愛魂〜月の寵辱〜

第8章 抱擁−月のロザリオ−
#2

 吉村の忘れられない彼女。
 吉村をかばったのは彼女もそうだ。
 吉村が殴られているのを見て笑ったのは、彼女なりに吉村を救おうとしたのかもしれなかった。毬亜が京蔵にそうするように、彼女は結婚する相手に、吉村など眼中にないと嘘を吐く。
 彼女の電話は、会いたくてそうしたのか、最後に会いたいと思ってそうしたのか。
 いま吉村のなかにだれが住んでいるのだろう。
 だれが住んでいるにしろ、会いたいけれど、それよりは、会わなければならなかった。

 かかりつけの内科クリニックに行くと、付き添っている京蔵の側近は受付をすませ、案内も待たずに毬亜を奥へと連れていく。男は見た目をサラリーマンぽくしていて、特段浮くこともない。それに加えて、そこそこ大きいこの澤村(さわむら)クリニックは如仁会の息がかかった病院であり、院長は丹破一家の宴に参加していた一人だから顔が利く。
 普段から腸内洗浄を目的にここを訪れるが、その診察室は通り抜け、今日は初めて行く場所、二階へと階段をのぼる。
 なんのプレートもない部屋に入り、男と一緒に待っていると、まもなく医師が来た。
 医師は毬亜をちらりと見たあと、預かりましょう、と受け合い、男は、終わる頃に来る、と云って出ていった。
 もし、男がずっと付き添ったらどうしようと思っていただけに、毬亜はほっとした。
 あたしもタトゥを入れてみたい。
 京蔵にそう云ってみたのはおとといだ。
 三週間まえに見た男たちがその日にやってきた。おとといに限らず、わりと頻繁に訊ねてきていて、毬亜に会わせたからだろう、開かずの間に入ることはないが、その男たちの訪問のときはうろうろしていても咎められることはない。
 そして、そのときに聞いてしまった。すべてを聞いたわけではなく、断片だ。
 如仁会、跡目争い、中国マフィア、取り引き、騙し打ち、艶子、そして、“吉村をやる”。
 毬亜には何が起きているのかわからない。けれど、“やる”というのが“殺る”ということだとは見当がつけられた。
 艶子の父、如仁会の総裁はもう七十歳をすぎているだろう。その総裁に気に入られている吉村が、総裁の跡目争いに巻きこまれていてもおかしくない。上下関係を重んじる世界だからこそ、京蔵は最もおもしろくないはずだ。ましてや、妻を寝取られているのだ。
 吉村に伝えたくても、電話もなければ外出もできず。伝えられる手段も隙もない。吉村がいなくなったら生き延びる理由はなくなる。そう考えたら、会えないことがますますつらく、苦しくなった。
 その日が来るのは、まもなく、そんな曖昧な猶予しかない。
 おとといは、報酬の一部は前日に払うと約束して京蔵は男たちを帰した。
 報酬の一部とは毬亜というラブドールを提供することだろう。
 そのあと、いつもみたいに四つん這いで犯される合間に、子供を産むのなら無事にすむよう願掛けをしたいと、タトゥの話を持ちだした。
 京蔵の背中にも牡丹(ぼたん)と羽根を組み合わせた彫り物がある。“丹破”は組織名にするにあたり改名したものであり、戸籍は丹羽だという。その名からデザインされたカラーの彫り物はきれいだと思う。
 かつてそう云って口づけたことを憶えているのか、京蔵は疑いもせず、やればいいと許した。
 何を刻むか、もう決めている。
 監禁されたなかで、嵐司が与えてくれたパソコンで絵を描くことは、暇つぶしに役立っていた。それがさらに役に立つとは思わなかった。
 医師は簡単に手順を説明したあと、昨日打ち合わせをした女性のカウンセラーと入れ替わった。
 渡していたデザインと入れる場所を確認して、施術室に向かう。
 毬亜が作りだしたデザインを見れば、京蔵は気づいて激昂するだろうか。
 そうして殺してくれればいい。
 京蔵の子供なんて産みたくない。
 吉村がいない世界なんていらない。
 父も母も失踪のまま、戸籍上だけで生きているのかもしれない。毬亜もそうなるかもしれない。ただ、眠った毬亜が見つかったときにだれかが刻印を見つけたら、そのだれかの記憶の片隅で、吉村と毬亜が繋がっていられそうな気がした。
 施術の間の痛みも、吉村のことを考えていれば耐えられた。
 終わったあとは休憩室に案内され、ソファの上に脚を伸ばした恰好で休んだ。しるしを刻んだくるぶしの上辺り一帯はずきずきとして、熱を持ったように感じる。いまはシートが張られていて、どうなっているのか確認できない。
 もう引き返せないことを実感しておののきながら、一方では解放感も覚えている。
 できるなら吉村に会いたい。
 刻印の疼痛と共鳴して鼓動が痛んだ。
 休憩室のテレビをつけてドラマを見るともなく見ていると、ふいにドアが開く。付き添いの男か、医師か、そう思って目をやったさきにいたのは――艶子だった。
 毬亜は目を見開いた。艶子と会うのは、ふたりで話して以来だ。助けてあげると云ったにもかかわらず、なんの音沙汰もなかった。期待はしていなかったが、吉村も同様に、毬亜にしるべを与えて安心させることもしない。いま艶子を目のまえにして、そんな焦燥がクローズアップした。
「……ご無沙汰しています」
 毬亜は声をかけながら、座ったままで会釈した。
「何か変わったことないかしら?」
 変わらず年齢不詳の美しさを維持している艶子は、じっと毬亜を見据え、唐突に、なお且つ曖昧に問う。
「……変わったこと?」
「何かおかしな動きはしていないかってこと。だれのことを云ってるのかはわかるわよね」
 京蔵は隠密裡に進めているのだと思っていたが、艶子のいまの云い分からすると、何かあるということまでは気づいているのだ。
 それなら吉村さんも知っている?
「あるのね」
 毬亜がすぐに答えなかったことで、艶子は答えを得て断定した。
「わかりません。でも……」
「でも、何?」
「……吉村さんとはいまでも?」
「だったら?」
「ほかに男の人はいないんですか」
「あなたみたいにだれとでもセックスできる娼婦と一緒にしないでちょうだい」
 艶子はぴしゃりと侮辱を吐いた。
 反論はできない。侮辱とも云えないのだろう、毬亜は好きでもない京蔵から快楽を貪っている。
 けれど、いまは傷ついている場合ではない。艶子と会えたのはチャンスだと気づいた。
 吉村の身に危険が迫っていることを、艶子に伝えてもらったらいい。けれど、できるなら――
「嵐司と会わせてもらえませんか」
 突発的に考えついたことは、それがいちばんいい方法に思えた。
「嵐司?」
 艶子はいかにも気に喰わないといったふうに問い返し、怪訝そうな眼差しを向けた。
「あたしが知ってることは嵐司に話します。艶子さんがいまでも吉村さんと続いてるって云っても、あたしにはそれが本当かは確かめられない。嵐司は云ってました。吉村さんを慕うのは艶子さんと似てるって。だから、艶子さんがいまでもそうなら、嵐司に話しても艶子さんにはなんの問題もないと思います」
 艶子は眉をひそめて黙りこんだ。
「あたしは閉じこめられてます。鍵はどうにかなりますよね? 玄関のドアだけでいいんです。今週は土曜日しか来ないって。だからあと三日のうちに」
「逃げる気じゃないわよね」
「吉村さんを危険な目に遭わせたくない。それだけです」
 黙りこんだ艶子はその間、推し量るように毬亜を見ていた。
「約束はできないわよ。嵐司が引き受けるかなんてわからないし」
「お願いします」
「わかったわ」
 挑むように顎をわずかに上げて、艶子は了承した。
 それから、ふと毬亜のくるぶしを見やる。
「彫ったの?」
「はい」
「あの女の子供として生まれたばかりに……あなたには同情するわ」
 その云い方からすると、京蔵に無理やりそうされると思っているようだ。毬亜は敢えて誤解を解くことはしなかった。艶子はタトゥの意味を見抜くだろう。
「それじゃあ、嵐司からの報告を待ってるから。いいわね?」
「はい」
「解放までもう少しね」
 にっこりした笑みを添えたそんな言葉を気味悪く思うのは、毬亜の意地が悪いのだろうか。
 精いっぱいの虚勢が通じて躰がふるえた。
 もしかしたら、艶子の残り香に呪いをかけられたのかもしれない。



 嵐司がいつ来るのかわからず、艶子には三日のうちにと云ったけれど、そのたった三日が吉村にとって間に合うのかどうかもわからない。
 だれかが来るたびに玄関に向かえば、食事を持ってくる丹破一家の組員ばかりで、そのたびに落胆と焦りで廊下に座りこむ。
 時間を見れば食事だとわかるし、それくらい嵐司も下調べはして避けるだろう。こんなふうにちゃんと考えられるのに、いざドアベルが鳴ると期待に惑わされてしまう。
 三日めというタイムリミットは今日だ。それももう夜の十時を過ぎている。携帯電話は着信も発信も京蔵とその側近とに限られていて、連絡手段はない。
 三日なんて云わなければよかった。
 その時という制限のない時間をすごすのも、三日などという限られた時間を待つのも、どちらも救われない。
 毬亜は何をする気にもなれず、ただ気分を紛らせてくれるのはタトゥの痒みだけだ。無意識でも掻かないよう、当てたサポーターの上から叩いて痒みをごまかす。
 あきらめるまであと二時間。
 そんな覚悟を決めてため息をついた。
 そのとき。
 ドアロックが開錠された。
 毬亜は息を呑み、開いていくドアを見守った。録画したドラマをスローモーションで再生しているみたいに、そのスピードはもどかしい。
 そして、玄関の照明のもと、嵐司の姿がくっきりと浮かびあがった。
「……嵐司」
 かぼそい声は幻想かもしれない怖さのせいか、嵐司が変わっているかもしれない不安のせいか。
 嵐司の第一声は――確かに声になるほどのため息は、少なくとも毬亜にとっては嵐司らしかった。
 嵐司はぐるりと見渡す。玄関から廊下、開きっぱなしのドアの向こうに見えるリビングへ、そして毬亜に戻った。
「檻に閉じこめるなんて趣味が悪いな。しかも、ペットになりきってる。もうすぐ十一月になる。季節わかってるのか。こんなとこにいたら風邪ひくだろ」
 会わなくなって二年もたっていないのに、嵐司はずいぶん大人びて見えた。見上げているせいか、威圧感も出てきた気がする。けれど、その口調は少しも変わっていない。
「大丈夫……あったかくしてる」
 被った毛布をつかんで見せながら、ほっとしたあまり、それだけを応えるのにも痞えた。
「まさかこの三日間、ここにいたわけじゃないだろうな」
「ううん、今日だけ」
 それだけでも文句云いたそうに嵐司は顔をしかめた。
「独りで来たの?」
「そんな危ない真似できるか。いまは重要なときだ。謙也さんが下で見張ってる。カードキーは模造カードと入れ替えてきてるだけだし、長居はできない」
「ごめんなさい」
「謙也さんが、なぜおれで自分じゃないのかって文句云ってたぞ」
「なんのこと?」
「おまえの指名がおれだったから拗ねてるらしい」
 どこまでが本当なのか、嵐司は毬亜が驚くようなことを云い、しかも『らしい』と曖昧だ。
「嫌われてると思ってた」
「謙也さんは一月さんに惚れこんでるからな、その一月さんがおまえに夢中になってるから、簡単に云えば、嫌われてるんじゃなくてライバル意識じゃないのか。まあ、おれはずっとマリに付き添ってたわけだし、指名がおれのほうじゃなきゃおかしい、ってそうなぐさめておいた」
 毬亜はくすくすと笑った。
 そうして、だれかと対面して笑うことが、あの吉村とデートをした日以来だと気づいた。
 毬亜を見下ろす目をわずかに細め、嵐司は小さくため息を漏らした。そして、くちびるを歪めた笑い方をする。
「謙也は丹破一家で、嵐司は藤間一家だからって伝えてて」
「なるほど、見つかってもおれのほうがちゃんと守られるってわけだ」
「そう。謙也の機嫌、なおる?」
「ああ。納得するだろ」
 おもしろがって云いながら、嵐司は檻の扉に引っかけられた錠前に目をやった。
「檻の鍵は別か」
 嵐司は呆れたように首を振った。
「ここでいい。逃げる気はないから。嵐司、吉村さんに伝えてほしいの。吉村さん、大丈夫だよね? 生きてるでしょ? ケガしてないよね?」
 毬亜は差し迫った様で檻をつかみ、まくし立てた。
 反対に、嵐司は意地悪をするようにゆっくりとした動作で腰をおろす。
「大丈夫だ。ぴんぴんして生きてる。何があった」
「吉村さん、パパに殺されるかもしれない」
「どういうことだ」
 眉をひそめた嵐司は声までもひそめた。
「丹破一家とか如仁会の人じゃない男の人が二人来てて、それでヘンなことを聞いたの」
「何を云ってた?」
「わからない。ただ、いろんな言葉を聞いた」
 そうしてそれらを伝えると、しばらく嵐司は考えこんだように黙った。
「日本人か?」
「たぶん。日本語は普通に喋ってる」
「なら、そいつらは首竜(しゅりゅう)じゃなくてブローカーだな」
「首竜って?」
「中国マフィアだ」
「ブローカーって?」
「仲介人だ。たぶん、丹破総長はなんらかの取引を首竜に持ちかけている。あるいはもう成立したのかもしれない」
「ずっとまえに命懸けだって云ってた。危ないことをやるってことでしょ。それに吉村さんが巻きこまれるの? 艶子さん、おかしなことはないかってあたしに訊いたの。吉村さんも、おかしいってわかってるってこと?」
「落ち着け。一月さんは自覚してる。いま、如仁会は跡目争いのさなかだ。争いって云っても、文字どおりじゃなく、だれもがけん制し合ってる程度だ。そのなかで、親父が一月さんを藤間一家に呼び戻す話がある。そうしたすえ、年功序列を考えればあり得ないけど、一月さんが如仁会総裁の座につくんじゃないかという憶測も出てる。それを丹破総長が快く思うはずはないからな」
「大丈夫なの?」
「ああ。一月さんならなんとかする。マリが心配することじゃない。おまえがそうだと、一月さんがまたそれを心配する。今日もだから、いちばん信頼してる謙也をおれにつけたんだ。心配させた結果、マリは一月さんの足を引っ張ることになる。うまくいくものもいかない。わかるか?」
 そんな負担になるなど毬亜は思いもしていない。自分のことで気を散らすようなことになってほしくない。それに、嵐司の云い分からすれば、吉村は毬亜をけっして忘れていない。放りっぱなしにしているわけでもない。
 毬亜は反省半分、うれしさ半分でうなずいた。
 嵐司もうなずき返すと、ポケットから携帯電話を取りだした。一方で手にしていた封筒を毬亜に差しだす。
「一月さんからだ」
 厚くも大きくもない封筒を檻越しに受けとって、中身を取りだした。それを開くと同時に。
「嵐司です。マリとかわります」
 一方的な嵐司の声は、毬亜に向けたものではない。
 嵐司が携帯電話を差しだす。
「早くしろ、時間がない」
 固まったように動かない毬亜を嵐司がせかす。
 電話の相手がだれか、察するに独りしかいない。きっと。
 携帯電話を受けとる手も、紙を持った手もふるえている。耳に当てたとたん。
『毬亜』
 毬亜は呼吸を忘れ、すぐには返事をすることすらできなかった。

 すぐ近くにいるのに会えなくて、開かずの間に出入りするときのたった一枚のドア越しに漏れてくる声は、地中に埋められて聞いているみたいにぼやけている。しかも、声も言葉も毬亜に向かっているものではない。
 声が聞けるだけでもいいのか、つらさが甦らないよう聞かないほうがましなのか。いつも迷いながら、そのひと声が聞こえてしまうと無意識に耳を澄ましていた。
 けれど、いまは毬亜だけに向かってくる。
『毬亜』
 今度は云い聞かせるような、なだめた声音だ。
「吉村さん……」
『ばかなことは考えてないな』
「吉村さんがいなくなったらばかなことを考える」
 即座に云い返すと、吉村のため息が漏れ――いや、もしかしたら笑っているときの吐息かもしれない。じかに呼吸が耳に触れ、そよいでいるように感じた。
『これでも執着心は強い』
「……お母さんのことじゃなくて? だれかのかわりじゃなくて?」
『かわり? 不本意なことをやってまで、なんのためになぜ時間をかけてると思ってる。総長は失脚させる。あとは心配するな。いいか』
「……うん」
『躰は平気か』
「うん」
『嵐司から受けとったか』
 躰のことと嵐司から受けとったものが同等のことのように、吉村は質問を連ねた。
 毬亜はうつむき、手にした紙を見つめた。
 それを見た瞬間は予想だにせず驚いていたつもりが、吉村と話すことで、涙ぐんでしまうほどのうれしさと、そのせいでよけいに鮮明になったさみしさが込みあげて、気持ちはいっぱいいっぱいになっていた。
「うん」
『おまえがいいんなら、名前書いて嵐司に渡しておけ。ノーならそのまま返せばいい。いずれにしろ、その時が来るまでそのまま嵐司に預けておく』
「吉村さん、ちゃ――!」
『毬亜』
 ちゃんと書いておくから、とそう云いかけたのに、吉村は毬亜の名を呼んでそのさきを制した。
『その時を楽しみにしている。おれにとって、いまはそのほうがいい。ちゃんと生き延びてろ。いいな』
「うん」
『いい子だ』
 電話は未練もないようにぷっつりと切れた。それとも、未練を断ちきったのか。
 嵐司に携帯電話を返すと、こぼれそうになった涙を人差し指で拭った。
「いるか?」
 電話の間、じっと毬亜を見守っていた嵐司は、ボールペンをカチッと鳴らしてから差しだした。
「うん、書く!」
 吉村に云えなかったことを嵐司に訴えると、ボールペンを受けとった。
 床に紙を広げていざ書こうとするとうまくいかない。
「手がふるえちゃう」
「べつに賞をもらうためってわけでもない。下手くそな字でもちゃんと書け」
「神聖な気分でいるのにひどい」
「とにかく早くしろって云ってる。状況、わかってるのか」
「……わかってる。静かにしてて」
 ペンを持って絵や図案を描くことはあっても字を書くことはなく、久しぶりに書いた自分の名前はひどくバランスが悪かった。
「ちゃんと預かっておく。ヘンなことをしでかして自分で窮地に陥るようなことはするなよ」
 散々な云い様だが、毬亜にはあり得なくもない。ただ、御方(みかた)がいるという安堵感と心強さを与えてくれる嵐司を怒る気にはなれなかった。
「うん。嵐司、ついでにこれも預かっててほしいの」
 毬亜は首にかけていたネックレスを外した。
「これを? あのときのやつだろ」
「うん。でも、パパが来るときは隠してるし、何かあったときにここに置きっぱなしにしたくないから」
 自分が、忘れられない彼女の身代わりでも、吉村の傷を癒やす道具であっても、あるいはその時が来て吉村を艶子に渡すことになっても――と、そんな負の要素ばかりが渦巻く不安のなかで、吉村から買ってもらったネックレスは、唯一、吉村を傍に感じられるという、本当にお守りになっていた。
 けれど、たったいま、その時はだれのためでもなくふたりのためにあるのだと吉村が信じさせてくれた。ネックレスを買った日、吉村のキス衝動は確かに毬亜に生じたもので、身代わりにすぎないのなら、キスをしてとねだってもいないのにそんなよけいなことをきっと吉村はやらない。衝動のきっかけをくれたネックレスを、今度は毬亜が守るばんだ。
「パパとか呼ばされてるのか」
 不快そうに顔をしかめながら、嵐司はネックレスを受けとると、紙をおさめた封筒に一緒に入れた。
「お母さんと同じようには呼びたくなかったし、クラブで働いてたとき、お客さんをそう呼んでたホステスがいたから」
 毬亜が云い訳をすると、嵐司は大げさすぎるほどのため息を漏らした。そして、ゆっくり立ちあがる。
「じゃあな、マリ。そう遠くないうちにまた会えるはずだ」
 云い残して嵐司は出ていった。
 静かな部屋は毬亜が独りぼっちだと強調する。そんな日常の静けさが、いまは吉村に抱かれて眠っているように心地よかった。

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