愛魂〜月の寵辱〜

第8章 抱擁−月のロザリオ−
#7

 毬亜が夜の街に出たのはクラブで働いていたとき以来だった。
 京蔵の車に同乗して、後部座席の後ろの窓から外を見れば、十二月のクリスマスをまえにしてどこもかしこも光だらけだ。通りを行き交う人々を見れば、毬亜はわくわくするよりも自分がいかに世間から遠ざかっているか、怖くなった。次々に目に迫ってくる進行方向とは逆に景色が後退してていくから、よけいにそう感じるのだろう。
 いまのマンションを引き払うと云うが、監禁されることには変わりない。京蔵の家よりもマンションのほうが遠くまで見渡せて、まだ世間と近い気がする。
 そう考えて、いや、と毬亜はすぐさま打ち消す。そんな心配はする必要のないことだ。今日で終わることだから。
「まもなく到着します」
 背後から――助手席から声がかかった。
 京蔵は応えず、脚の上に跨がった毬亜の秘部で手遊びをし続けた。
 出かける準備をするとき、下着は身に着けるなと云われて、もしかしたら昨夜せっかく守れた吉村の記憶を奪われるかもしれないと怯えた。けれど犯すことはなく、京蔵はただ弄っている。
 それは京蔵の緊張を表しているような気がした。
「儂の手に愛液がこぼれてるぞ。逝きたいか」
 その言葉は耳のすぐ傍でささやかれた。京蔵の肩に顎を預けたままうなずく。
 京蔵はわざと蜜の音を立て、それは、おまえは儂に感じているんだぞ、と云わんばかりだ。
 やはり吉村に対する気持ちを疑っているのだろう。疑惑をわずかでも払拭できれば、と願いながら、もう少し、と毬亜は自分に云い聞かせ、車のなかという非常識な場所でも逆らわなかった。
 快楽にゆだね、逝きかけると京蔵に抱きついた手に力がこもってしまう。すると、京蔵は触れる場所を変えて果てることを阻止する。
「続きはあとだ」
「はい」
 続きは、吉村に見立てた京蔵ではなく、本物の吉村と。そんなことを祈りながら、身をふるわせ喘いだ。
 車は道路ばかりが目立つ人通りの少ない場所へと来て、まもなくどこかの敷地に入って止まった。
 京蔵の上からおりている間にフロント側のドアが開いて、冷たい風が入ってくる。ドアが閉まり、捲れあがったワンピースを整えていると、いくつもの声が聞こえた。
 京蔵は車に乗ったまま、周囲の状況を確かめるようにゆっくりと辺りを見まわしている。
「パパ?」
「おまえは儂の傍にいろ。何も心配することはない」
 つまり心配するような何かがあるのだ。
「はい」
 しばらく息を殺すような気配が続き、それから車の時計を見て時間を確認した京蔵は、黒塗りの窓を拳で軽く叩く。後部座席のドアが外から開けられた。
 京蔵に続き、レッキスのファージャケットを持って車から出ると、京蔵は自分がコートを着るよりも早くそれを取りあげて毬亜に着せた。
 外の風は夜ともあってやはり頬に当たる空気は冷たい。一方で、躰にぴったり添うワンピースの丈は太腿の半分までと短いが、ニットとレザーの切り替えでわりと暖かく、脚もまたレザーのニーハイブーツがフィットしていて空気の冷たさを遮断している。寒さにかまえていた躰から力が抜けた。
 そうして京蔵がコートを羽織っている間も、京蔵への挨拶があとを絶たない。
 暗がりのもと黒っぽいスーツばかりで、よけいに見分けがつかない。そのなかで、もう一人、挨拶言葉をかけられる人物がいた。挨拶に応じながら近づいてくる声は丹破一家のナンバー2という、紛れもなく吉村のものだった。
 ブーツはヒールの高さが十センチくらいあるが、それでも毬亜は京蔵の陰に隠れてしまう。
 わざとそうしているのではないかと勘繰っていると、それを裏づけるように――
「総長、ご苦労さんです。こちらはすべてそろいました」
 と、吉村が一礼して云い終わった直後に京蔵は躰をずらした。
 毬亜がいるとは思ってもいなかっただろう、目と目が合うと吉村は睨めつけるような眼差しになった。その実、吉村は精いっぱいで驚きを隠したのかもしれなかった。
「久しぶりだな、マリ。元気か」
 吉村が声をかける。不自然に見せないためだろうが、毬亜はすぐ応えられるほど大人になりきれていない。声に出すのが怖くてうなずいた。
「見ないうちにいい女になっただろう」
 京蔵が口を挟む。吉村はゆっくりと顔を京蔵へと戻した。
「はい。お祝いは云っても?」
「まだ確定ではないがな。かまわん」
 なんの話かと思っていると、吉村が毬亜にまた目を向けた。
「身重(みおも)だと聞いた。不安だろうが、命が生まれるというのは祝い事だ。躰はちゃんと大事にしていろ」
 吉村は知っていた。毬亜は驚きに目を見開き、そして、泣きだしそうなくらい安堵させられた。
「はい」
 吉村は毬亜をじっと見据え、力づけるようにうなずいてみせた。そのしぐさが、吉村の言葉の裏に毬亜が聞きとった真意は解釈が間違っていないと保証した。
「では、そろそろ時間です。行きましょうか」
 吉村に釣られて京蔵を見やると、つぶさに観察するような目と合った。
「ああ。マリ、儂の意気を高めてくれるか。景気付けだ」
 京蔵は背後に来たかと思うと、後ろから腕をまわして毬亜の肩を抱いた。
「脚を開け。ブーツが濡れるぞ」
 悦に入った声が耳もとでざわめく。
「パパ!」
 小さく叫んだ抗議も虚しく、京蔵の手が腿に添い、脚が無理やり開かされる。ワンピースが脚の付け根辺りまでたくしあがった。
「さっきの続きだ。すぐ逝けるな」
 秘口に指が潜り水音が立てられると、毬亜は吉村をまえにして絶望の入り混じった羞恥心に襲われる。目を伏せて吉村の視線を避けた。
 京蔵は指を抜き、ぬるぬるした指先で陰核を弄ぶ。快感を別にしても刺激を感じる場所だ。腰がわななく。
 早く終わらせたほうがいいのに、吉村のまえで逝かされたくなどない。もしくは、吉村に攻められていると思えばいい。
 生き延びろ。その言葉だけを頼りに、毬亜は二つの選択から一つを選ぶと、伏せていた目を上げた。
 い、つ、き。
 そうくちびるで形づくってみる。
 すると、吉村はネクタイを直すふりをして胸に手を当てる。
 ふたりはちゃんと通じ合っていた。
 心底に溢れた疼痛はきっと至福のせいであり、それが快楽と結びつき、毬亜は吉村に見つめられるなか、淫蜜をこぼしながら昇りつめた。
「おまえは本当に儂を喜ばせる」
 がくがくした腰を支え、京蔵は濡れた指を毬亜の口もとに差しだした。とことん京蔵は毬亜を従えたがる。吉村にそれだけ拘りがあるということだ。京蔵の指をきれいにしながら、毬亜のなかにはまた不安がぶり返した。
「行くぞ」
 京蔵は顎をしゃくって云い、足もとのおぼつかない毬亜の手を引いた。
「マリも一緒に?」
 吉村は怪訝そうに訊ねた。
「ここに独り残しておくわけにはいかんだろう。こういうことがあるというのも教えておく」
 京蔵がもっともなことを答えると、吉村はちらりと毬亜を見やっただけで黙って引き下がった。
 十人くらい伴って進んでいくと、ここは公園らしいとわかった。外灯を頼りに歩いている途中、毬亜はブローカーたちの存在に気づいた。
 マンションで耳にしたキーワードが脳裡に浮かび、不安が増していく。
 そして、生垣の間を抜けていくと一気に視界が広がった。
 そこには、六人の先客がいた。丹破一家の男たちと同じスーツ姿だが、漂う雰囲気が明らかに違う。
 鋭い声が発せられた。イントネーションからやはり中国人だということがわかる。
「止まれ」
 吉村は彼らの言葉がわかってそう云ったのか、一語でこっち側すべての足を止めさせた。
「総長、まさか取引相手は首竜ではありませんよね」
 吉村は素知らぬふりを装って京蔵に問いかけた。
「だったらなんだ」
「如仁会は首竜を嫌っています。いくら安く手に入ると云ってももし発覚すれば――」
「制裁、あるいは破門か」
「そうです」
 京蔵は薄笑いを見せた。
「儂には及ばん」
「……どういうことです?」
「こういうことだよ」
 と、京蔵が顎をしゃくったとたん、吉村と京蔵を除き、丹破一家の男たちが一瞬のうちに銃をかまえた。
 直後、本当に凶器なのかと疑ってしまうほど軽い発砲音が暗夜に散らばった。
 目にした成り行きが少しも理解できない。
 毬亜は悲鳴もあげられず、呆然と立ち尽くし、息を詰めて惨状を見ているしかなかった。

 少し遠くを見れば、デザイン性のない箱みたいな建物の影が並び、そして停留した大型の船が見える。漁港だとは思わないが、向こう側で倒れた男たちはしばらく陸に上がった魚のように跳ねたり転げたりしていた。やがてその反応はなくなり、即ち息絶えたのだろう。
「なんてことを。如仁会だけでなく、首竜とまで揉めるつもりですか」
 空気は冷たいせいか、よけいにぴりぴりと張りつめている。それを吉村が断ちきった。
 吉村と京蔵の間に一人、吉村の向こうに二人と、すぐ傍を銃弾が横切っていったにもかかわらず、吉村は少しも動じた様子はなく、むしろ、冷静にこれからのことを考えている。
「首竜は、相手が丹破一家だとは思っていない。なあ?」
 京蔵から応えを振られたのはブローカーの男たちだった。背後に控えていた彼らは、息を呑んだ様でうなずいた。
「奴らは名無しの相手との取引に応じたということですか」
「それがブローカーの手腕だろう」
「殺したら元も子もない。首竜は取引相手を探しまわるだろうし、ブローカーは面が割れている。いちばんに狙われますよ」
 吉村がちらりとブローカーを見やると、彼らは怯えたようにたじろいだ。
「彼らは騙されたことにすればすむ。金と情報提供で助かる道はあるだろう」
「情報提供?」
「そう。首竜がいちばんに欲しがるのは、首謀者がだれかという情報だ」
 首謀者は京蔵だ。それを、自分には及ばないと云った。それなら、あれらのキーワードを浮かべれば、毬亜にでも答えは導きだせる。
 見晴らしがよすぎて首竜の男たちには逃げ場がなかった。京蔵には、はじめから取引などする気はなかったのだ。それならなんのための取引か。
 吉村を陥(おとしい)れるためだ。
 もしくは、“殺す”。
 そして、それを見せるために京蔵は毬亜を同行させた。
 ショックのあまり、息を呑む音が悲鳴のようにこぼれた。
 逃げて! 放っておけば叫びだすかもしれない。毬亜は本能的に口を両手で覆った。
 吉村が毬亜に一瞥を投げ、京蔵がじっと毬亜を見つめる。そうしたしぐさの差は、危機感を持っていることと、余裕があることの違いだろうか。
 京蔵は、きっと毬亜への疑いを確信に変えている。いや、確信していたからここに連れてきたのだろう。
「なるほど」
 吉村の据わった声が澄んだ空気中にすっきりと通る。声音には少しも不安など見えない。むしろ、揺るがない自我が前面に押しだされている。
「総長、残念だが、おれを首謀者にするには誤算がありますよ」
「誤算?」
 京蔵は険しく眉間にしわを寄せ、毬亜から反対側にいる吉村へと目を転じた。
 そして、足音が聞こえた気がして、その方向――生垣を振り向くと、謙也が現れた。何人か連れていて、謙也がそうしているということは彼らはすべて吉村の御方(みかた)なのだ。毬亜はいくらか安堵した。
 一方で、京蔵はますます険しさに凄みを増していく。
「如仁会は首竜を嫌う。ですから報告は敢えてしていませんが、以前、首竜には便宜を図ったことがあるんですよ。首竜と取引をするとしてもブローカーなど使わない。おれならじかにドンと交渉する。ドンはそれを知っている」
「恩だろうが貸しだろうが、本気で首竜と通じるなど信じているわけではあるまい? 筋を知らんから如仁会は首竜を避ける。そうだろう?」
「そのとおり、ちまちましたことなら洟(はな)にも引っかけないでしょう。ですが、あいにくと大金が絡んだ事態でしたので。おれは、貸しはつくっても借りはつくらない主義だ。無論、それで謝礼をもらったわけでもなく、ドンと交渉することなどなければ、ばかげた謀(はかりごと)をすることもない。丹破一家にもずいぶんと貢献させてもらいましたが、いわれもなく仇で返されるとは思っていませんでしたよ」
「に、丹破総長……」
 ブローカーの男はまずい状況だと悟ったらしく、おののいた様子で京蔵に声をかける。
「どうとでもなる。心配いらん。慌てるほど事を仕損じるぞ」
 京蔵は明らかに分が悪い状況にもかかわらず動じた様子はない。
 京蔵がどうするのか見当もつかないが、毬亜にわかるのは、吉村は“その時”を必ず手に入れるということ。吉村なら何があっても信じて自分を預けられる。かわりに、何があっても吉村に寄り添って力になれることを探して、贅沢を云うなら、吉村を守りたい。
 いますぐにでもそうしたかったが、ふたりは果たして呼吸しているのだろうかという、静止した睨み合いを続けている。タイミングを窺っているような緊迫したなかで一歩でも動けば、かえって吉村の足手まといになる。そんな判断だけはついて、毬亜は逸る気持ちを堪えた。
 そうして緊張を破ったのは京蔵だった。顎をわずかにしゃくる。
 ほかの男たちと同じく、毬亜のすぐ傍にいる男も一歩踏みだす。かまえかけている銃口が吉村のほうを向くのは予測できた。
 だめ!
 その言葉を発する寸前、乾いた音が一つ、冷気を切り裂いた。
 その音が狙った標的は、吉村ではなかった。
 背中に激痛が走る。いや、最初に毬亜が覚えたのは違和感で、痛みはあとを追って襲ってきた。衝撃によろけ――
「毬亜っ」
 その声と同時に二発めが体内を侵した。
「だれだっ」
 京蔵が怒鳴る。
「待って! もういいわっ」
 それは女の声だった。その静止も間に合わず――
「若頭!」
「艶子かっ」
 叫び声のなか、三回めの銃声が響く。
 くずおれる躰がすくわれながら乱暴に振りまわされた。その副作用で痛みが撹拌されたように背中に広がり、そして毬亜の呻き声に別の呻き声が重なる。
「吉、村さ……」
「大丈夫だ」
 片手で毬亜の躰を支えながら、吉村はショルダーホルスターから銃を抜いた。
「総長、すべて録らせてもらった。おまえは、一生、如仁会にも、首竜にも、怯えてすごせばいい」
 一つ一つ刻みつけるように区切り、云いきったあと、ほんの傍で銃声が聞こえた。
 京蔵が痛みに吠え、やれっ、とわめく。
「若頭を守れっ」
 謙也の声が響く。
 再度、吉村が銃弾を放つ。毬亜の隣にいた男が倒れた。
 数分まえの静けさが嘘のようにわさわさとしだし、雄叫びの合間に打ち合う音が飛ぶ。
 毬亜はそれらの音を遠い出来事のように、例えば、映画でも観ているかのように聞いていた。
 背中が濡れて服が纏わりつく心地の悪さが吐き気を催す。呻いた毬亜を吉村が抱きあげた。そうしながらやはり同じように呻いた吉村は毬亜を抱いて歩き始めた。
「一月さん! マリは!?」
 嵐司もまた来ていたのか、いま来たのか。
「艶子だ。あとを頼む」
「わかりました。病院に早く!」
 ああ、と短く答えた吉村の声は、一月! という悲鳴じみた声が打ち消した。
「艶子さん、あんたも終わりだ」
 そんな嵐司の蔑んだ声がした。
 吉村は振り向くこともなく、焼けるような背中の痛みを無視して駐車場に向かった。

NEXTBACKDOOR