幻想組曲-恋-

イブリース〜所為〜 −前 編−

この物語はホラー要素が含まれます。苦手な方はご注意ください。

   ねぇ、見つけたわ!

   どうするつもりだ、リィブ?

   手に入れるわ。ラーファはどうする?

   邪魔するぞ。

   クスクス……無駄な足掻(あが)きよ。
   人間は虫けらより劣る愚物(ぐぶつ)にすぎないもの。


目の前に突如(とつじょ)として現れた青年は非の打ち所がない妖美(ようび)な姿をしていた。じっと彼女を見下ろしているその深い暗闇のような瞳は(さげす)むように冷たい。黒いざんばら髪の間から見える額には、逆さの十字を(かたど)った黒耀石(こくようせき)が埋め込まれている。
宙に浮き、背中から出ている漆黒の大きな翼が、当然のことながら人間ではないことを教える。

「飛び降りるのか?」
青年はゾクッとするような魅惑的な低い声で、(ささや)くように(つぶや)いた。

彼女は自分の立った場所を見下ろした。
遙か下に、車や人が(あり)のように(うごめ)いている。

「望んで生まれたんじゃないわ。こんな(みにく)い姿なのは私のせいじゃない」
「そう醜いとも思えぬが?」
「悪魔にしては優しい言葉を掛けるのね」
「悪魔?」
青年は眉宇(びう)をひそめ、気に入らないとばかりに(にら)み返した。

「違うの?」
「ならば問うが、悪魔とはどういうものだ? 神とは?」

「そんなことは今更どうでもいい。あなたにはわからないだろうけど、この姿のせいでどれだけ損をしてると思ってるの? (いじ)められたり、男を取られたり、就職するにしたって綺麗な子のほうが有利だった。いいことなんてなかったわ」
「飛び降りれば、もっと醜い姿がおまえを待ってるぞ」
「死んだあとの姿なんてどうでもいい」
「どうやって死を迎えるかが人間としての最大の評価基準になるんだが?」
「だれが評価するの?」
「だれだと思う?」
「神様なんていないわよ。悪魔みたいな人間はごろごろしてるけど。あ……でも天使になら会ったわ」
「天使?」
「そう。約束してくれたの。私は生まれ変われる」
彼女は陶酔(とうすい)した眼差(まなざ)しを天に向ける。

止める間もなく、彼女は一歩を踏み出し、落下していった。
地上に達する寸前に空間が(ゆが)み、落下する彼女を呑み込んだ。


   リィブ――?

   試しの場を。

   この人間か?

   貴方(あなた)とこの地球(ほし)に忠誠を誓ったの。
   また助けてくれるでしょ、ラーファ?



「あちゃ」
渡されたボールペンを取り損なってデスクの上に落とした。()ねるボールペンを床には落とすまいと慌てて押さえつける。
「クッ、陽芽(ひめ)ってオッチョコチョイなんだ」
同僚の圭祐(けいすけ)は、うっかりすると見惚(みと)れてしまいそうな涼しげな目を細めて、隣のデスクの陽芽に笑みを向けた。
「うーん、意外とね」
「意外、なのか?」
「落ち着いて見えるってよく云われるけど?」
陽芽が首を(かし)げるとゆる巻きの肩まで届く髪がふわりと揺れ、童顔ゆえか幼く見えた。
「確かに、仕事は正確で速いってことは認めてやるよ」
「あら、ありがと」
謙遜(けんそん)するのもいやらしい感じがして、陽芽は日頃からお世辞は素直に受けることにしている。

「陽芽はお得な性格してるよね。一見すると頼りなくて(かば)いたくなる。昔からそう」
陽芽の前には圭祐と同じく同僚のカオルがきびきびとデスクワークをしている。
カオルは顧客の電話を切るなり、こちらの会話まで聞き取っていたのか、割り込んでそう云った。
「ありがと」
同じ言葉を返すと、カオルは(あき)れたように肩を(すく)めた。

そして、カオルは圭祐を見やる。
「圭祐、合コンの件はどうなった?」
「おう、(そろ)ったぜ。ただし、おまえのお眼鏡に(かな)う奴がいるかって保障はなし」
「ずいぶんと失礼な云い方ね」
カオルはクイと形の良い(あご)を上げる。
()めてるんだぜ? カオルみたいに綺麗な奴はそういないからな。そんじょそこらの男じゃ、勿体無(もったいな)い」
「あら、ありがと」
カオルは陽芽の口調を真似(まね)て返した。
陽芽は苦笑いを浮かべる。

陽芽とカオルは中学からの腐れ縁で、同じ会社に入り、同期の圭祐とは研修期間中に仲良くなっていまに至る。三人は同じ部署に配属され、必然的にともに行動することが多かった。

その週末の夜、カオルと陽芽は揃って合コン会場の居酒屋の店内に入った。
「お二人さん、こっち!」
早速に圭祐からお呼びが掛かり、予約席に向かった。
今回、男性陣は圭祐の大学の同期生、一方で女性陣はカオルたちの大学の同期生になる。
すでに八人は揃っており、二人は最後の到着となった。
「お、すごい美人じゃん、圭祐。なんで隠してたんだよ」

カオルは計算通りの反応に、心の中で優越感に浸る。
もったいぶって最後に登場すること。引き立て役を傍に置くこと。
自分を中心に置くいちばんの手っ取り早い方法だ。

「別に隠してなんかいないさ」
「まあ、隠してたとしてもおまえに敵う奴はいないしなぁ」

そう同性から賞賛されてもおかしくないほど、圭祐は内面も外面にも(すき)がない。
さきに着いていたカオルの友人たちは必然的に圭祐の正面寄りの席に固まっている。

手に入れたい。

カオルと陽芽は空いた席に座った。
自己紹介をすませ、ビールで乾杯をすると男性たちが主導権を握って会話が弾んだ。
常と変わらず、男性はカオルを中心に、女性は圭祐を中心にターゲットを絞っていくなか、陽芽はカオルの横でいつもそうするように傍観していた。

口を開くことがめずらしいくらい、陽芽はこういう場に関しては晩熟(おくて)だった。
もともと口下手な陽芽はそれをごまかすために、男性のまえでも女性のまえでも笑っていることが多い。
気の効いた会話をなんなくこなすカオルとは正反対だ。
それなのに肝心(かんじん)なところで陽芽が勝利を収める。

「ちょっとお手洗い」
陽芽がカオルにこっそりと囁いた。
陽芽が席を立つと同時にカオルは圭祐に視線を向けた。
思ったとおり、圭祐の瞳が陽芽を追う。

なぜ? どうして私じゃなくて彼女なの?

陽芽は席に戻る途中、化粧室通りの一面の窓から見える夜景を(なが)めた。
十階から見下ろす都内は人工の光が絶えることがない。これを美景というには抵抗がある。こんな冷たい光がなくても、もっと地球は美しいはずなのに、人間はそれを壊すことばかりしている。

「陽芽、酔った?」
振り向くと圭祐がすぐ傍まで来ていた。
「酔うまえに気持ち悪い」
「全然お酒に強くならないんだな」
「体質の問題――」
「陽芽、大丈夫?」
陽芽が云いかけたところでカオルがやってきた。
付き合いが長いゆえに、そこに無言の脅迫を悟った。
陽芽はため息をついて首を少し傾げると、
「平気よ。もう戻ろうと思ってた。さきに行ってるね」
とその場を去った。
圭祐がまた陽芽の後ろ姿を追う。

「圭祐、陽芽のことが気になる?」
圭祐は率直に訊いたカオルに視線を戻した。
余裕の表情を浮かべて圭祐は微笑(わら)った。
「そうかもしれない」
「どうして陽芽なの? 私ではだめ?」
圭祐が驚いた様子でカオルを見返す。
「驚くことはないと思うけど。慣れてるでしょう? 告白されるのは」
「いや……正直、カオルに告白されるとは思ってなかった」
「だめ?」
「悪い」
「私のどこが陽芽に劣るの?」
「こういう場合、劣るとか、そういうことじゃないだろ?」
「だって納得がいかないのよ。圭祐の隣には私のほうが似合ってる。合コンだって圭祐に振り向いてほしいからやってるのよ。陽芽に注目する人なんていないじゃない?」
「悪い」
圭祐は顔をしかめて同じ言葉を繰り返す。
「どうして?」
「いまは……陽芽がいるからカオルのことは考えられない」

じゃあ、陽芽がいなくなれば――?

「わかったわ」
「おれじゃなくても、おまえにはいい奴が現れるよ。それでなくても()り取り見取りだろ?」

陽芽がいなくなれば私はあなたを選べるの――?

席に戻ると陽芽が問うように見た。

この子さえいなければ。
私に劣るところはないわ。

「陽芽、ちょっと話したいんだけど?」
「いま?」
「そう、いま」
「わかった」
陽芽はなんの疑いもなく同意した。

「ごめんなさい。陽芽がちょっと具合が悪いらしくてちょっと外に出てくるわね」
「カオル、おれが連れて――」
「いいわよ。私もちょっと酔い覚まし」
圭祐をさえぎると、二人は居酒屋を出た。

「屋上でいい?」
「いいよ」

エレベーターで屋上の二十階まで上がると、扉が開いた向こうには人間が云うところの絶景が広がっている。
風は強いものの、地上を離れるほど風の温度は下がり、夏の季節には心地よく感じた。
このビルの落下防止用の柵は、なぜか一面だけ他の所と比べて内側に設置されている。
この柵を乗り越えて夜景を眺めると結ばれる、というジンクスが恋人たちの間では噂になっている。
一種の肝試しみたいなものだ。
柵の向こうに余裕があるとはいえ、二十階の高さではそうそうのんびりもやっていられない気がする。恐怖体験をともに乗り越えることで、運命共同体のような(きずな)が生まれるのかもしれなかった。

カオルは柵に近寄り、鉄棒をするように飛び上がると、スカートにも(かかわ)らず乗り越えた。
「カオル、なにやってるの? 危ないよ!」
「圭祐にふられちゃった」
カオルがうつむいて告げた。
「カオル?」
「いつもそう。中学の時はわからなかったけど、高校の時からずっとそう。私が手に入れたかった(ひと)はみんな、私にくっついてる陽芽を選ぶ」
「なんの話? あたしはそんなこと知らないよ」
「平凡な顔をして、おとなしくて、苛められても、陽芽はいつも笑ってそれをカバーしてきた。外見と違って、陽芽はけっこう(したた)かなのよね」
カオルは笑ってそう云うと、ミュールを脱ぎ捨てて先端に立った。
「カオル、やめてよ!! 待って、そっちに行くから!」

後 編DOOR