ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第6章 Become one

8.最後にキスを

 送っていくという言葉にとどまらず、建留は泊まる気を露骨に示してダレスバッグとスーツを車にのせ、千雪のマンションに帰った。
 車中の話題はザイドたちのことがせいぜいで、会話が弾むとは云いがたい。話すことはたくさんある、きっと。けれど、何から話していいのかわからない。運転中という気が散るような要因がなく、面と向かって語り合いたい、そんな気持ちが千雪だけでなく建留にもあるのだと思う。
 明日の下準備をやっているうちに建留はバスルームに消え、千雪が入れ替わりに風呂をすませると、ソファに座ってタブレットを開いているという、いつもと変わらない光景に合った。
 これからのことを考えるとじっとしていられないくらい期待がふくらんでいくのに、実は夢を見ているだけじゃないかと思わせられるほど、建留の背中を見て千雪は拍子抜けした。

「忙しくなる?」
「ああ。向こうに出張することになるだろうな」
 金曜日の悪酔いの一因となったワインの残りとグラスを用意して、千雪はソファのところに持っていった。その間に、建留はタブレットの電源を落としてテーブルにのせた。
「食事中、飲んでなかったけど、飲む? ワインでいい?」
「まずは話だ」
 建留は千雪が手ぶらになるのを待って腕を取ると、強引に引っ張った。転がりそうになるのを、建留がお尻をすくって支え、千雪に自分を跨がせた。
 平然としていると思っていたのに、至近距離で見る建留の顔には渇望したような影がさしている。
「やっと」
 呻くように云ったひと言だけで、建留はなんらかの衝動を飲み下すように口を閉ざす。
「やっと……障害物はなくなった?」
「ああ」
「よかった」
「……それだけ?」
 建留は力尽きたように笑う。
「わからない。きっと、実感してる途中なんだと思う。長かったから。それに……あんまり喜んでたら、落とし穴がありそうで怖い気がしてる」
「幸せ慣れしてないな」
「慣れかけてた。でも壊れたから」
 建留はのどの奥でこもった音を立てると、千雪の頭を掻き抱くように肩に引き寄せた。
「建留も慣れてない。だから、壊れたこと、それはそれでよかったのかもしれない」
「いいはずない」

「ううん。わたし、どっちかっていうと不幸慣れしてるほうだったから、幸せが壊れるという気持ちを知らなかった。不幸は重なっていくだけで、きっと不幸が壊れたって後悔なんてしないの。だって、須藤家は幸せとは云えないことのほうが多かったし、高校生の頃のままがよかったなんて後悔はしてないから。でも、幸せが壊れるのは一瞬。自分の周りがすっぽり抜け落ちて動けなくなる。死別と離婚は全然次元が違うけど、建留が家族をなくしたときの気持ち……つらくて苦しくてきつくてたまらない、そんなふうに想像できたから。打ち明けてくれたとき、そういう思い、もう建留にはさせちゃいけないって思ったの。旭人くんが、建留のことをちゃんと見てやれってわたしに云ったことがある。その意味がちゃんとわかった。建留は、わたしは何があっても建留の傍にいるべきなんだって思わせてくれた」

「千雪」
「うん」
 返事をしても建留は長い時間、何も云わなかった。ただ、千雪を締めつけるように抱いていて、それは千雪がそうしているように、いま感じる、あらゆる貴重さを心だけでなく躰にも刻みつける儀式みたいなものだった。
 鼓動と体温と、そして呼吸と。重なり合う心地よさが浸透していく。
「そう思うんならすぐ一緒に暮らすべきだ」
 建留はわがままに主張した。
「建留、披露宴するのに準備期間がいるって。それで、ちょうどいいって思ってることがある。今度の結婚はおかえしに建留の誕生日にしたい。いい?」
「おかえし?」
「最初の結婚のとき、栞里が云ってた。忘れることも変えることもできない誕生日に結婚するのは、調子のいい人か、覚悟をした人かって」
「おれはどっちだ?」
「ちゃんとわかってる」
「四年まえも二年まえも、千雪はわかってなかった」
「……わかってなかったってことはわかってる。だから、今度はわたしのばん」
「千雪はどっちなんだ?」
「調子がいいことはわかってる」
 建留の笑い声が背中から響いてくる。

「けど、躰、大丈夫なのか? 五カ月さきだし、ウエディングドレスは特注しないとだめだろう」
 建留のその発言は千雪には謎だらけだった。なんのことかさっぱりで、一瞬思考が止まり、それから千雪は息を潜めて考えだした。そうしたのは、不用意なことを云えば触発しそうだと本能が察したからだ。けれど、一向に謎を解く鍵が浮かびあがってこない。
 不自然な沈黙に気づいたのだろう、「千雪」と呼びながら建留がふたりの躰を離す。
 建留は千雪の顔を見て、話が通じていないと察したようだった。
「子供……」
 建留はためらいがちにつぶやいた。
「……子供?」
「……おなかにいるんじゃないのか?」
 千雪はびっくり眼で建留を見つめた。千雪のはかりごとは見透かされていたようだ。
「勝手だったって反省してる。本当のおばあちゃんと同じことをしようとしてた。別れなくちゃいけないなら、せめて建留の子供がほしいと思ったから。でも、そんなわがままな気持ちだったから、赤ちゃんは来てくれなかったのかもしれない」
「……来てくれなかった?」
 千雪の言葉を繰り返した建留ははっきり顔をしかめていて、直後、千雪はハッと気づいた。建留が気にしているのは、赤ちゃんがいることではなく、いないこと、だ。
「……いる、って思ってた?」
「洗面所に検査薬があった」
 ついさっきまでいたパウダールームを思い浮かべると、確かに妊娠検査薬があった。不要になって捨てようかどうしようか迷ってそのままにした。建留と別れることになれば完全に不要だし、建留と生きていこうと決めてしまうと、いつだって堂々と病院に行けるからあえて持っておく必要もない。いまとなってはどうでもいい迷いが建留を誤解させるとは思っていなかった。

 千雪は唖然として腕が緩んでいる隙に、建留の脚の上からおりた。なだめるには時間と距離が必要だ、そう直感した。
「……開けてなかったでしょ。使うまえにわかったから」
「なんで見えるとこに起きっぱなしにするんだ」
 わたしの家なんだからわたしの自由だ、そんな主張ができる雰囲気ではなく、ひとまず千雪はソファとテーブルから離れ、さらに建留と距離を置く。
「……だめだったって動揺してて、捨てるか迷ってそのまま忘れてたの。建留が来るとは思わなかったし。赤ちゃんがいたら、いまならちゃんと云ってる」
「そうなのか? いつも、肝心なことさえ、ちゃんと云わないから、今度もそうだろうと思ってたんだ」
 建留は区切りながら吐き捨てるように云い、荒れ模様の気配だ。
「ごめんなさい」
「間抜けすぎる」
 どっちが、ということこは聞かないでおいた。
「おつまみになるもの探してくる」
 逃げる口実をつくって、うんともすんとも発しない時間をやりすごしていると。
「退職届は撤回だ。いいな」
 傲慢な云い方よりも、建留が知っていることに千雪は驚いた。

「だれから聞いたの?」
「西崎会長だ。子供ができたんならって思ったけど、そうじゃないなら千雪にはやっぱり監視が必要だ。会社に縛っておけば無責任に放りださないだろう? 勝手にいなくなることはないし、千雪が教えなくても何かあれば噂が出回ってくる」
「勝手にいなくならない」
「さっき、おれのまえからいなくなるつもりだったって白状した」
「そうじゃなくて、実家に帰ろうとしてただけ。そうしたら建留も心配しなくてすむと思ったから」
「子供ができてたら?」
 建留は鋭くつついてくる。嘘を吐こうかと思ったものの、見破られるのは間違いなく、これからさき千雪の言葉を嘘かもしれないと疑わせたくはない。
「重荷になりたくなかっただけ……ごめんなさい」
「悪かったって思うなら……来て」
 その口調を例えるなら猫撫で声だ。
 企みごとがあって、もしくは本性を隠していて、建留が危険地帯と化しているのは明らかだ。
 けれど、どちらかというと千雪が仕事をすることを渋っていた建留が、考えを逆転させるほどいなくなるのを心配をしている――そう思うと、自分の宣言を証明するためにも云うことを聞かざるを得ない。いや、やむなくではなく、証明したい気になる。
 建留を追ってベッドルームへ行くと、剥きだしになっていく背中が見えた。動きに伴ってしなやかに波打つ躰は、飴色(あめいろ)の艶を纏っていざなうように見えた。建留は脱いだシャツをチェストの上に放り、ベッドの脇に立って千雪を振り向く。

「脱いで」
 やさしさに欠けた要求だ。いや、命令か。
 千雪が自分から脱いだことはなく、ためらっていると、建留はわずかに首をひねった。爪を立てて飛びかかってきたうえ服を引き裂くんじゃないか、そんな気配は思いすごしだろうか。
 おそらくは、結婚が壊れたあの日がきっかけになって、ただやさしいということから変化していった建留は、いまに至ってはたまにだが強引に事を運ぼうとする嫌いがある。
「ドールになりきればいい」
 からかうような口調は本物ではなく見せかけだ。
 千雪は一つ息を呑んで、ルームウェアの前ボタンを三つ外す。肩をはだけて、膝丈のワンピースを床に落とした。暖房がきいているから寒くはないのに、ぷるっと千雪の躰をふるわせたのは建留の眼差しだ。
「下に何も着ていないとか、ドールらしからぬ振る舞いだな」
 おもしろがること半分、責めているように感じなくもない。
 加納家を出た帰り道からずっと、混乱状態といっていいくらい、結婚していた頃のことを思い浮かべて、“いま”があることが不思議で――そんなふうにいろんなことを考えていて、ただ単に着替えの下着をバスルームに持ちこむのを忘れただけだ。
 そして、リビングに戻って平然とした建留の背中を見たら、ちょっとした挑発的な気分にそそのかされた。建留の云うとおり、千雪らしくない。けれど。
 そうなるくらい、きっと建留といられることにはしゃいでいる。
 そう云おうとした矢先、建留は自分の口もとに人差し指を立てた。
「じっとして」
 そう云いながら、建留は見せつけるようにゆったりとした様で、自分も服を脱いでいく。そうした動作がいちいちしなやかに見えて、優雅に躰を揺らして歩くレオパードを彷彿とさせる。

 向かい合ったふたりの裸体は対照的だった。千雪の中心に秘められた空洞と、その空洞を埋めるべく存在する、建留の無防備に晒された熱。どちらがさみしさに飢えているだろう。対照的だからこそ、融け合えば満ち足りる。

 建留は三歩踏みだして千雪の躰をすくった。
 ベッドに寝かせられると、膝を立てられて建留が間におさまる。
「千雪はドールだ。何も感じない。何も云わない。自分では動けない」
 何をしたがっているのか、呪文を唱えるように建留は云った。
「いい?」
 千雪がうなずくと建留は笑う。
「動くなって云っただろう」
 伸しかかってきた建留は千雪の頬を挟み、緩く閉じた口をふさいだ。吸いつくように触れたあと離れ、また口づける。くちびるを舌でたどったあと、すき間から口内に忍びこんだ。
 千雪は応えたいのを堪え、建留にされるがまま受けとめる。
 そのうち気づいた。ドールでいることはたまらなく感覚を敏感にさせる。応えているときはそうすることに無我夢中になる瞬間があるけれど、それを禁じられたいま、ただされることに集中してしまって与えられる刺激が増幅している。
 長いキスのあと、胸のふくらみをしぼるようにくるまれたかと思うと、とうとつに胸先を含まれた。それだけで躰の奥がひどく潤んだのがわかる。それから、しつこいほど建留は胸先に絡んでいた。建留の熱い口のなかで、摩擦熱が生まれ、そして表面だけではない、内側からも熱が発生して、胸は火傷しそうなほど火照っている。
 躰のふるえは止められず、発しそうになる声は呑みこまなければならない。眩(くら)むような感覚のなか、建留の手は脚の間におりた。快楽を得ている証しを確かめたあと、ちょっと弄られただけで粘り気のある水音がする。
「ドールは感じないのにな」
 含み笑いが聞こえ、かと思うと建留は中心に腰を押しつけ、千雪の空洞を一気に埋め尽くした。

 んっ。
 強引な行為は千雪の躰を抉るようで呻き声は抑制できなかったが、建留が漏らした呻き声と相殺された。
「ドールらしくない。躰のなかは空洞のはずなのに絡みついてくる」
 ドールになるなど、もともとが無理難題だとわかっているくせに、建留はなじるように意地悪を吐く。そうかと思うと、獲物を捕らえたみたいに口を歪めて悦に入った顔をする。
「魂、自分で手に入れる? もしくは。おれのためにつくられたドールだ。おれが触れれば、自然と魂のスイッチが入る?」
 もうドールのふりはしなくていいらしい、そんなふうに判断したのに、腕を上げかけたとたん、建留は手首を捕らえ、それぞれ千雪の肩の脇に張りつけた。そして、心もとなくなるくらい抜けだしそうに腰を引いたかと思うと、抉じ開けるように奥をつつく、建留はそんな律動を始めた。
 こんな形でしか得られない独特の快楽が襲ってくる。最奥で受けとめるたびにそこはわなないて、建留の慾を刺激した。身ぶるいするような慾の動きに千雪の感覚はさらに煽られる。そんなループに嵌まり、そう時間もたたないうちに建留の律動は激しさを増してきた。いつもなら千雪の快楽を優先するのに、いま建留はまったなく自分を優先している。
 たった一度だけ、そういうことがあった。

 頭の片隅に記憶が還ると――
「た、つる……ひに、ん……」
 無意識に訴えたかもしれない。
「おれの、しるし、だ」
 同じ言葉が返ってくる。
「でも……っあ、んっ」
 建留は抉るような動きに変え、千雪の弱点を摩撫してくる。もう、果てに飛ぶのも時間の問題だった。
 溢れそうな蜜が掻き混ぜられる音を否応なく聞かされ、建留の、堪えきれない、そんな呻き声を耳にしながら、千雪は快楽に酔う。
 ほかのことはどうでもいい。ただ、建留から授(さず)かる、熱に浮かされたような心地よさに浸っていられれば。千雪はそんな自分の貪欲さに負けた。
 感覚に任せ、一気にのぼりつめると、押さえつけられた躰はそれでもはねた。躰の奥から怖いほどの痙攣が派生して、その瞬間に建留の慾も連動した。
 くぐもった呻き声と同時に爆ぜた建留のしるしは、焼き印を打たれているかのように熱い。
 互いの躰は余韻でひくつき、動く体力さえままならない。荒い呼吸は空(くう)で絡み合う。

「千雪」
 声にならない声でつぶやき、建留は力尽きたように千雪の躰に覆いかぶさった。
 建留ほど回復力のない千雪は、やはり、あの日のようにきつく抱く腕に躰を任せた。
「おれが無理やり抱いた日。子供ができればいい、そう思った。そしたら、引きとめられるから」
 建留は呻くように打ち明けた。千雪は驚いて気だるさのなか、ゆっくりと目を開ける。
「建留」
「ガキっぽい思考力だ。そんなことに賭ける術しか思いつかなかった。千雪をまえにすると時々……いや、ほぼずっとだな、ひどく自分の無力さを感じる」
「あの頃は、わたしが建留の気持ちを考えてなかっただけ」
「そうだろう? けど、千雪は、子供ができたら消えるつもりだった。おれとはまったく逆の考えだ。どうすればいい?」
 建留は千雪に問うというよりは自分に云い聞かせるようだ。おまけに、建留の思考回路はうまく連携していない。支離滅裂だ。
「どうもしなくていい。状況がまったく違うことだから」
 深いため息が千雪の肩を湿らせる。

「式は六月でもいい。けど、入籍はさきにすませる。落ち着かないから」
「建留」
「何?」
「何か足りないと思わない?」
「……何が?」
 欲張りだと責められるかと思いきや、建留の声は深刻そうにしている。
「プロポーズがまだ。まえのときもそうだったけど」
 そう云うと、建留は吹くように笑って、肩を小刻みに揺らした。
「千雪は何も云わないくせに要求は一人前だ」
「建留」
「もうしてる」
「……いつ?」
「離婚した日に」
 千雪はその日を思いだしてみる。加納家、車のなか、そしてここ。記憶をたどっても思いつかない。
「云ってない」
「云った。千雪はちゃんとそれに応えた」
 結婚してほしい、とか――離婚した日にそんな言葉を吐くなどあり得ず――そのかわりになるような言葉も見当たらず、それなら、御方になりたい、最初がそんな言葉で始まったように、別の言葉があるのだ。
 そう考えると、自ずと浮かびあがる言葉がある。それは、ずっと違和感を持ったまま千雪の心底に住みついていた。

 最後にキスを。

「……まわりくどいし、意味もわからない」
 建留は上体を浮かせ、ベッドに肘をついた。
「千雪」
 わずかに笑みを浮かべた顔には、笑みが意味するものとはちぐはぐに、足掻くような憂いが宿っている。
「うん」
「加納家に来た頃は、自分のことさえ傍観者のように見ていた気がする。云われたことをやっていればラクで、いつ終わってもいいと思っていたかもしれない。そういうときに千雪はお母さんに連れられてやってきた。おれよりずっと小さくて、頼りなくて、見ていないと危なっかしくて……あのときに、漠然と思ったんだ。おれがいなきゃ、って」
「うん」
「最後にだれに何を望むのか。おれが千雪に最後を望んだように、千雪もおれに最後を望んだ。これからさきも、たとえ明日がなくなっても、おれたちの気持ちに終わりはないはずだ。おれは、千雪の魂のなかにいてこそ生きてる」
 千雪のくちびるがゆっくりと弧を描き――
「千雪がいなければ――」
 建留は言葉を途切れさせた。
 きっと気持ちは同じだ。
「わたしも、建留のなかにいるから生きているし、だから最後がやってくるのは一緒」
 呻き声が漏れた直後。

 ・・・ ・・。

 建留の口から突くように飛びだした。

 ――わたしはあなたのなかで死にます。
 あなた次第でわたしは生きもするし、死にもするでしょう。
 わたしはあなたに生かされているのです。

 それほど――。

 愛してる。

NEXTBACKDOOR