愛魂〜月の寵辱〜

第6章 裏切りの遊戯(ゆげ)
#2

 一月、あたしが好き? 欲しい?
 約束していない日にいきなり会いたいと強引に誘い、大学の講義を一つ飛ばしてそうしたすえ、仁奈は最初に会ったときと同じしぐさで首をかしげた。
 なんだ、急に。
 一月はそうやって返事をごまかすのに必死で、仁奈の笑顔の裏に潜む闇に気づかなかった。
 だから、どうなの?
 仁奈の顎が上向くと、返事のかわりに挑発に乗ってくちびるをふさいだ。
 十月の末、小さな公園に注ぐ日差しは暖かいにもかかわらず、仁奈のくちびるは冷たい。
 それを温めきれないうちに意味不明の喚き声が耳をつんざき、それに駆けてくる複数の足音が加わる。
 一月がかがめていた上体を起こすさなか、仁奈の瞳に焦点を合わせるまえに肩をつかまれ、そして躰を回転させられながら引っ張られたかと思うと左の頬がめいっぱい叩(はた)かれた。反動で、一月は投げつけられるようにアスファルトの上に転がった。呻き声を漏らすことしかできず、そうした一月の腕をつかみ、引きずるように連れていかれたのは黒塗りの車のなかだった。
 仁奈は助手席に乗り、一月は後部座席で二人の男に挟まれ、ドアから逃げだすこともかなわない。
 仁奈。
 何が起こったのかまったくわからず、仁奈を助けなければ、とその気持ちだけは硬く抱いた。痛みに気を取られ、仁奈が強制されることもなく自らの意志で車に乗っていることに気づかなかった。
 そうして連れられていったのは、如仁会の三次団体の組事務所だった。
 奥の部屋から躰を揺らして出てきたのは、四十歳前後のがっしりとした体格の男だった。不破(ふわ)組の組長だと名乗ったその男は同時に、仁奈が四次団体の組長の娘であること、そして自分の妻になるのだと主張した。
 ひざまずかされ、周囲にかがんだ男たちがニヤニヤして一月を見やる。
 組長の女に手ぇ出すとはいい度胸だ。なあ?
 兄(あん)ちゃんよぉ、仁奈お嬢は十七歳なんだよねぇ。それがどういうことかわかるかぁ?
 インコー条例って逮捕されんだよ? キスシーンはばっちり記録してやったからな。
 キスだと?
 下っ端の男たちがねちねちした脅しをかけてくるなか、組長が据わった声で口を挟んだ。
 不破さん、この人のキス、不破さんとは比べものにならないくらい下手なんだよ。だから、気にしないで。
 ほんとか。
 うん、ほんと。
 信じられない言葉が仁奈の口から発せられ、そして、正面のソファで不破に頭を支えられながら彼女はくちびるを奪われた。
 嘘だ。
 それは声に出していたようで、嘘じゃないよぉ、と下卑た揶揄をしながら近くにいた男が一月の髪をつかんだ。無理やり顔が向き合わされる。
 二度と女を口説けないように、きれいな顔をぐしゃぐしゃにしてやろうか。
 放せっ。
 怖くないと云ったら嘘になる。いや、怖さだけしかない。それでも逆らってみたのは、騙された自分への苛立ちか、それでも信じて仁奈を救いだしたかったのか。
 生意気なんだよ。大学生の坊ちゃんが、組長の女に手を出してんじゃねぇ!
 直後、目の奥で火花が散り、口内では舌がぴりぴりするような味が広がった。痛みと恐怖の反動で男に殴りかかった。
 てめぇふざけんなっ。
 たまたま命中すればそう叫んで足蹴りをされ、当たらなければ煽るように――
 おらおら、ちゃんと目ぇ開いてるかぁ?
 と頭突きをされる。
 それを仁奈は嗤って見ていた。
 あたし、強い男が好きなんだけど。一月は落第かな。お別れだよ。
 仁奈は嗤って云った。
 おい、そのへんにしとけ。堅気の坊やだろ。
 どれくらいたったのか一月が起きあがれなくなった頃、そう口を挟みながら奥から出てきた男が藤間総裁だった。
 強くなりたい。
 一月はただ訴えた。

 あのとき、殴られながら自分は何を思っていたか。
 恐怖、痛み、怒り、疑問、そして裏切られたことに対する虚しいほどの哀哭。
 仁奈が嗤っている裏で、一月と同じように心底で泣き叫んでいたと知ったのはずっとあとだ。知ったときはもう手遅れだった。

「吉村さん、写真撮っていい?」
 毬亜が覗きこむように一月を窺う。
 伸ばしっぱなしの髪はわずかに波打ち、首をかしげたしぐさに風が加勢をして、水のなかで漂うようにふわふわと揺れる。
「写真?」
「吉村さん独りのと、ふたりで映ったのがほしいの。あたしのケータイに保存できないんだったら嵐司に送って保存しててもらう。だって、今度はいつこんなふうに会えるかわからないでしょ? ……あ、お母さんに送るのもいるから、あたし独りのも撮って!」
 毬亜がためらったように付け加えたことは、一月が断るのを警戒して気を逸らしたのか、もしくは母親がどうなったかを察しているためか。
 毬亜にはもう遠慮なく頼れる肉親はいなくなった。
 父親は京蔵の命令によって命を絶たれ、母親は病みあがり直後という十日まえ、そのとき処方された睡眠薬が仇(あだ)となり、薬物多量摂取のためベッドの上で息絶えているところを発見された。事故か自殺か、はっきりすることはない。
 いつまで隠し通せるのか。一月は焦りと闘わなければならない。“その時”を一刻も早く手にしなければならない。
「なら、おまえの写真からだ」
 承諾すると、満面の笑みに対面する。
 臓腑までもが疼くような、痛みとも悦びともつかない激情が込みあげる。仁奈から得られなかった信頼を、毬亜はいとも簡単に一月に置く。
 いまこうやってそれを得られるのは、あのとき嗤った仁奈がきっかけかもしれず、だが、その仁奈に対して抱いていた愛執も淡くなっていく。毬亜にがんじがらめに囚われていくのは辛酸な記憶の副作用か、償いという漠然とした執着から始まり、慾心は叶わないまま渇望へと変化している。
 撮った写真を眺めていると、毬亜がくしゃみをした。
「車に戻ろう」
「もう帰るの!?」
「あと一時間はある。ドライブはどうだ?」
「うん!」
 毬亜は泣きそうにした顔から一転、ほっとしたように笑んで大きくうなずいた。
 ゴミを片づけている間に、毬亜がシートがわりにしていた一月のコートを上下に振って汚れを払う。それがあまりにあどけなく、ずっと、そんな言葉を思い浮かべながら一月は写真を撮った。シャッター音にも気づかない毬亜が毬亜らしくて、ため息まがいで笑う。
「これ、あたしの?」
 車に乗れば、毬亜はジュエリー店の紙袋を掲げておかしなことを問う。
「ああ」
 首をひねりながら応じると、毬亜は、じゃあ、とつぶやいて包装を解き始めた。箱のなかからは、プラチナの楕円形をしたペンダントトップが出てくる。
「これはあたしから吉村さんへのプレゼント。ネックレスしてるでしょ。それにつけてくれたらと思って」
 毬亜の手のひらを覗くと、買うときはよく見もしなかったペンダントトップには、マリア像が彫られていた。
 一月がネックレスの留め金に手をかけると、また毬亜のくちびるに笑みが還る。
「あたしのは吉村さんだから」
 毬亜はムーンストーンを摘んで主張した。
「わざわざ云わなくてもわかってる」
 こういう云い方をすれば拗ねるかと思ったが、毬亜はなぜか安心したように息をついて、そしてうなずいた。
 時間まで当てもなく車を走らせているなか、毬亜がアームレストに置いた腕に頭を寄りかからせる。するとまもなく、呼吸音は規則的な寝息に変わった。
 なんでもない、ただ安穏とした時間を愛おしく思うほど、一月は恐怖していた。

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