純愛ジュール◆TRACE-時の鼓動-

HOPE


もし望み通りに生まれ変わることができるのなら、太陽になって、貴方の心を暖かく包んであげよう――


君が笑っている。
親密に馴染(なじ)んだホテルの一室で、僕の(うた)を聞いて君が笑っている。

いつからだろう。
君から本当の笑みが消えたのは――。
僕の心の支えになっていたはずの君の笑顔は、いつしか心の哀しみにすり替わっていた。
出逢ったのは、ずる賢い神が現れたあの冬だったね。
あの冬、僕だけを残して、神は愛を持ち去った。
めずらしく雪が激しく降る夜、父と母は僕を迎えにきた。
いつもと変わりない……変わっていることといえば、父が一緒に付き添ってきたこと。雪が降っていたこと。

違う。

暗闇(そら)から雪が降っていたから父も、いた。

視界が悪くて車たちは各々の(あるじ)から主導権を奪った。
車の絶叫音は、僕の心を切り裂き、人間の声を閉ざした。
冷たい静寂だけが横たわった。
あの夜から僕の心には巨大な空虚が存在している。
けれど神は僕に君を与えた。

僕はまだ、神を信じた。
君のことはずっと小さい頃から知っているのに、あの冬、僕は君にはじめて逢った気がした。

僕の中の空虚はだんだん小さくなっていく。

君がいたからだよ。

君が笑っている。

ずる賢い神は僕と君の間に、気づくはずのない十字架(CROSS)を敷き詰めていた。
君は笑顔の向こうでいつも泣いている。
それが見えてしまう僕は、その重さに耐え切れなくなっていった。

ずる賢い神からこの場所に連れ去ることしかできなかった。
高い場所に位置するホテルの一室からは空を近くに感じる。
クラシックな調度品がそろった部屋はひっそりと孤独なのに、思いのほか僕に安らぎを与えてくれた。

ここは僕たちが唯一、愛を語れる場所となった。
ルームサービスで頼んだコーヒーを手にして彼女が近づいてくる。
カップを置いたとたんに、僕は彼女の手を取って引き寄せた。

僕の腕に彼女の困惑が伝わってくる。

僕は決断しなくてはいけない。

強く、強く、強く……彼女を抱きしめた。

「痛いよ」
少し笑いながら、彼女が抗議する。
「ごめん」

謝りつつも、僕はこの手を(ゆる)めない。

放したくない、離れたくない、独りになりたくない。
君を抱きしめながら見た窓の外の宇宙(そら)の中に、ずる賢い神を感じた。

僕はまた安住の地を奪われる。
「こんなに強く抱いてくれるのに、キスはしてくれないんだね?」
そう云って君は微笑む。

気づいたんだ。
この部屋で僕たちは自由になれる。
そう信じていたのに、結局ここは嘘で塗り固められた空間になってしまった。

僕の愛は真実なのに、僕は君を幸せにしていない。

君が笑っている。
僕たちに未来は存在しないとわかっていても。



僕は君の帰りを待った。

結論は出ていたのに決断できなかった僕の言動は友人たちを怒らせた。
「誰も彼もがのうのうと生きてるわけじゃない」
「おれたちがそんなふうに見えるなら、おまえは人間を見縊(みくび)ってるんだ」

ずる賢い神は僕の中に存在した。
僕は神の視線()で人間を見下(みくだ)していたのかもしれない。

窓の外から見える梅雨明けの青空(そら)(まぶ)しい。
その中を君が歩いてくる。

玄関の戸を開けて彼女を迎え入れた。
「ただいま」
「おかえり」

君が笑っている。

幼い君にCROSSを強いたのは、僕の中のずる賢い神だった。

君の純真な笑顔を独り占めにしたかった。
そしてそうなった――君は温かい。

けれど――――。

「すぐ出るの? 私も用意して――」
「だめだよ」
「え?」
「もうあの部屋へは来るな」
「どうして急に……」
「……自由になりたい…………」

彼女の傷ついた瞳が揺れる。

こんな君を見たくなかった。
けれど…………君に必要なこと、いまの僕にできることは……それは君を傷つけること。
僕は出て行かなければならない。
君の心から。

彼女は意思を確認するように僕の瞳を(のぞ)き込む。
そこに決意を読み取ると、彼女の瞳に無数の星が散らばった。

君が笑っている。

唇が震えているよ。

背中を向けたとたん、彼女の腕が僕に(から)みついた。
束の間、力をこめて。
そして(ほど)いた腕が、今度は僕の背中を軽く押した。

玄関の戸を開けて外に出た。

光り輝く宇宙(そら)が僕を嘲笑(あざわら)う。

僕の扉が閉まった。
目のまえに巨大な空が広がり、ずる賢い神が溶け出していった。
僕は振り向かなかった。
君の涙がそこにあるから……僕の心に君の愛が見えたから……。

僕が笑っている。

もし願いが叶うなら、君の幸せを祈ろう。至福のときを君に約束する。

この命と引き換えても……愛しているから――

− The End. − Many thanks for reading.

DOOR
Material by Heaven's Garden.