幻想組曲-恋-

イブリース〜所為〜 −後 編−


振り返ると、陽芽(ひめ)が不器用に柵を越えている。
カオルの目がきらりと光り、口の端がつり上がる。
地上は誘うように(きら)びやかな光を放っているが、カオルにとってはなんの恐怖もない。昔からそうだ。
目の(くら)むような断崖絶壁の先端に立っても平然としているカオルは、周囲をいつもハラハラさせるが本人はなんともない。

陽芽がこちら側へ来ると、カオルはフフッと笑いはじめた。
「カオル?」
「陽芽、私が飛び降りると思った? まさか、よ」
カオルは陽芽に詰め寄る。
陽芽は察したようで、後退(あとずさ)りした。
「飛び降りるのはあなたよ、陽芽」
「カオル、やめてよ。圭祐にふられたって、そんなに綺麗なんだからまたすぐにステキな人に出会えるよ」
「そうして、またあなたに取られるの?」
「そんなこと、考えてない。あたしはいままでだって取ったつもりないし、なにもやってないわ」
「なにもやってない? あなたがいることで充分、邪魔してることになってるのよ。圭祐は陽芽がいるから私のことは考えられないって。じゃあ、陽芽がいなくなったら――?」
カオルが冷たく笑った。

陽芽のかかとがコンと障害物に当たる。コンクリートの出っ張りだった。もうあとがない。
「ふざけてて落ちちゃったって云えばすむことだし。私は親友の事故を(なげ)くわ」
カオルが、そうよね? と同意を求めるように首を(かし)げて笑った。
陽芽に向かってカオルの手が伸びる。

「やめたほうがいいよ」

危機が迫ったとたん、陽芽の中にあった人格の記憶が一気に(よみがえ)った。

「やめない」
「ねぇ、あなたは気づくべきよ。望みどおり、綺麗に生まれてきたじゃない? いいことはたくさんあったでしょう?」
カオルは陽芽の変化に気づいた。
「なに云ってるの?」
「あなたはまた同じことをしてるのよ。あたしを殺すまえに自分の(あやま)ちに気づかなくちゃ。あたしが真実を告げるまえに」

「なにわけのわかんないことを云ってんの? 圭祐みたいな(ひと)はめったにいないの。あんたみたいな平々凡々な女より、私のほうが絶対に似合ってる」
「それでも圭祐はあたしを選んだんでしょう? カオル、あなたに足りないものはなに?」
(うるさ)いわね。私に足りないものなんてあるわけないじゃない。陽芽が私にくっついて回るからよ。いっつも笑ってごまかして、その裏で計算をやってるの」
「そうじゃない」
「いいえ、そうよ! あんたがいるせいで私はだれからも評価されない!」

言葉の勢いのままに、カオルは陽芽の胸を突いた。
「陽芽!」
同時に男の声がした。
振り向いたさきに圭祐(けいすけ)が見えた。
陽芽の躰が()()り、宙に浮く。
「圭祐? どうしてここに?」
カオルが愕然(がくぜん)(つぶや)く。

「バカな子」
呟いたのは陽芽。
そして、落ちていく陽芽の引力に引きずられるようにカオルの躰もまた宙に浮く。
「なに?! どうしてっ?!」

そうカオルが口にしたとたん、風景が様変わりした。
夜の風景から日差しの降り注ぐ日中に変わり、殺風景なビルの空間に真っ逆さまに身を投じていた。
そこで時間が止まっている。
眼下の車と人が米粒のように見えた。

「せっかく望みを叶えてあげたのに」
陽芽が小バカにした笑みを向けた。
「覚えてない、あたしの顔?」
陽芽がそう云ったとたんに、カオルの顔が驚愕(きょうがく)に満ちた。
「私だわ……」
カオルの記憶も呼び覚まされ、あの時空に戻ったのだと気づいた。

「そう、あなた。あなたは自分自身を突き落としたのよ。あなたが云う(みにく)い顔でも、いまの綺麗な顔をしたあなたと充分に張り合えたわ。なにが違うのか。ここに至ってもわからなかったようね。せっかくの試しの場は思ったとおり、なにもならなかった。人の所為(せい)じゃないのよ。全部、あなたの人生の結果はあなたの所為」

そして、陽芽の姿が変化した。髪が銀色に変わり、背中から同じ銀色の小さな翼が見える。
「あなたは……約束の天使――」
「あたしはあなたにとって天使になれたかしら?」
止まった空間を自由に操れるのか、【天使】は逆さまだった躰を起こした。
とたんに空間が動き出し、【天使】とカオルの躰はまた落下をはじめる。

「陽芽!」
その声に、見上げた【天使】の瞳と、柵を乗り越えて身を乗り出した圭祐の瞳が合った。

【圭祐】――が……貴方(あなた)なの?

「ねぇ、助けて」
カオルが泣きそうに(すが)る。
【天使】はカオルに視線を戻した。
「ごめんなさいね。あたしの翼は役に立たないの。大事な人を本当に助けたいと思ったときにしか」
それはつまり、カオルは【天使】に見捨てられたということだ。
「天使なのにっ!」
「あなたが勝手に思ってるだけでしょう? それに、あたしにとっても命懸けのことなの。運が悪ければ、あたしはあなたの道連れにされるんだから」
命懸けと云ったわりに、恐怖は微塵(みじん)も見せずに小気味よい笑みが【天使】の顔に広がった。

その表情は天使なんかじゃない。まさに――。

落下速度が加速していく。

リィブ――!

真の名を呼ぶ声がした。
天を振り仰ぐ。
覚醒(かくせい)した【圭祐】が自ら躰を投げ出す。

ラーファ――。

落下するよりも遙かに速いスピードで黒い翼が降りてきた。
地上二階の高さでラーファの腕がリィブを(とら)え、同時にまたもや時間が止まった。

「無茶をする」
「ラーファを信じてるから」
険しい顔を見上げてリィブはクスクスと笑った。

「圭祐?」
逆さになったまま止まっているカオルが呟いた。

【圭祐】はカオルを冷たく見据(みす)え、その顔を変化させた。
カオルの目が大きく開く。

「あなたはあの時の悪魔?」
クスクス。
「ラーファ、この子、貴方を悪魔だって思ってるわ。バカね。あたしたちをよく見て。気づかないの?」
リィブと呼ばれた天使が(あざけ)るようにカオルを見つめる。

…………――――?!

「そう、気づいた?」

地に足を向けた彼らと、天に足を向けたカオル。

地獄へと真っ逆さまに落ちていくいま、ラーファの額にある十字は神のしるしに、そして、リィブの額にある月長石(ムーンストーン)の十字は、逆十字となってカオルに見せつける。

ラーファは救いの神、そしてリィブは誘いの――まさに、悪魔。

私は神の救いの言葉を蹴ったんだわ。

「あなたの魂はすべてをだれかの、もしくはなにかの所為にして、生死を繰り返し、いずれはこの地球(ほし)を壊すの。そんなことはさせない。ラーファの(さと)しも邪魔だとして聞き入れなかった。その時点であなたは神の子であることを放棄したの」

幼さの残る顔に(あで)やかな笑みを浮かべた【天使】を見たのが最後だった。

「ラーファ」
誘うリィブにラーファが気を取られたとたん、時間が動き出す。

グシャ――――リッ。

直後、聞くに()えない音とともに、カオルの躰は頭から熱く(たぎ)ったアスファルトに激突した。

「醜い姿」
地上に降り立ったリィブが(さげす)む。

頭から胴体は完全に(つぶ)れ、無残な肉の塊になっている。かろうじて形を残した足が人間の塊であることを証明していた。鉄が焼けたような臭いが漂う。

「愚かな……」
ラーファが呟いた。
「そうでしょう? 人間はいつのまにか貴方の存在を忘れて、自分の力で立ってると思ってる」

カオルの残骸(ざんがい)から、結晶が崩れたダイアモンドの黒い原石が浮いてくる。

「汚い魂。あたしが地獄の底まで付き合ってあげる」
「リィブ、我が望みは――」
「あたしは綺麗な地球(ほし)を一瞬でいいから、また見たいと思っただけ。その願いを叶えるためなら何度でも汚い魂を喰ってやるわ。辛くなんかない。邪魔してくれてありがとう。それだけで貴方の中にあたしが()ることがわかるから」
「リィブ――」
「ラーファ、戻ってくる力を……」

ラーファのくちびるがリィブのくちびるに降りた。
「またね、ラーファ」
ラーファは応えず、ただその瞳を(かげ)らせた。

リィブは浮いた黒い原石をつかんで陽に(かざ)し、そして呑み込んだ。浄化を辿(たど)るために、深く暗い地獄の底にリィブの意識が吸い込まれる。

意識が()ちたリィブの躰をラーファがすくい上げ、ふたりの姿は地上から消え失せた。

− The Conclusion. − Many thanks for reading.

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イブリース …… イスラム教でいう悪魔の王
          アラーが創ったアダムにひれ伏さなかったため、アラーを怒らせた天使
 (擁護論:唯一神アッラーフを崇拝するあまり、アッラーフ以外への崇拝をしたくなかったという説)

黒耀石 …… アッラーフの神体
リィブ&ラーファ …… それぞれ、イブリースとアッラーフを(もじ)った名前


*ブログお仲間さんからのお題【夏は涼しく】からできた作品です。



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