愛魂〜月の寵辱〜

第1章 堕ちる
#2

「マリちゃん、お金に困ってるんだってねぇ」
 クラブの奥にあるパウダールームから出たとたん倉田の声がして、驚いた毬亜はすぐ後ろのドアに背中をぶつけた。
「きみの気持ち次第で肩代わりしてあげるよ」
 なんの対処もできないうちに倉田は続け、逃げ場所のない毬亜に迫ってくる。
「なんの話か、わたしにはわかりません。ごめんなさい」
 おののいて突き飛ばしたい気持ちをなんとか抑制して惚けた。
 どこからそんな話を仕入れたのだろう。母はそんなお喋りをしない。たとえ、同僚にでも。毬亜が母の娘であることさえ、店のなかで知っている者はいない。毬亜と母の関係は、この業界ははじめてというまったくの新人と、それを手取り足取りで面倒をみる“ママ”、とだれもが思っているはずだ。
 漠然と不安が集う。
 この三日間、めずらしく倉田は毎日やってくるが、ずうずうしさがひどくなっている。それがママが店にいないせいなら、毬亜はまだまだ現実を甘く見ていたということだ。
「わからない、ねぇ。どちらにしろ、僕はマリちゃんに贅沢させてあげられるよ。こんな店もやめて……」
「おっと、倉田社長。いただけない話ですね、それは」
 毬亜はさらに身をすくめた。
 倉田をさえぎったのは吉村だった。倉田がぎょっとして振り向く。
「ああ、吉村くん。金さえ払えばいいだろう?」
「そうはいかないんですよ。いろいろと“お気に入り”なんでね。約束をすぎてもらっちゃ困る。金を積んでできることには限界があるってことで頼みますよ。まあ、倉田社長がどうしても仏さまに会いにいきたいとおっしゃるんなら、押し通せばいい。見なかったことにしますが」
 吉村は軽い調子だが、言葉の節々に脅しを込めている。毬亜がそう思うのだから、倉田がわからないはずはない。その倉田は、吉村に手のひらを向けてなだめるようにひらひらさせた。
「酔った勢いだよ。三代目には内緒に頼む。約束で充分だ」
「合点(がてん)しました。では、のちほど、ということで」
「ああ、楽しみだ」
 倉田は舌なめずりをしながら、舐めまわすように毬亜の全身を見渡すと、背中を向けて立ち去った。
 吉村と残された毬亜は、ジャケットがぴんと伸びて貼りつく倉田の背中を見つめた。それが視界から消えてもその消えた場所から目を逸らせなかった。
 吉村をいないものとして扱えればいいのに、動けない毬亜は簡単に吉村の手中に握られている。
「行くぞ」
 どこに? そう訊ねるのが怖い。
「……まだ仕事は終わってません」
「もっとわりのいい仕事がある。来い。まずは母親のところに連れていく」
 毬亜はぱっと吉村を見やった。
 痩せた躰つきに見合って吉村の目は細く、怖いというよりも冷酷な印象がある。
「お母さん?」
「ああ。会いたいだろ。どうしようもねぇ親父と違って、借金をちゃんと返そうとするおまえへの褒美(ほうび)だ」
 毬亜は何も考えず即座にうなずいた。
 これからどうなるのか、これからどうすればいいのか。毬亜はそれを母に聞きたかった。
「おまえは親孝行のいい娘だな」
 吉村は薄いくちびるを歪めて鼻先で笑った。


 吉村は父と同じ年代だ。一重(ひとえ)だろう細い目に、くっきりと出っ張った鼻と厚めのくちびるは意外に相性よくおさまり、顔立ちが悪いわけではない。頬が痩(こ)けていなければ少しは近づきやすいだろうに、何着持っているのだろうという黒鳶(くろとび)色のスーツはいつもピシッとして、手で触れることさえ拒む気配がある。
 クラブには定期的に顔を出し、母やほかのホステスたちといるのを見てきた。終始くちびるには笑みらしきものが浮かんでいるが、撫でつけた髪が乱れないのと同じようにその眼差しが和らぐことはなく、捉(とら)え所のない男だ。
 なんとなく目に留めてしまい、そんなふうに毬亜が観察しているのを知っているのか、ふと目が合う。すると、にこりともしない冷ややかさをたたえる。毬亜の視線を追い払いたがっているのか、結局、毬亜がぱっと目を背けることが多い。
 吉村は借金取りの男というよりは、借金取りの男たちを束ねるボスだろう。手下がいつも控えている。
 実際、学校まで付き纏っていた男たちを、そのへんにしとけ、と連れ去っていたのは吉村だった。
 控え室からバッグを取ってくると、やはり吉村には若い男が付き添っていた。
 はじめて見る男だ。毬亜を見てわずかに眉をひそめた。
 毬亜も同じ表情をしたかもしれない。
 吉村の節榑立(ふしくれだ)った部分を寸分の狂いもなく整えたような顔貌(がんぼう)で、吉村の手下だろうに、どこか堂々として見える。吉村が顎をしゃくって無言の命令を下しても倉田のように少しも怯んでいない。
 若い男は手のひらを向けてすっと腕を流し、毬亜を招いて先導すると、吉村があとをついてくる。三階にある店を出て階段をおり、外に出たとたん、むっとした夏の匂いに襲われる。歩道に横付けした黒塗りの車が目に入った。
 運転席にいた男が車を降りてフロントをまわってくると、後部座席のドアが開けられた。毬亜は促されるまま乗りこんで奥に詰め、吉村が隣に乗り、若い男は助手席におさまった。
 怖くないと云ったらまったくの嘘になる。
 借金取りの男たちが、ただの借金取りでないことはわかりきっていた。息をつくことさえ緊張してふるえてしまう。持っているのがバッグだけというのも心細い。毬亜は縋るようにショルダーストラップをぎゅっと握りしめた。
 車が発進してまもなく、すぐ隣で小さな金属音が聞こえた。車内に小さく明かりがともる。影ができたかと思うとまた金属音がして、直後、むせるような煙草の香りが広がった。
 吉村は静寂を好むのか、まえにいる男たちは一切口をきかず車のなかはしんとしている。
 息が詰まりそうな気配のなか。
「マリ、いくつになる?」
 唐突に吉村が問いかけ、名前で――ホステス名だが――呼ばれたのははじめてだったこともあり、毬亜は一瞬、簡単な質問の意味も把握できなかった。
「……十六……一週間したら十七になります」
 なんとなく、たった一つでも上に見られたくて付け加えた。いや、年を上に見られることよりも毬亜は早く大人になりたいのだ。子供だから何一つまともに考えられないで対処もできない。
「五日が誕生日か?」
「はい」
「去年はただ痩せ細ったガキだったけどな。まだガキには変わりねぇが女の変貌ぶりには驚かされる」
 ふっと吐息が聞こえて、毬亜は無意識に隣に目を向けた。
 それを待っていたかのように吉村は腕を上げ、毬亜の首根っこをつかんだ。吉村を向いたまま頭を固定され、その吉村は背中を起こしながら毬亜を引き寄せる。
 驚いてハッと口を開いたとたん、煙草臭さが口のなかに広がった。
 んっ。
 吉村の細い目を間近に意識して毬亜はとっさに目をつむる。口のなかを軟体動物が這うような感覚は何がなんだかわからず、されるがまま受けとめるしかなかった。呼吸が難しく、呻き声が口のなかでこもる。酸素不足のせいか、のぼせたように顔が上気していった。
 舌を引きずられ含まれたかと思うと吸いつかれて、慣れない感覚に舌が痙攣する。毬亜の躰が脱力すると、見計らったように吉村はくちびるも手も放した。吉村の腿に倒れこみそうになって、その寸前、毬亜は喘ぎながらなんとか手をついて自分を支えた。
「はじめてか?」
 吉村は毬亜と違って息も切らさず平然とした声で訊ねた。
 何が? いまのは何? 何をされたの?
 毬亜の頭はうまく回転せず、そんな疑問を抱く。
 吉村は毬亜の答えを待つことなく、すでに答えはわかっているとばかりに薄く笑った。そしてそっぽを向く。
「どう変わるか、楽しみだな」
 吉村は独り言みたいに云った。その言葉が表す意味とは裏腹に、窓の外を見やる横顔は筋張っていて、少しも愉快そうには聞こえなかった。
 そうして車内は静けさを守り、やがて車は大きく構えられた瓦屋根の門をくぐった。
 高い木の塀で囲まれた敷地内は、個人の住まいとは思えないほど広かった。五台ほど似たような車が並んだ駐車場に入り、エンジンが止まる。
「口紅を貸せ」
 不意打ちの要求は毬亜を戸惑わせる。吉村はいつもこんなふうだろうか。口紅という意味がわかるまでに数秒、毬亜は慌ててバッグを開いた。
 なかのポーチからリップスティックを差しだすと、吉村は黒っぽいハンカチで自分の口を拭っていた。ハンカチをジャケットのポケットにしまい、吉村は受けとったリップスティックのふたを取った。片方の手が毬亜の顎をわずかに持ちあげると、クレヨン型のリップがくちびるをたどった。
 わざわざ身だしなみを整えるということの意味がよくわからないまま、すぐに戻されたリップスティックをバッグにしまった。
「行くぞ」
 その言葉に反応したときには運転手と若い男が、はい、と答え終わり、吉村は毬亜に背中を向け、すでに開けられていたドアから出るところだった。
 ついていくさきに見える和風の建物は、やはり家というには大きすぎる気がした。玄関の両端には屈強な男たちが待機していて、近づくと吉村に対してだろう、無言で頭を下げる。木製の引き戸が開けられ入ってみると、どこまであるのかという広い廊下しか見えない。家のなかは静かだが、隅に並んだ靴が無人ではないことを示している。
 廊下を二つほど曲がり、奥まったところで吉村は足を止めた。
「お待ちを」
 運転手の男が毬亜を引き止め、一方で吉村は戸のまえで正座する。
「吉村です。お待たせしました」
「入れ」
 一拍置いて太い声が飛んできた。
 唸(うな)るように轟(とどろ)いて、毬亜はますます緊張する。
 吉村は戸を開け、相手の顔を見たか否かのうちに両手を床につき、頭を下げた。
「失礼いたします」
 ボスだと思っていた吉村よりも力を振るうだれかがそこにいるのだ。いまになって漠然とそう知り、緊張が怯えに変わった。
 お母さんとほんとに会えるの?
 呆然とそう思ったとき、毬亜の耳に女性の悲鳴が飛びこんできた。足がすくむ。
 吉村が立ちあがる間に運転手の男が毬亜の背中を押す。運転手から引き継いで吉村の手が背中を支え、毬亜をなかに招いた。
 すると、畳に敷かれたふとんの上で四つん這いになった裸の女性が目に飛びこんできた。
 その光景がなんなのか。
 毬亜にはやっぱりすぐには理解できなかった。

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