愛魂〜月の寵辱〜

第5章 夜鷹
#3

 終わりがないという日々。
 それが幸せだったらそれでいいのだろう。転がり堕ちていく過程が、それまでに鑑みればあまりに非日常で強烈だったせいか、幸せという感覚はもう薄く、毬亜にはよくわからない。
 忘れられない微笑。いまはそれが唯一の幸せで、毬亜の記憶から取りだせるものだ。けれど、始まりは存在せず、それならば終わるという未然の、一瞬という時の刻。
 きっと幸せが続くほど、その幸せは忘れ去られていく。だから人は幸せに気づかない。
 あたしは、忘れられない。
 あのときにそう断言したのは、それが一瞬とわかっていたからだ。
『おまえが可愛い』
 吉村の低い声はこの部屋にいつまでも残り、毬亜の鼓膜をふるわせる。
「好き」
 告白は耳からだけではなく自分のなかからも聞こえ、吉村にけっして云えない言葉を発してしまったことで、毬亜は自分が夢を見ていると気づく。
 そして、着信音が鳴っているのに気づいた。
 母だ。
 曲からそう判断して、サイドテーブルに手を伸ばしながら、まぶたの重い目をなんとか瞬いて目を覚ました。まだ寝足りない感じがして、そのとおり時計を見ればまだ朝の六時半と、三時間くらいしか眠っていない。携帯電話を取ると、通話モードにしてから耳に当てた。
「もしもし、お母さん?」
 眠そうな声だと自分でも思ったが、電話越しにも伝わったようで、母のくすっとした笑い声が耳もとにそよぐ。
 母とはあの夜に会って以来――あれを会ったと云えるのかは疑問だが、この半年をすぎて一度も会えていない。宴のために丹破の家に何度も連れていかれたけれど、吉村に頼んでも会わせてもらえなかった。
 電話は定期的に母のほうからかかってくる。
 衝撃の一夜から一日置いてかかってきた電話は、それだけ苦悩があったのだろうと、あからさまなほど母はためらいがちだった。おどおどしていたといってもいい。
 毬亜はそのとき、何も変わったことはなかったと嘘を吐いた。もしも京蔵が、あるいは宴の場にいただれかが母に漏らせばすぐにばれてしまうことだったが、母の心を弱らせたくなかった。
 母が自ら望んでいまに至っているとは思っていない。毬亜のためと、そんな気持ちもあったことは充分わかっている。その結果、母が快楽に負けたとしても、毬亜自身が吉村によってそうなったから、真っ向からは責められない。
 毬亜がどんな目に遭ったのか、母がいま本当のことを知っているのかどうかはわからない。互いがあの日に触ることはなかった。
『おはよう。ごめんね、朝から』
「ううん。どうかした?」
『べつに用事はないんだけど。季節の変わりめだし、風邪ひいてないかと思って』
「大丈夫。あまり温度の変わらないところにいるから」
『そう。……あなたに変わったことがあれば吉村さんがちゃんと知らせてくれるって云うんだけど……』
 母は言葉尻を濁し、一方で毬亜は吉村という名が母の口から出たことに動揺してしまう。
 母との会話のなかで吉村の名は時折出てくる。毬亜からは口にしないけれど、吉村がこんなふうにふたりの間に入ると、毬亜は母が嫌いになる。同時に、そんな自分も嫌いになる。
 母は、話を付けたと云った翌日から、丹破一家が裏で取りしきるクラブのママとなった。その直後から毬亜がクラブで働くようになって、母が毬亜を守ってほしいと吉村に依頼していたことは、こうなってから知った。
「だから大丈夫だよ」
 おざなりに力づけたが、母は不自然に黙りこんでいる。
 吉村と母は、どんな表情でどんな声音で、そしてどんな眼差しで語り合うのだろう。母の声からも話し方からも、吉村に対する気持ちが見えたことはない。訊きたくて訊けない、そんなことをやっぱり訊きたくなる。
「お母さん、吉村さんと……」
 気づいたときはそう訊きかけていて、毬亜はとっさに口を閉じた。
「吉村さんに、毎日写真を撮ってお母さんに送っていいかって訊いておく。元気だってわかるように」
 ごまかしたはずが。
『吉村さんのこと好きなの?』
 毬亜は先を越され、母のほうからずばり核心を突いてきた。
「……お父さんみたいに思ってる。全然、本物とは違うけど」
 言葉に詰まったあと、母に訊かれたらそう云おうと思っていた云い訳をした。けれど、またもや母は黙りこむ。
 父のことを口にしたせいだろうか。父の行方は、もしくは結末はいまだにわかっていない。
『そうね。吉村さんは実力者のなかで唯一話が通じる人だから』
 ようやく口を開いた母は微笑んでいそうな声で応じた。
「お母さん、吉村さんを信用してるの?」
 毬亜は言葉をかえて訊いてみた。
『あの人は立場があって、自分の意に背くようなことを云ったりしたりすることもあるけど、裏切る人ではないと思ってるわ』
 あの人、とその言葉がひどく親密に聞こえた。
 意に背くようなこと、って例えばどんなこと?
 また訊ねたくなる。
『艶子さんには気をつけて。そうしたうえで吉村さんを頼るのよ』
 母はそう続けた。
 艶子は如仁会をまとめる総裁の一人娘であり、だから丹破一家でも男たちに怯むことなく、それどころかほぼ対等に、あるいは目下に見た振る舞いがまかり通る。最初に予想したとおり、“あの女の娘”である毬亜への風当たりは強い。
 ただ、扱いが冷たいというだけでほかに被害が及ぶわけでもない。
 母は何があると予期していて、毬亜にどう気をつけろというのだろう。
「わかった」
『毬亜』
 母の口からも出ることがない。そんな名を母からいざ呼ばれると毬亜は戸惑う。毬亜をそう呼んでいいのは特別な人だけ。そんな反抗心が集う。
「……うん」
『またね』
 笑っていそうな声で母はそれだけ云って電話は切れた。



 遠くに聞こえていたベルの音がだんだんと近づいてきた。それが先週買ったばかりの、日替わりの目覚まし音だと夢うつつで思い至り、手探りでサイドテーブルに置いた時計を見つけるとボタンを押した。けれど、一向に鳴りやまず、それが着信音だと考え直すまで少し時間を要した。
 さらに、めったにならない音がだれのものか、思考回路に浸透してくると毬亜ははっと顔を起こした。
 携帯電話を取って通話ボタンにタッチすると、横向きに寝転がったまま耳に当てた。
「吉村さん?」
 勢いこんだところで寝起きの声は通りが悪い。ふっと吐息が聞こえたが、それは笑ったのだろうか。
『まだ寝てたようだな』
 その言葉に時計を見ると、正午をすぎたところだった。いつもだったら起きていて、ごはんでも食べている頃だ。
「お母さんから電話があって、一度起こされたから」
『電話があったのか。いつ?』
 それは奇妙な問いかけだった。
 吉村から毬亜のものだと云ってもらった携帯電話は、発信と着信の番号がそれぞれに制限をかけられていて、母に電話することはできないが母からの電話は繋がるようになっている。電話に限って、母と毬亜が話していることは知られているし、特別なことではない。
 それなのに、まるで電話があってはいけないような驚きが込められている気がした。いつも感情が声にのることはないのに、いまの吉村の声には確かに何かが潜んでいる。
「うん、六時半くらい。また大丈夫かって訊いてくるから、毎日、自撮りして写真を送ってもいいか、吉村さんに訊いておくって云っておいた。いい?」
『……ああ』
 たったそれだけの相づちがくるまで、首をかしげそうになるくらい、不自然に長い沈黙があった。写真を送るとなればメールを使うことになるし、そうなれば毬亜からも母に連絡が取れることになる。だから迷っただけなのか。
『マリでいるのはつらいか』
 何かを喋ればすぐに電話は切られそうで、吉村が何か云うのを待っていると、思いもしないことを問われた。
 つらいと訴えれば、ここから出られて、吉村といられるならそうする。けれど、そうじゃない。きっと、そうできるときは有無を云わさず吉村は連れだしてくれる。
「慣れたからつらくない。耐えているだけ」
 ふっとした笑みは、まるで吉村が傍にいて耳に息を吹きかけられたようだった。神経が隅々までざわめいて、背中がぞくっとふるう。そうして漏れてきた二つめの吐息は笑みとは程遠い気がした。
『おまえはどうあっても変わらないな』
「そう?」
『ああ。男を支配して惹きつけて踊らせる娼婦のくせに、けしてそうは見えない』
 吉村がどういうつもりで娼婦呼ばわりするのかわからない。毬亜は自分の意志でやっているわけではないのに。
 何を確かめるためにそう云うのか、ともすれば、ほかの男に抱かれる毬亜を遠ざけているようにも思えた。あたかも、毬亜が大事にしている、吉村とのセックスの時間を、おれとは関係ないと、もしくは、おれも騙されたと突っぱねているようだ。
「踊らせてなんかない」
『無意識にそうしてるから変わらないんだろう。おれが云ったことは憶えているな?』
 今日の吉村は、電話してくることから始まって何でもかんでも唐突だ。
「たぶん」
『たぶん?』
「吉村さんと話したことは全部憶えてるつもりだから、吉村さんがなんのことを云ってるか一つに絞れないだけ」
 三度めの“ふっ”に抱きしめてもらいたくなる。すれ違ったり同席するだけではなく、ちゃんと会いたい。吉村のモノで、躰の最奥を突かれるという未知の快楽を教えてもらいたい。
『忘れているよりは救いがあるな』
 本当はすぐわかったし、それは吉村にも通じている。
 生き延びろ。
 その言葉だ。
 それをなぜいま口にするのか。ただ、わざわざ思いださせることで、吉村が毬亜を突っぱねているわけではないことははっきりした。
「吉村さんはつらいことない?」
 吉村は深々としたため息をつく。
『ある』
 ないと云うかと思っていたのに意外だった。
「よかった」
『何がだ』
 呆れた口調だ。
「マリでいることは耐えられるけど、つらいことはやっぱりあるの。だから、吉村さんと一緒だと思って」
『……ああ、一緒だ』
 少し間が空いた返事は、毬亜のつらいことが何か――その会いたいというつらさを吉村はたやすく見いだしたはずで、毬亜は本当に一緒なのだと思った。
『毬亜』
 毬亜は逝きそうになるくらい躰の奥底からふるえる。
『おまえが可愛い』
 何も返す間がないうちに電話は切れた。
 吉村とはふたりきりどころか、まともに会うこともない。
 何かのついでにラブドナーに立ち寄った吉村に、口での奉仕を要求されたすえ客が放った精液塗れの顔を見られたときは最低の気分にさせられた。
 丹破家で通りすがりに見かけるときは、話しかけられもせず、不安にさせられた。
 そして、倉田に買われたお尻を差しだす、ほぼ週一の宴に同席するときは、最も悲惨で怖くてやるせない。
 宴では、だれかもわからない男に本来のメスの孔を犯されることもある。苦痛だった。あの部屋は毬亜に一種のトラウマをもたらして、心だけでなく躰もまったく応えない。京蔵が云っていたように毬亜の孔は狭いのか、それが気持ちいいらしくて、あまつさえ、前戯としてラブドナーで学んだ奉仕に満足しているようで、大金――それがどれくらいなのかは知らないが、男たちは常々大金を積んだ甲斐があると口にして勝手に逝く。
 吉村には慣れたと云ったけれど、そんなことはなくて、ただ耐えてやりすごしている。吉村もそれを見抜いているに違いなく、だから、つらいか、と訊くのだ。
 吉村から失神するほど追いつめられた日から半年がすぎて、季節は春に移行している。その間に快楽がどんなものか、毬亜は忘れた。
 吉村に抱かれたい。
 吉村の声が鮮明に耳に居残っているいまなら、吉村が教えた快楽の果てを思いだせそうな気がする。
 毬亜はふとんを剥いで仰向けになると膝を立てた。

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