幻想組曲-恋-
転生の調べ 〜惑いの面輪〜 前 編
苦しい。
なぜだ?
なぜこんなに苦しいんだ……。
ドスッ。
くっ――。
ドンッ。
うっ。
幾度となく、鈍くぶつかる音とくぐもった呻き声が繰り返される。
パタパタパタ――。
そのなか、コンクリートの廊下を上履きで駆けてくる音が耳に届いた。
「領、またやってるの?! やめさせて!」
「花南、またおまえか。煩い奴だな。あいつらは躰を鍛えてんだよ」
昼休み、校舎の裏では、九党領流に云えば熱戦が繰り広げられている。
「領ちゃん?!」
走ってきたのと怒っているのとで、真っ赤になった高里花南は腰に手を当てて、領が嫌がっている呼び方をした。
領は竦みあがるくらいに花南を睨みつけた。
「てめぇら、引き上げるぞ。気が削げた」
花南には見向きもせず、領は仲間を連れて行った。
あとに残ったのは、二年生まで領の学年を取り仕切っていた海野だった。
「ごめんなさい。まえはあんなんじゃ――」
パシッ。
海野は無言で花南が差し出した手を振り払い、校舎内に消えていった。
校舎の隙間を一際強い風が抜けてきて桜の花びらを運んでくる。
「桜は嫌いだ」
花南が高校二年、そして領が高校三年の春を迎えたとたん、領は魅入られたように学校に植えられた桜の木の近くに佇み、 突然そう呟いた。
「おまえ、じゃない」
花南を見下ろしてそう云った領の瞳は、それまで見守るように温かかったのに、とても冷たく様変わりしていた。
同時に、花南の中にも目醒めた別の花南。
あたし、じゃない……。
貴方はまた…………。
領は手がつけられないくらい言動が荒くなった。
「ねぇ、花南。三年に転校生だって。今時めずらしいね」
数日後、友達の絵里がビッグニュースと称して知らせに来た。
桜の花に貴方を希ふ
また惑いの手が……。
満月が近づく――。
「桜花希さんです。ご両親の都合で…………」
その名を聞くなり顔を上げた領の目に入ったその顔は、紛れもなく彼女だった。
驚愕した領の視線と、それに気づいた彼女の視線が絡み合う。
はな――。
領がそう象った口もとを確認したかのように、花希が頷いて応えた気がした。
花南は絵里と一緒に通りかかった中庭に、偶然二人が共にいる姿を見つけた。
間違えようのない桜花希と領の二人。
最近はいつも冷たくしか感じられなかった領の眼差しが緩んでいる。
「花南、九党先輩と一緒にいるのはもしかして……いいの?」
「よくないけど…………いいの。ちょっと待ってて」
花南は二人に近づいた。
領が気づき、花南が目に入ると、邪魔だといわんばかりに目を細めた。
「領、紹介してくれる?」
その言葉に反応して振り返った彼女を見ると、花南はこれまでになく驚いた。
まさしく、“はな”そのものだった。
これが花南の希いに対する代償なのだ。
「桜花希です。転校してきたばかりで……?」
花希はそう云って、問うように領を見た。
「おれんちの隣に住んでる高里花南」
花南に戻した花希の視線が、領には見えない位置で妖艶に見返した。
約束。
反故にすればもう廻り合うことはない。
その目がそう念を押す。
「ねぇ、花南、いいの?!」
絵里が毎日のようにしつこく責め立てる。
花南は恍ける気力がないくらいに絶望を覚えていた。
あれから領と花希は噂になるほど寄り添っている。
「よくないけど、仕方のないことだから」
あたしがいなければ、あの惨事が起きることはなかった。
自分の命を何度差し出しても足りないほどの命が消えた。
『おまえ、じゃない』
領がそう云った日から、花南は邪険にされるばかりで触れることすら適わない。
ねぇ、あたし、じゃないなら花希なの?
「ね、領。今日、勉強を見てもらっていい?」
領は三年の下駄箱のところで待っていた花南を見下ろした。
目醒めて以来、いつも明るかった口もとがさびしそうに少し震えている。
おまえは、はなじゃない。
魔となった領の胸が痛む。
なぜだ?
おれは“はな”の希いを叶えたいんだ。
そのはなは、いま、おれの隣にいる。
十八才を迎える春。
おれは突然、思い出した。
すべて、を。
それまで、花南が傍にいることを当然のように思い、それはずっと変わらないのだと思っていた。
「悪いな。今日は彼女と約束がある」
領は花希にちらりと目をやって、少し優しくなった声で花南に告げた。
優しい声は“はな”に出会えたせい?
「そう。わかった」
花南は領たちのために道を空けた。
花南が微笑む姿は領の記憶の中と重なった。
なにかが違う。
隣を歩く花希を見やり、そして後ろを振り返った。
花南がぼんやりとその場に佇んでいる。
俯いた花南が手を上げて口もとを押さえた。
あたしたちはこんなに近くにいるのに。
今度こそ――。
そう願って何度も命を手に入れたのに気づいてくれない。
ねぇ、器が大事なの?
あたしからはなにも告げられない。
それが約束。
ねぇ、気づいて。
はな、はな…………。
その姿を見て、領の心が無意識のうちに何度も呼びかけた。
花南が振り向く。
そうだ。
魔になったおれは“はな”を求めるあまり、その心を見失っていた。
「ねぇ、帰りましょう。今日は約束の満月。告げる日よ」
花希が“はな”の顔をして領を誘う。
違う。
「おまえは、はなじゃない」
領は校舎に引き返した。
花南は不安と恐れが綯い交ぜになった表情で外に出てくる。
やっと探し当てた。
「九党! てめぇはぶっ殺してやる!!」
領と花南は同時に声がしたほうを向いた。
サバイバルナイフを手に、思いつめたように海野が駆け寄ってくる。
また、あたしたちは……。
でも、何度でもあたしは……。
考えるまでもなく、花南は領の前に飛び出した。
「はな! だめだ――――――っ!!」
それを観ていた花希の口もとが笑みに歪んだ。
あれからもう幾年の月日が経ったのだろう。
止むこともなく、幾度の転生を繰り返したのか。
二百という年を憶えてから、もう数えることはやめた。
いつまで経っても廻り合うことはない。
似た姿を見つけ出しても、それは“はな”ではなかった。
約束の日に呪縛を解けず、無意味な余生を送り、死を迎えると同時にまた生まれ堕ちることを繰り返してきた。
何度も、何度も――――。
けれど、今度こそは“はな”なのだ。
やっと廻り合ったのに――――。