)とさよならをした日、やっぱり見たのはきみの笑顔。教室にいたときと変わらない。
 ただ、きみは生きたかったんだよね。
 だから、苦しくてもきみは笑顔を見せてくれた。
 あたしたちの普通を眺めて、椅子に座ったまま静かに笑ってた。

 会うたびにきみの笑顔が深くなっていったのは、耐えられないほどの増していくつらさがあっても、ただ、ただ、生きたかったからなんだ。
 きみとの離別を目の当たりにしてそうわかった気がした。
 このときのあたしは、きみのぶんまで ――。
 そう素直に思ったんだった。

 あたしはまた心の迷路に気を取られて、しばらくハルくんに会っていなかった。

 マキはあたしを裏切ったわけじゃない。そうせざるを得なくしたのは、マキに打ち明けられなかった卑怯なあたしであって、彼女に落ち度なんてない。

 トダさん、あたしが電話したらいつまでも付き合ってくれるけれど、もうトダさんから電話をくれることはなくなっている。
 それは結婚した彼女への配慮なんだね。
 だったら、終わりにするのはあたしからだ。

 電話に出たり出なかったりすることに気づいたあたしが、時間を見て電話していることをトダさんは知っているだろうか。
 今の時間、彼女はきっと別の部屋で小さな宝物に寄り添って眠っている。

 あの時のトダさんの弱音は、あたしと同じ卑怯さ以外のなにものでもない。
 あたしに対しても彼女に対しても。
 ただ、あたしに深く触れることがなかったのは、トダさんのあたしに対する最大の敬意だったと思う……そう……思いたい。

 トダさん、貴方(あなた)の中であたしがいちばんだった時間があるよね。
 その時間の想い出のあたしは、ハルくんのような笑顔でいたい。

 トダさんがその声で語る夜話を聴きながら覚悟を決めた。

 トダさんみたいにわかりあえる人、きっとこれからは見つからない。
 けれどそう考えるのはあたしの弱さなんだ。

 カーテンを閉めた。

「ばいばい、またね」
「じゃあ、またな」

 再見(サイツェン)。心の中でまた会いましょう。


 よく眠れなかった夜を越えた。
 決心したにもかかわらず、あたしの中にはまだ断ち切れない気持ちが残っている。
 さよならをしたのはまだ昨日のことで、当然だよ、と自分を甘やかした。

 ベッドから抜け出して遮光カーテンを開けると、誘うように窓から朝の光が差し込んでくる。
 ()かされるように着替えてデニムのジャケットを羽織り、エレベーターで下に降りた。
 エントランスのドアを開けたとたん、いまのあたしには眩しすぎる光に出迎えられた。

 秋から冬へと変わっていく空は高く、夏の間に(よど)んだ空気が浄化されていく。
 並木道の葉は冷たい風と相反して暖かい色を舞い躍らせ、歩き続けるあたしの肩を慰めるように撫でた。
 あまりにも優しい色で、あたしは足を止める。

 はじめてトダさんと会ったあの日も同じ季節だったのに、軋んでいたあたしは(ゆが)んだ心のドアを開けられず、その色が目に入ることもなかった。

 日曜日の早朝は人通りもなく静かで、風が通り抜けるたびに、さわさわと揺れる葉たちの奏でる声があたしの心を包み込む。
 こんな普通の風景が、心に沁みることもしばらく忘れていた。
 大きく深呼吸をしてみる。

 澄んだ空気が躰内(たいない)に浸透するとともに、溢れ出した雫が乾いた鼓動を(うるお)し、循環していった。

 ハルくん、きみと会話した記憶はなく ―― その声はもちろん記憶になくて、きみよりもずっと長い時間を一緒に過ごした、同級生の名前も最近はあやしくなってきたのに、きみの名は、きみの笑顔とともにいつも海馬(かいば)の先端に存在しているのか、躊躇(ちゅうちょ)なく思い出せる。

 きみが病室で同級生のあたしたちに、と作ってくれたプレゼントは、少し薄汚れてきたけれどまだ大事に持っている。
 あのとき、もらってうれしいの? と友だちにからかわれたけれど、素直にうれしいと云えたあたし。
 あたしはそう云える素直な自分が大好きだった。

 初恋の相手でも親しい友だちでもなかったハルくん。
 きみはただ、そこに存在しただけなのに。

 トダさんとのことは、マキという友だちもトダさん自身のこともあたしの軋むまえの素直さも、失ったものばかりのような気がするけれど、失われたきみの命がいまあたしの中で大切なものになっているように、ずっと未来ではその中にあった貴重なものがなにか見つかっているかもしれない。

 そう思う。
 でも、まだ明日もあたしは泣いている。

 ただ、きみのぶんまで ――。
 この気持ちは捨てない。

 また迷ってしまっても、そのときはきみに会いにいく。
 きみはそんなあたしを見て、同じ笑顔で迎えるのだろう。それとも迷惑だと呟いてきみは笑うのだろうか。

 春になる頃に芽を出した緑は深く色づくとともに夏を越し、いまあたしの目の前で、忘れないでと印象づけるかのように紅く染めた躰を散らしていく。寒い冬には木々の躰内に身を潜め、そしてまた新しい緑が生まれる。

 それと似た繰り返しのなかで、きっとあたしは少しずつきみの笑顔に近づいている。

 あたしの中にいつもいてくれるきみへ。
 笑顔を(のこ)してくれたこと、あたしのまえで生きてくれたこと、神様を探し出してキスしたいくらいうれしいんだよ。
 どうしてキスがぼくにじゃないのかって、心友(しんゆう)としてきみは突っ込んでくれるかな?  それはね、たぶん、あたしにとって、きみは神様の存在よりもずっと大切だから。
 どんなに素直な笑みを宿らせることができても、きみの笑顔にはきっと追いつけない。
 強さに溢れたきみの笑顔には(かな)わない。
 でも、あたしはまたがんばる。
 いつかあたしが、きみのいる場所へと還ったとき、恥じることなく、まっすぐにきみの笑顔を見られるように。

 ありがとうという気持ちとともに、あたしの飾らない笑顔を届けられるように。
 きみへ。

− The Conclusion. − Many thanks for reading.


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