愛魂〜月の寵辱〜

第8章 抱擁−月のロザリオ−
#8

 毬亜を助手席に乗せ、座席を少し倒すと、一月は運転席にまわって車に乗りこんだ。エンジンをかける。助手席に向かって躰をひねると新たな痛みが及ぶ。歯を喰い縛り、毬亜の頬に手を添えた。
「毬亜、どこが痛む?」
 一月が訊ねると、毬亜はゆっくりとまぶたを上げた。その眼差しからは、いつもの縋るように見上げてくる力が欠けている。
「……わから、ない。脚の感覚……へん、なの」
「わかった、大丈夫だ」
 毬亜の頬を撫で、一月は正面に向き直ってハンドルをつかんだ。
「吉、村さん……もう……離れたくない」
 一月は強く目をつむり、ハンドルを握りしめる。
「……ああ」
 何を選ぶ?
 そう自分に問いながら一月は車を出した。運転する間、ともすれば意識がかすみそうな感覚に陥る。たどり着くまで毬亜は持たないかもしれない。皮肉にも、そんな恐怖が一月を支えていた。
「吉村……さ……寄りかかって、いい?」
 赤信号で止まると、毬亜が喘ぐようにつぶやいた。
「ああ」
 自分ではそれだけのこともできないのだろう、右手で頭を引き寄せ、左腕に寄りかからせてやるとほっとしたようにと息をこぼした。毬亜は左手に両手を絡めてくる。
 光のなかを通り抜けながら、その煌びやかさになんの感動も覚えず、記憶はただ一つ、あの日を思い返して渇望する。
 あの日と同じだ。車を走らせながら、横で毬亜が眠っている。そうだ、同じだ。
 住宅街に入ると光の数も減った。そのぶん温かみが感じられるようになったのは、ひと括りにけっしてできない、そこそこの家庭という世界が点々と浮かびあがるからかもしれない。
 もしくは、毬亜を傍に置き、その世界のなかの一つになる、とそんな憧憬を抱いてきたせいか。
 まもなくたどり着いた。
 だれも知らないふたりの場所であり、“その時”の向こう側に築くふたりの時間を重ねる場所だ。
 敷地に車を乗り入れ、エンジンを切る。
 外に出ると、背中にこもる熱に感覚が麻痺しているのか、不思議にも寒さは感じなかった。
 後部座席から取ったコートを草地に広げると、助手席側に行ってドアを開けた。毬亜を抱きあげると、小さく呻きながら一月に全体重を預けてくる。
「痛むか」
「ううん」
「寒くないか」
「吉村さん……あったかい」
 くちびるに微笑を浮かべ、毬亜はゆっくりと目を開いた。
 毬亜が傷を追っていなければ、この腕で潰してしまうほど抱きしめていたかもしれない。
「月、きれい。ちゃんと……吉村さ……一月の顔が見える」
「ああ」
「ここは……まえに来た、ところ? 川の音がする」
 川が見えるとしても遠く、水流の音など聞こえるはずはない。ただ、一月と同じで、毬亜は記憶と重ねて幻想をつくりだしているのかもしれない。
「そうだな」
「見せて」
 望みに応え、一月は毬亜の頭を腕で起こして躰の向きを変えた。
「ここ、好き。吉……一月を、すごく近く、感じるとこ……」
「なら、おれたちの家はここでいいな」
「……ほんと?」
 首をのけ反らせて毬亜が一月を見上げる。力が戻ったようにくっきりと驚きが見えた。
「ああ、本当だ」
「うれしぃ……ここが、いいよ」
 しっかりと抱きしめたつもりがかなわず、一月の力もまた衰弱しつつあった。
 コートの上に毬亜を抱いて横たわると――
「思いだす、ね」
 と、ほんの傍で微笑が浮かぶ。
 そのとき、携帯電話の着信音が鳴りだして、一月はスーツのポケットを探った。
『若頭、どこですか!』
 耳に当てたとたん、うるさいほど謙也の声が響く。毬亜にも届いたのだろう、力なくも笑い声が漏れた。
「大丈夫だ。謙也、おまえなら大丈夫だ」
『大丈夫って……』
 謙也は声をなくしたように途切れさせた。
 毬亜が一月を見上げて囁く。わかった、と応えて一月は電話に向かった。
「謙也、毬亜からだ。ありがとう、大好きだってさ。おれからも、だ。嵐司にも同じことを伝えておいてくれ」
 ふるえた笑い声が耳に届く。
『おれ、ノーマルですよ。けど、若頭、会って聞かせてくださいよ』
「ああ。あとでな。しばらくふたりにさせてくれ」
 遠ざけた携帯電話の受話口から、若頭、と叫ぶ声を聞きながら電話を切った。
「毬亜、結婚しよう」
 くすくすとした笑い声が一月の口もとをくすぐる。
「婚姻届……書いた、よ。順番、違って、る」
「見てない。一緒に出しに行くぞ」
「うん」
「一月……好き、大好き、愛して、る」
「ああ」
「一月……眠たい、ね。毎日……こうやって、一月の翼に……くるまれて……眠るの、夢だった」
 毬亜の声はだんだんと緩慢になっていた。眠るという言葉を裏づけるように目は閉じられた。一月の腕に力がこもる。背中が疼くのは大鷹の慟哭か。
「毬亜、もしもだれかに会うことがあるのなら、そのだれかをこの腕で守る。この翼はそのために刻んだ。おれは、おまえと出会うことを予感していたかもしれない。おまえと会うたびに翼が疼いた。だが……」
「一月は、守って、くれたよ」
 途切れさせた言葉の続きを察して、毬亜がつぶやく。
「だから、ここまで、生きてこれた」
「ああ」
「いま、すごく、幸せ」
「これから、だ。ずっと一緒にいてやる」
「うん……わかってる」
「一年後は三人か」
「……いいの?」
「おまえが産むんならおれたちの子供だ」
「うん……うれしい。ここ、に……家を建てて……お庭で、こんなふうに、月を見上げられたら、いい、よね」
「寒くないように抱いててやる」
「……うん」
「毬亜」
「…………うん」
 くちびるに感じる呼吸はだんだんと淡くなっていく。
「毬亜、おまえが可愛い」
 かすかに宿った笑みが通じていることを示す。
 一月はくちびるを合わせた。
 ふたりの間でこもる呼吸は熱を失っていく。
 腕に抱く毬亜の躰は体温を失っていく。
 そして、その温度の差はだんだんと感じられなくなっていく。
 体温が融け合うように魂と魂が融合していくような気がした。
 毬亜、愛、して、る。
 うん。
 最後の呼吸は心底に残った空耳に看取られる。
 閉じこめられていた一月の翼が弾けるように開いた。



 雪が散りばめられ、そこは聖地のように陽の光を浴びて煌めく。
 注意して見なければ気づかないほどの小さな十字架の碑(えりいし)が、やはり“ふたりにしてくれ”と、侵入者を拒んでいるように感じた。
 足跡を残してしまうのを申し訳なくさせる。
 けれど。
 ありがとう、大好き。
 その言葉が、自分たちだけはここに踏みこんでも歓迎してくれるだろう、とわずかに傷みを和らげる。
「マリちゃん、大好きな吉村さんと一緒で幸せかな」
 持ってきた大きな花束をばらばらにして、ふたりが抱き合って眠る地に飾り立てたあと沙羅はつぶやいた。
「じゃなきゃ、たまんねぇよ」
「ああ。いま頃は祝杯あげてたはずなのにな」
 謙也に同意した嵐司はかがんだままうなだれて、っくしょう、と呻く。
 ほぼ当てもなく探しまわり、そうしたすえ、ふたりがここにいると見当をつけたのは嵐司だった。発見したのは夜明け近く、ふたりは絡まり合って魂を手放していた。
「吉村さん、なんで総長を殺さなかったのかな」
 吉村が云い渡したとおり、京蔵は如仁会と首竜の双方から物騒な立場に置かれ、おとなしく警察に捕まったものの、黙秘を通している。丹破一家は艶子に次ぎ首竜を殺害した幹部たちの相次ぐ逮捕、そして首竜の報復対策として解散を余儀なくされた。
 謙也もまた警察に呼ばれたが、藤間総裁の計らいで潔白となり、すぐ自由になった。
「逝くんならふたりで逝きたかったんだろ。一月さんはもうだれにも邪魔されたくなかったんだ」
 右腕に顔をうずめ、嵐司はこもった声で沙羅に答えた。
「若頭、これでいいんですよね」
 謙也は吉村に問いかける。
「いいんだ。ふたりはどこかで生きてる。だれも引き裂けない場所で。おれが生きているかぎり、ここは守る」
「ああ」
 沙羅が、墓碑に見立てたブロンズのモニュメントを十字架に立てかけた。毬亜のタトゥと同じデザインだ。
「マリちゃん、今日、吉村毬亜になったんだよ。よかったね」
 やるせなさにしばらく立ちあがれなかった。沙羅が鼻をすすり、それが合図になって、ふるえる吐息を漏らしながら謙也と嵐司はようやく立ちあがる。

 マリ――
「若頭」
「一月さん」
 結婚、おめでとうございます。

 そうして見上げた空に鳶が舞う。


 毬亜、おまえが可愛い。
 ――おまえのすべてが、愛おしい。

− The Conclusion. − Many thanks for reading.

BACKDOOR

あとがき
2014.12.29.【愛魂〜月の寵辱〜】完結
この物語は、主体サイトで鍵付き更新しているtrue版より前半部分を抜きだして、まったく違った話、アナザー版として改稿更新しました。
有名アーティストの「激愛」をモチーフに、ヤクザ恋愛ものを書いてみたいと思ってきて、やっとここで書き切りました。

けっして思い通りにいくことのないアンダーグラウンドで、深遠に甘さを感じられるような物語に仕上げたく、このようなラストになりましたが、広い意味で楽しんでいただけたのなら嬉しいです。
奏井れゆな 深謝