愛魂〜月の寵辱〜

第5章 夜鷹
#2

 店の営業が終わり、ボーイに送られて毬亜が住み処に戻ったのは三時だった。部屋に入ったとたん、ドアの向こうで施錠音がする。
 毬亜はバスルームに行ってガウンと下着を脱ぐと床に座りこみ、シャワーをひねる。冷たくてもかまわず頭からシャワーを浴びる。躰がびっくりしてふるえるが、温かくなっていくとそのふるえも止まった。
 店ではちゃんと躰を洗う。それなのに自分の部屋に帰ると、なぜかまた洗いたくなる。
 シャワーを止めても動く気力は集められない。目のまえの鏡にある自分の顔は、生気がまるでなく、じっと眺めているうちにだれか他人のような気がしてくる。
 いつものことで、気づけば朝になっていることも多い。夏のうちはまだいいが、これから寒くなれば凍え死にしているかもしれない。
 そう思いながらも壊れた人形のように動けなかった。
 その人形に生気を吹きこんだのは思いもかけない怒鳴り声だった。
「何やってる!」
 条件反射のようにびくっとして振り向くと、そこには吉村がそびえていた。
 脱衣所にいるのは吉村だと認識するだけで、毬亜はまるで思考力が使えていない。
 恰好を見ればスーツではなく、ジョギング用みたいな足首を絞った綿パンツにTシャツという服装は砕けすぎていて、本当に吉村なのか、毬亜は自分の目を疑った。
 目線を上げるとしっかり吉村の目と合う。これまで毬亜に向けられたことのない、睨みつけた眼差しが注がれている。眉間にはしわが寄って、殺気立っているようにさえ感じた。
 その雰囲気のとおり、バスルームに入ってきた吉村は毬亜の腕を乱暴につかむ。
「死ぬ気か」
 問いかけとも云えない言葉が、どすの利いた声で吐き捨てられると同時に。
 どんっ!
 鈍い爆音に似た音を伴ってバスルーム全体が震動した。
 横から投げ放つように拳で殴られたのは鏡すれすれの場所だ。吉村はぎりぎりの抑制心で毬亜が映った鏡を避けたのかもしれない。
 暴力的な吉村を見たのははじめてだった。樹里のことがあったばかりで、毬亜は自分もまた手を出されるんじゃないかととっさに身を縮め、顔を背けた。
 それに気づいた吉村は毬亜の頭上で深く息を吐いた。
「立て」
 吉村は云いながら、毬亜の腕を引きあげて手助けをした。同じ姿勢でいたせいで、躰はやはり人形のようにこわばった動きしかできない。どうにか立つと吉村は腕を放し、シャワーをひねり、そして服を脱いでいく。
 湯の温度を確かめると吉村は毬亜の足もとにシャワーをかけた。シャワーヘッドはだんだんとのぼってくる。首もとまできて、次は頭からシャワーをかけられる。目をつむった毬亜はバランスを崩し、すると吉村が躰を引き寄せた。髪の内側まで熱が浸透してくると肩下までの髪が片方に寄せられ、背中にシャワーが当たる。吉村は片手で毬亜の腰を抱きながら、内部から火照ってくるまでシャワーを流しっぱなしにしていた。
 その実、シャワーよりは吉村の躰に温められている気がする。ずっとこうしていたいと思うのに、それが通じたすえ意地悪するかのように吉村は躰を離して心地よさを断った。
 脱衣所に行った吉村はバスタオルを片手に戻って、互いの躰をぬぐってから毬亜の髪を少し乱暴に拭いていく。そうしてガウンを纏わせてから毬亜を抱きあげた。
 ベッドにおろされたかと思うと吉村は出ていく。服を着て戻ってきた吉村はドライヤーを手にしていた。ベッド脇のコンセントにプラグを差しこんでスイッチを入れると、毬亜は熱風に晒された。
 こんなふうに吉村にかまわれるのは、あの朝、パンを食べさせてくれたとき以来だ。それから吉村がこの部屋を訪れたことはなく、もともと世話好きだというだけかもしれなかった。
 世話をやかれるのは嫌いじゃない。いや、そんな生ぬるい云い方ではまったく足りなくて、怒らせた結果がこれなら怒らせるのもいいかもしれないとおかしな考えを抱いてしまうほど好きだ。
「個室、使ってないらしいな」
 ドライヤーの音がやむと、吉村はじっと毬亜を見つめて云った。
「ずっと独りだから……人と話してないと怖くなるの」
 吉村は首を振りつつため息をつく。
「おまえには、逃亡でないかぎり何があっても手を出すなと云ってる。怒鳴ることも含めてだ。おまえが店で怖い目に遭うことはない」
 その言葉から、ボーイかだれかが店での出来事を吉村に知らせたのだとわかった。もしかしたら、毎日、報告はいっているのかもしれない。
「樹里ちゃんはどうなるの? いなくならないよね?」
 所詮、ラブドナーでも礼儀正しさは仮面で、男たちは簡単に暴力に訴える。いなくなる、という言葉の意味は吉村なら伝わるはずで、毬亜は固唾を呑んで返事を待った。
「それなりの制裁はあるだろうがいなくなることはない。商品価値はまだある」
「……制裁、って?」
「二度と客に幻想を持たないよう、肉体的ではなくても精神的に痛めつける方法はいくらだってある。宴でおれのまえでやられているとき、そこでもしおれが笑って煽り立てたらどうだ」
 具体的に例を挙げられたことは考えたくもない。吉村がそうするとしたら、毬亜の気持ちは空回りで幻想にすぎない。見られることさえ苦痛なのに。
 毬亜は首を振った。
「あたしも……商品?」
 云わずもがなという質問をぶつける。
 案の定、吉村は答えることなく、ふとんを剥ぐと毬亜を寝かせた。ふとんでくるみ、吉村はそうした掛けぶとんの上で毬亜の隣に横たわった。
 服を着て戻ったときに気づきはしたけれど、いまこうしている吉村が、毬亜を抱く気がないのは明らかだった。
「いつもああしてるわけじゃないな?」
 なんのことかと毬亜が首をわずかにひねると、吉村は「濡れたまま座りこんでたことだ」と次いだ。どう云おうかと目を宙にさまよわせ思考に走ったとたん、不快そうなため息がこぼれた。見ると、ひどくしかめた顔があった。
「今度から嵐司をやる」
 自分で答えを出したらしく、有無を云わせない声音だ。
「今日のことは気に病むな。商品に手を出したのは行きすぎだった」
 吉村がコンパニオンを商品と云うのは二度めだ。毬亜を含めて、その商品を選んで会員制のラブドナーに並べているのは吉村だ。
 ほかのだれでもなく吉村がここにいることには意味がある。
 そう思っていいよね? 怒ったのはそれだけ心配したからだよね?
 そんなことを確かめたくなる。
「吉村さん、今日、違う人みたい。スーツでも渋い甚平服でもないから」
「スーツを着て寝るわけがない」
 呆れたようにふっと息をこぼす。
 吉村は休んでいたのに、わざわざ起きてここまで来てたのだ。うれしくなって――
「吉村さんに抱かれたい」
 確かめるかわりにそんな要求が衝動的に飛びだした。
 けれど、吉村はすぐには答えない。
「おまえは嘘が吐けない」
 とても返事にはなっていない言葉がつぶやかれ、拒絶された。
 自由な恋愛はできない。本気で相手にするわけがない。
 そんな言葉がいまの毬亜に重なった。
 離れていれば希望も儚くなっていく。ついさっき、ちょっとだけ芽生えた自信みたいなものは呆気なくしぼんだ。
「眠れ」
 吉村の手が頬に添い、親指がまぶたを閉じさせて目尻から雫をぬぐった。

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