花見とは名ばかりで、可憐な桜の色とはおよそそぐわない、下品な笑い声とへべれけな振る舞いと怒号のように傲慢な言葉が飛び交う。
それに耐えられなくて、自ら命が尽きることを選んでいるのではないか。桜が散るたびに、二宮珠美は頭上を見上げてそう思った。
この春、珠美は大学を卒業して、中堅の不動産会社である柏田住建に入社したばかりだ。三日間の新人研修を受けて今日、四日、ようやく配属先のマンション事業部に就いたのだが、その一日めに花見宴会が開かれた。新人の歓迎会も兼ねた会社公認の行事だ。
社員数が多いため、花見などの宴会はフロアごとに催される。けれど、名前も顔もよく憶える時間がなかったという状況下、あいにくと珠美にとってその近しさは意味をなさない。同期で入った田端紀香も少々、いや、ずいぶんと困惑して輪に加わっている。
まだそう親しくはないが、珠美がそうであるように紀香にとっても頼みの綱は珠美かもしれない。
隣に座った上司、永本課長が日本酒を勧めてくるのは何度めだろう。アルコール類は苦手だという断り文句は本当のことなのに通じない。
「酔ったところで宴会だ、咎める奴のほうがどうかしてるだろう。みんな先輩だ。だれかがちゃんと面倒みてくれるぞ」
無責任な言葉を吐いて永本は銚子を傾けてくる。スカートの上にこぼれそうになって慌てて杯を差しだした。次には反対側にいる紀香へと対象がかわった。けれど、紀香は酒に強いのか、珠美と違ってすっと口に含み、永本へと杯を渡す。
珠美は潔癖症ではないけれど、そんなふうに杯を交わすということがよくわからない。とてもさわやかとはいえない、不自然な額のしわの並びとてかてかした皮膚が触れたくないと思わせる。
「君はまだ返してくれてないな」
永本は珠美が持った杯を指差した。かなり飲んでいるはずが、記憶力は衰えず達者なようだ。酒に強いのかもしれない。珠美は困り果てる以上に、だれも助け船を出してくれないことに気づいてショックを受けた。
「すみません」
と、杯を口につけようとした矢先。
「永本課長、僕とどっちが強いか勝負しませんか」
そう云った彼は少し離れたところからやってきて、強引に珠美と上司の間に割りこんできた。
「大丈夫だ」
珠美が横にずれている間に彼と最も接近すると、そんな囁き声が聞こえた。思わず見上げると、ほんの間近で片方の口角が上がった。
彼が途中から合流してきた人だということは憶えている。偶然、この場所、この時間に花見をやっていたという。取引先の人らしいことはなんとなく会話の様子から捉えていた。
「おう、境井くん、君はいつも潔いねぇ。気分がいいよ」
「永本課長とは、いつかじっくり酒の付き合いをさせてもらいたいと思ってたんですよ。ビールとお酒、どっちです?」
「日本人だからなぁ」
「わかりました」
思わせぶりな返答で境井は察したらしく、杯ではなくグラスを手にして、保温ポットから日本酒を注いだ。それからの勝負は、珠美からすれば信じられない光景だった。
境井という人の正体もはっきりわからないまま、勝ってほしいというよりも、倒れないように、と祈るような気持ちで珠美は見守った。
ほかの社員たちは皆、遠巻きに眺めているだけで止めようともしなければ、加わろうともしない。やはり、境井にもかばう人はいなかった。
そうして、珠美もそのうちの一人だ、とそう気づいた。自分が受けたショックはお門違いで、助けてくれなかったことをだれも責めることはできない。
もういいです――と珠美は何度腰を浮かしたのか、結局、実行に移すことはかなわなかった。
いま守ってくれた境井は、会社を基準に考えれば部外者だ。それよりも、入社したての珠美が上司に反発するリスクのほうが高すぎる。守ってくれる人はいないということが、すでにわかっているから。
ただ、社員たちのほとんどが永本のことをあまりよく思っていないことは感じとれた。その証拠に、境井が粘り勝ちして永本が潰れると、一様に安堵したため息をついた。
永本の世話を引き受けた人を除き、全員で片付けをやって、延々と続きそうだった宴会は終わり、蜘蛛の子を散らすように解散した。
「境井代理、大丈夫ですか?」
珠美とあまり歳の離れていない男性社員が声をかけると、脇にあったベンチに腰かけていた境井は立ちあがる。
「大丈夫ですよ。お世話になりました」
その応えは信用できない。境井は片付けを手伝っていない。この人なら普通だったらきっと手伝う、と、珠美は話したこともないのに断定した。
「いえ、お世話になったのはこちらかもしれませんよ」
おどけた男性社員の発言に境井は笑う。
「ありがとうございます。では、僕はこれで」
明らかに歳は境井のほうが上だと思うが、柏田住建のほうがクライアントになるようで云い方が丁寧だ。
境井の後ろ姿を見送りながら珠美は迷った。
喋るのはきちんとしているし、歩くにも千鳥足というわけではない。ただ、相当に飲んでいるのはわかっている。無理をしていることも。
「二宮さん、帰ろう」
立ち尽くした珠美を紀香が誘う。少し迷ったすえ、境井が消えていく方向を指差した。
「わたし、ちょっとこっち方面に用事があるの」
「そう?」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、月曜日ね。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした。田端さんも酔ってそうだから気をつけて」
「ありがとう」
互いに手を振り合って反対方向を向いた。
境井を助けられなかったぶん、帰るところまでは見届けたい。珠美はあとをつけた。
境井について広い公園のなかをずいぶんと歩いた。すると、公園の出入り口付近から遊歩道へと少し入りこんだ場所に行って、案の定、境井はベンチにへたりこむように座った。
また迷う。
『大丈夫だ』とそれはただ単に断れない珠美を見かねただけで、境井がしたことは珠美のためではけしてない。それが、紀香だってそうしたと思う。取引先とはいえ、はじめて会った人だから勘違いはしていないけれど。
ひとつ深呼吸をして心底から勇気を奮い起こした。
「さっきはありがとうございました。大丈夫ですか」
珠美は少しかがんで声をかけた。
腿に肘をついていた境井はうなだれた頭をゆっくり上げた。外灯の助けを受けて、気だるそうな瞳に珠美の影が映ったのが見える。
「自分の身は自分で守れるようにならないと。上司だからって云いなりになってることはない」
皮肉っぽい笑い方をしながらつぶやいた。責めているのか、いや、気分が悪いせいなのかもしれない。
「はい」
うなずいて返事をすると境井は薄く笑う。
「あんまり人のことは云えないけど」
自嘲した境井はまた顔をうつむけた。
放っておくわけにはいかず、境井も帰れとは云わない。
酔わない程度に飲んだ酒は、珠美の躰を内側からぽかぽかさせていたが、その効力も薄れていく。肌寒さを感じ始めながらも、じっと正面に立ってついていると――
「隙だらけだ」
手を引っ張られたかと思うと次には躰を反転させられて腰をさらわれた。
気づけば背中から境井の躰にくるまった恰好で、ベンチに座らされている。境井は酔っているくせに、珠美を引き寄せる力は驚くほど強かった。
「寒そうだから。モラルハラスメントで訴えてもかまわない。けど」
その続きを云う気はさらさらないというような『けど』で終わったあと、背中がさらに境井に密着した。境井の顔が間近にきて珠美の肩にのり、息遣いが耳もとで聞こえる。
鼓動がむやみに乱発して混乱するなか、暴れたり引っ掻いたりなどして逃れようという気持ちは起こらなかった。躰を囲う腕はいつでも放してやると云いたそうに緩くて、そして温かかったから。
長崎から出てきて東京で暮らし始めて二週間、今日は特に、大げさにいえば社会人になって生き延びることの難しさを感じていた。だから、境井と重なる呼吸は御方がいると教えてくれているようでうれしくなった。
境井は日本酒の匂いをほのかに漂わせている。他人同士で交わす杯は拒絶反応が出そうなくらい嫌だったのに、いま不潔だとか嫌悪感はない。
厳密にいえば、薫るのは日本酒ばかりではなく、境井が身に纏う香気とブレンドされている。それがアロマのような効果を伴って、やがてどきどきした珠美の焦りも落ち着いていく。躰が自然と弛んで境井にゆだねた。そうして、背中に触れる鼓動がただ心地よかった。
この場所は大通りから逸れていて人の往来もそうなく、通るとしても酔っぱらっていて、ふたりのことが気に留められることはあまりない。ひと言も口を開くことなく時間がすぎていった。
その間、珠美は『けど』とその次につく言葉を探していた。
遠くに聞こえる宴会のざわめきも次第に閑散としていく。肩の上では、最初はきつそうだった呼吸音が、眠っているのかと思うほど穏やかになっていた。
いま何時だろう。内心で思ったことが伝わったように――
「帰らないとな」
と、境井がつぶやいた。肩の重みがなくなり気吹が離れていく。
すると、それまでの明らかに常識から逸脱した行為が際立って、珠美は躰を反転させながら慌てて立ちあがった。そうしてみて、すぐほどけるくらいに境井の腕は緩かったのだと再認識した。見知らぬ人に躰を預けるほど軽い女だと思われたかもしれない。恥ずかしさに頬がかっと火照った。
境井はベンチにもたれたまま珠美を見上げた。夜なのに、眩しいかのように目を細める。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい?」
一礼して頭をもたげると、怪訝そうにしたおうむ返しが向かってきた。
「すみません」
目上の人に対する云い方ではないと気づいて云い直すと、境井は力尽きたような様で笑った。
「そうじゃなくて。何を謝られることがあるんだ? 謝るのはおれのほうだろう?」
緩慢そうながらも、どこか抜け目のなさを感じるのは神経質すぎるだろうか。
境井はゆっくりと立ちあがった。背が高いとは気づいていたが、立ち姿を遠目ではなくほんの傍にすると、一五五センチあるかないかという珠美からすれば、境井は首をぴんと伸ばさなければならないほど背が高かった。
珠美は思わず一歩下がる。
境井が苦笑いをこぼす。
「何もする気はない。ああ……すでにしたことは除いて」
少し考えこむようにして付け加えた様子は、おどけているように見え、珠美は無自覚に笑みを浮かべる。それが伝染したように、境井の苦笑いはわずかに変化して、くちびるが完璧な弧を描いた。
「家はどこ? って簡単に教えたらだめだな。とりあえず通りに出よう」
自分で駄目出ししながら境井は左腕を上げて、右手で少しだけ袖をずらす。
「もうすぐ十一時だ」
珠美は時計をしない。携帯電話を見ればわかるが訊くほうが早く、そうしようとした矢先、境井は先回りして答えた。
一時間くらい無言で境井といたことに驚く。それを短く感じたということの意味を考えてみる。が、答えが出ないうちに――
「行こう」
境井に背中を押されて向きを変えさせられた。スプリングコート越しなのにカイロみたいに暖かく感じた手はすぐに離れてしまった。
一歩後ろを歩いていると、境井はふと珠美を振り返った。
「名前を聞いてなかった。きみのことははじめて見た気がするけど新人? ほかのフロアから異動?」
「二宮です。……二宮珠美です」
珠美が姓だけ云うと、さきを待っているような雰囲気を感じ、フルネームを伝えると境井はうなずいた。
「部署はどこ?」
「マンション事業部です。まだ入社したばかりで、境井代理のことも知らなくてすみません」
「オーケー。おれは境井組――ゼネコンの会社だ、そこの建築部の設計課にいる。境井真守だ」
境井組は知っている。準大手の建設会社だ。そして、姓が会社の名と同じことに気づいた。珠美はびっくり眼で境井を見上げる。
その気配を感づいたかのように、歩きながら境井は珠美を見やった。
「夜はそう暖かくはない。風邪ひかせたんじゃないといいけどな」
珠美は首をかしげながら無言で問いを投げかけたつもりだったが、察してはもらえなかった。自己紹介は唐突感をもって終わった。
「大丈夫です。寒、くなかったから」
珠美がうなずきながら応えるのを見て、境井はふっと息を吐くのに紛らせて笑った。少し痞えただけでおかしなことを云ったわけではない。暗がりでも、珠美がわずかに眉をひそめたところを見逃さなかったのだろうか。境井は問うように首をひねった。
「宴会でもあまり喋らないし、痞えるし、なんだろうって思ってたけど。イントネーションがちょっと違うな。どこの出身?」
会社内は地方出身の人も少なくはなく、そのせいかこの一週間、大抵の人がスルーしてくれるなか、いまの境井のように訊ねられることもある。恥を掻いた気分になるが、いまは劣等感さえ抱いた。
「……長崎、です」
「云い方が悪かったらしいな。嗤ってるわけじゃなくてからかってる」
珠美からすればどっちも同じような気がしたが、境井の声のトーンはやわらかくて理解を感じる。真意はどうでもよくなった。
「就職でこっちに?」
「はい」
「独り暮らし?」
「はい」
「……って、そこは素直に答えるとこじゃないだろう。あまり知らない奴に喋っちゃだめだ」
境井の渋い口調に珠美はハッとしたが後の祭りだ。もとい、質問した境井自体が文句を云うことではない。
「それなら訊くことないと思います」
「そのとおりだ」
境井は何が可笑しいのか、どこか含んだ笑い方をした。
「何か……可笑しなことを云いましたか」
「いや、酒をはっきり断れてなかったけど、まるっきり引っ込み思案じゃないんだなって思っただけだ。意思を持って云い返せる」
「すみません。人を見てそうしているつもりはありませんでした」
「深読みしすぎだ。批難じゃない。人はちゃんと見るべきだ。さっきの話にも絡んで、二宮さんにとって、おれに関しては心配ない。おれ自身が云っても説得力はないかもしれないけど保証する」
妙に確信して聞こえた。わざわざ補足して強調するのはなぜだろう。そんな疑問を持つ。どんなふうに受けとめればいいのかわからなかった。
「境井代理はお酒に強いんですね」
しばらく黙ったあと、今度は珠美が話題を振ってみた。
そのとおり、境井はさっきまでの休憩でまったく立ち直ったらしく、足取りはしっかりしているし、喋るにも淀みはない。
「仕事をしだして鍛えられたからな。二宮さんは酒が飲めないクチ?」
「飲むのも、あのまわし飲みみたいな感じも苦手です」
「なるほど」
率直に伝えると、境井は可笑しそうな声でつぶやいた。ちょうど通りに出ると、「どこまで?」と境井が問う。
「あ、電車で帰りますから」
タクシーが並び、境井がその先頭へと向かいそうだと察して、珠美は慌てて制した。
「この時間まで付き合わせたんだ。東京はまだ慣れてないだろうし、タクシーで帰ってもらったほうが安心する。一緒に乗っていくほうがもっと安全だし、おれも完全に安心するとはわかってるけど、家まで知られたくないだろう」
境井はしかめ面で云い聞かせた。簡単には退かないぞという脅しを醸しだしている。
「……北千住です」
「オーケー。近くだな」
珠美を促してタクシーに乗せると、境井は身をかがめて車内に頭を突っこんできた。
身分証明が掲げられているというのに、境井は運転手にわざわざ名を訊ね、「北千住までだ。釣りはいらない」と一万円札を渡した。
それからほんの間近で境井の目が珠美へと向く。呼吸が触れ合いそうなほどの、あまりの近さにびくっと鼓動が跳ねる。
「じゃ、気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
車の窓越しに会釈をした直後にタクシーが動きだす。
最初のカーブに差しかかると珠美は後ろを振り向いた。こっちを向いているかどうかは見えない距離だが、境井は同じ場所に立っている。
ついさっき、ちょっとでも身動きすればキスができる距離だった。
酔いに任せて。そう云い訳が立つ。珠美はそんな不埒な後悔を抱いた。