ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第6章 Become one

7.つぐない

 メープルシロップでキャラメリゼしたフレンチトーストはただでさえ食をそそるのに、いまの時間帯、ちょうどおなかが空いているから、お喋りと相まって口を動かすのに忙しい。トッピングはフルーツとチョコレートソースの二種類を頼んだのだが、四人でつつけば完食するのもあっという間だ。
「それじゃあ、うまくいったんだ」
 祖母たちの話は打ち明けていないが、建留と暮らしていくと決めたことを千雪が話すと、栞里は無意識にといった様で漏らした。自分のことのようにほっとしたのが見て取れて、千雪は笑みを浮かべる。
「うまくいったって云うには早いと思う。いつになるかわからないし。でも、心配してくれてありがとう」
「あ、なかなか見れない千雪の笑顔。ある種、武器になってるよね。やった! って思っちゃう」
 美耶がからかい――
「建留もきっとやられてるわね」
 沙弓が追い打ちをかけると、千雪はコーヒーカップを口につけるのにかこつけて笑みを引っこめた。
「でも千雪、すごいことになってるんだからね」
「どういうこと?」
 栞里の発言に美耶が身を乗りだした。
「アラブの皇子なんてめったにお目にかかるものじゃないし、だから、大多数の人が社内に残ってたわけ。でもって、堂々と再婚宣言。結婚ならまだしも再婚だよ。みんな、頭のなかパニックになってるんじゃない?」

 そのとおり、建留と一緒に社内に戻ったときはざわめいていた。ふたりが見えると、ぴたりと話はやんだのだが、そのしんとしたなかで、何を思ったのか「再婚、おめでとうございます」と口にしたのは小泉史也だった。
「まだしてない」と建留が口を歪めながら応じたことで、これまでの様々な噂が一掃された一方で、再婚という言葉に今度は別の憶測が流れそうな気配だった。そして、「小泉、さっきは助かった。礼を云う」と続け、千雪は建留の云う忠犬志願者が史也だったことが判明した。
「上に行けますか」
「おれが決めることじゃない。君個人の努力次第だ」
 意識的なのか無意識なのか史也の発言は、おそらくは建留の思惑に加担することになっている。小泉社長の立場がどう転換されるにしろ、公平さが示された会話のもと、加納家とはなんら確執(かくしつ)がないとまえもって小泉家の体面は守られたことになる。

 今日は建留が付き添っていたからなんの詮索も受けなかったが、栞里の報告からすると、やはり明日はなんでもないふりをするのに苦労しそうだ。千雪はため息を漏らしながら肩をすくめた。
「ザイドに口封じをしてなかったから」
「建留はわざとそうしたかもね」
 沙弓の見解は千雪も思っていることだ。美耶が吹くように笑う。
「だよね。アラブの要人が公然と祝福するんなら、ふたりを裂くわけにはいかないじゃない。公認かぁ。しばらくたいへんそうだけど、よかったね、千雪」
「うん。ありがとう」
「ほんと、よかった。千雪、髪はやっぱりその色が千雪らしいよ」
「そうね。建留にとってもこだわりがあるみたいだし」
 沙弓は栞里に同意したあと、意味ありげに付け加えた。だれもが興味を持ち、逸早く栞里が「沙弓さん」と問いただす構えを見せた。

「こだわりって?」
「大学のとき、コンパで建留がひどく酔っぱらったときがあって……」
 沙弓はちょっとためらうようにしたあと、「時効だと思うし、いいわよね」と茶目っ気たっぷりにつぶやいてまた続けた。
「ここだけの話。告白されて付き合ってたカノジョのこと、一緒にいても疲れるだけだってフっといて自分が荒れちゃうってどうなのかと思ったけど、そのときに、女の子を好きになったことないのって訊いてみたの。モテるのにだれとも付き合ったことなくて初カノだって云ってたし、もともとストイックぽかったし、興味あるじゃない? その後を考えてもわたしの知るかぎり、カノジョがいたのはその一回きり。建留は普段からそういう話をまったくしないから、酔っぱらってるし、もしかしたら何か聞きだせるかもって思って」
「それで?」
 千雪のかわりに栞里が早く早くと急き立てた。千雪は少し複雑な気分になりながらも、建留のことなら知りたいという欲求は常にある。
「好きとかわからないって。でもそのあと、『守ってやらなきゃいけない』ってうわ言みたいに云うからだれのことって訊いたの。建留はすぐダウンしちゃって、髪も目もゴールドなんだってことしか聞きだせなかった。わたし、千雪ちゃんに会うまでてっきり外国の人だって思ってたわ。加納家だったら国際交流があって当然だから」
「わぁ。建留さんの初恋って千雪なの?」
「かもね。あとで聞いたら、たまに思いだすくらいだって話したがらなかったけど。千雪ちゃんが来てから建留はいつも必死って感じだし、千雪ちゃん限定のカメリアコンプレックスかな」
「カメリアコンプレックス?」
「簡単に云えば、守りたい病」
「ぴったり!」
 カフェはほぼ満杯だが、周りの迷惑になりそうな栞里の叫び声があがった一瞬後には、はばかることなく三人とも笑いだした。

「年甲斐もなくなんだ?」
 突然、背後から聞き間違えようのない声がして振り仰ぐと、建留がいた。
 笑い声がやんだかわりに好奇の眼差しが向く。このテーブルの三対(つい)の目のみならず、ちらほらといる業平グループの社員たちの視線も、ふたりは一手に引き受けることになった。
「終わった?」
「ああ、片づいた」
 まだ口外することではなく、栞里たちの手前、建留は簡潔なひと言しか口にしなかったが、片づく、という言葉から小泉社長の問題が解決できたことを察した。
「じゃあ、プロジェクトはオッケーですか」
「うまくいった。商事とタッグを組んでやっていく」
「忙しくなりそうね。結婚……じゃなくて再婚の準備もしなくちゃいけないだろうし。今度はちゃんとお披露目やるんでしょう?」
「そのつもりだ」
 沙弓の問いに建留はためらわず答えた。お披露目ということまで考えていなかったから、千雪はちょっと驚いた。そうするのなら、やはり茅乃の気持ちを置いてけぼりにはできない。
「すぐ帰る?」
「ああ。松田さんがじいさんと父さんを乗せて、そこで待ってる」
「わかった」
「わたしもお迎え行かなくちゃ」
 沙弓が云うと、栞里たちも帰ると云いだした。
「今日はおれのおごりだ」
「あ、もっと頼んでおけばよかった」
 と、ずうずうしく云った栞里の発言に笑えるくらい、問題の一つが解決したことに安堵しているのだろう、千雪のなかで期待は予感に変わっていった。

    *

「おまえには理不尽な思いをさせてしまった。何を云っても云い訳になる。そう思いこんで、私は茅乃と話すことを怠っていたようだ」
 車のなか、後部座席で千雪の右隣に座っている滋は沈みがちな声で語った。
「……云い訳した?」
「呆れていたがね」
 そうなるほどに、滋の云い訳を茅乃は聞き遂げたのだろう。
「おばあちゃんのこと、ひと目惚れだった? おまけに初恋?」
 滋は答えず、見ると笑みを浮かべていた。おそらくそのとおりなのだろう。
「おばあちゃん、きれいだから」
「きれいなだけなら、茅乃の姉も同じ顔をしていた。だが、私は茅乃と姉を見間違えたことはない」
「……それもちゃんとおばあちゃんに云った?」
「呆れさせたと云っているだろう」
 素直じゃない答えで、反対側の隣に座った建留を見ると口を歪めて肩をすくめた。助手席では、孝志が失笑を漏らす。
「茅乃とはじめて会ったのは政財界のパーティだった。仁條家の財産が底をつきそうだという噂は知っていた。華族というプライドを切り捨てられず、表面上を取り繕(つくろ)ってきた結果だ。永廣さんの家も同じだった。結婚した当時、戦後まもなくの創業から十年、業平は高度成長期の波に乗って急成長していた。茅乃からすれば、買われた結婚に感じたかもしれん」
「おじいちゃん、何万人て人を動かしてて、末端まで考えるなら億の人をきっと動かしてるのに、おばあちゃん一人をどうにもできなかったの?」
「人の感情とは厄介だ。人を相手にすると――ことに、自分にとって重要であるほど肝心なところで臆病になるのだろう」
 今度はだれも笑わなかった。
「私も同じですよ。母のせいばかりではない。どう取り持てばいいのかわからなかった。旭人の母親のことは見殺しにしたような気がしている」
 後悔を滲ませながらそう云った孝志だけではない、感情が厄介者なのは、千雪も身に沁みている。
「千雪。かといって、おまえの祖母をかまった気持ちに、情としての下心が何もなかったと云ったら嘘になる。ただ、私にはすでに茅乃がいた。男とはずるい」
 実の祖母がどんな思いでいたのか、千雪にわかることはないが、滋のそんな気持ちは伝わっていたのかもしれない。だから、きっと滋に願えたこと。建留の子供を、とそんなふうに同じことをしかけていた自分に重ねてみると、卑怯なことでも祖母を責める気にはなれない。
「おじいさん、男をひと括りにしないでください。おれは違いますから」
 建留が断固とした口調で否定すると、孝志は「私は、大口は叩けないが」と応じ、車内は苦笑いが広がった。


 加納家に着くと、いつもなら七時の食事をお預けにして茅乃たちが待っていた。旭人も千雪が寄り道している間に帰っていたようだ。
 茅乃は、土曜日のしめやかだった様子は窺えず、いつものぴんと背筋を伸ばした姿に戻っていた。刺々しさが露骨にあるわけでもないが、千雪の挨拶に応じた声は厳格さが滲みでていた。
 ダイニングの席に着いてから、だれが千雪に来てほしいと云ったのか、建留に訊きそびれていたことに思い至った。
 かつて日課だった加納家の食事に加わるのは、当然ながら離婚して以来のことだ。千雪の席が建留と旭人に挟まれた席というのは以前と変わらず、滋たちが座る場所も変わらない。
 変わったのは、息づまりなほど静かだった時間が、団らんの場になりつつあることだ。しかも、きっかけは、「会社の行く末はどうなったのかしら」という茅乃の問いかけだった。

「社長の椅子をオーダーするつもりですよ。煙草の臭いはいただけない」
 本気半分、ジョークを含んで孝志が遠回しに答えると、茅乃は一つ息をついた。
「よかったわね」
「へんに絡まれないかしら?」
「大丈夫だ」
「弱みは握ってますよ。おばあさまのおかげです」
 華世の疑問に答えた孝志を建留がさらに補った。
「加納家を貶(おとし)めようなどと言語道断だわ」
 茅乃ははねつけるように云い放った。
 加納家に嫁いできたとき茅乃の意思がそっちのけであったにしろ、仁條家に帰るわけにはいかず、そして時間がたってその帰る場所はなくなってしまった――そんななかで茅乃のなかに培われたのは、加納家の一員という意識だけだったかもしれない。
 加納家にふさわしくなりなさい――結婚するときに、その真意がどうであれ、茅乃から千雪がまず云われた言葉だった。
「野心家の典型的な失墜パターンだな」
 旭人はとことん嘲った口調だ。
 それに対してというよりは、会議のときのことだろうか、何か思いだしたような様で、建留は顔をわずかにしかめ、そして吐息を漏らしながら首を振って、同時に話題を一掃した。
「ザイドたちを帰国まえに家に招きたいんですが」
「ぜひお会いしたいわ。いつがいいかしら」
「帰国直前、お茶の時間を一緒にどうかと思っています」
「かまわないわ。アラブの習慣てどうなのかしら?」
 それから、いまさらのように建留の中東生活についての話に花が咲いた。
 千雪はほとんど聞き役にまわって食事を進めた。
 会話が飛び交うというにぎやかな食卓がどんなに心地よくさせるのか、千雪は忘れていた。といっても、須藤家でにぎやかにしてくれたのは麻耶一人だった。建留とふたりの食事はにぎやかとはいかなくても、うれしくて、お喋りに湧く時間は平穏で――たぶん幸せを感じている。
 あれだけ窮屈だった加納家の食事の時間がいま居心地が悪く感じないのは、茅乃と本音を云い合えたからかもしれない。

「千雪さん」
 会話が一段落したとき、ふいに茅乃から呼ばれ、千雪は慌てて姿勢を正した。怖いとは感じなくても、そうさせる声音だった。
「建留」
 茅乃は続けて建留を呼び、「はい」という返事を受けてまた千雪に目を戻した。
「今度はきちんと披露宴をやるべきね。日取りはふたりで決めなさい。準備があるから、すぐにというわけにはいかないわ。そこは考慮してちょうだい」
 それは出し抜けであり、そして、きっと準備されていた、茅乃なりの、いや、茅乃らしい承認だった。
 しんと静まったなか。
「おばあさま、ありがとうございます」
 建留の言葉に千雪はハッとする。思いがけなくて、自分が耳にしたことは本当に聞いたことなのかも自信がなくなる。千雪は、おずおずと口を開いた。
「おばあちゃん……ありがとう」
「千雪さん」
「はい」
「あなたのおばあさまを許したわけではないわ。わたしから建留への償いよ」
「……はい」
 たったそれだけの返事をするのにも詰まりそうになった。建留の手がなだめるように千雪の背中を二度、軽く叩いた。
 おめでとう、という華世のお祝いの言葉を皮切りに浅木まで、全員からの祝福のもと、うれしいというはしゃぐような気持ちよりは、よかった、とそんな咬みしめるような気持ちで実感していった。


 加納家に突然の来訪者があったのは、食事が終わったときだった。九時近くになっていて、人の家を予告もなしに訪れるにはどうかと思う時間だ。
 そして、浅木から来客が瑠依だと知らされると一様にため息が漏れた。付き添いがいるという。
「通す必要ないわ」
 瑠依から指名を受けた茅乃はそう云って席を立った。建留がそれに続く。
「ボディガードです。まさかとは思いますが」
 茅乃はため息のような笑い声を漏らした。
「口実としてはできてるわね。千雪さんも盗み聞きを許してあげるわ」
 許可が下ったといえども盗み聞きとは聞き捨てならないが、好奇心以上に確かめたい気持ちはある。
 建留と茅乃が廊下へ出ていくと、旭人が千雪の腕を引いて立たせ、玄関に近いリビングへと中ドアを通って連れていった。廊下側のドアを開け放ち、ここにいろ、と千雪にドアの内側を手で示し、旭人は廊下に出て待機した。

「おばあさま! わたしと建留の結婚の話、進めてくださるんですよね?」
「こんばんは、瑠依さん」
 建留がそうしていたように茅乃も呼び方は変わっている。
「こんばんは……おばあさま」
 挨拶を抜かしたことに気づいたらしく、戸惑いがちに瑠依は応じた。もしくは、茅乃の変化に気づいたせいか。
「こんばんは。加納室長代理、夜分、突然にすみません」
 別の声がした。瑠依の付き添い人は史也だ。
「こんばんは。たいへんだな、おまえも」
「なんなの、それ?」
 心外だという声が廊下を通って響く。
「瑠依さん、今後、あなたの加納家への出入りは禁じさせていただくわ」
「……。おばあさま! どういうことなんです?」
 絶句した気配のあと、悲鳴のような瑠依の声が茅乃を問いただした。
「瑠依さん、あなたはわたくしを裏切ったのよ」
「なんのことですか!?」
「いちばん秘密にしておきたかったことを、明らかにプライベートなことを、ペラペラ人にお喋りしてしまう人は信用できないの。あなたを嫁にと思ったことはあるわ。でももう、加納家の、ましてや建留の妻なんて以ての外だわ。婿探しはほかでやってちょうだい」
「そんな! わたしは千雪ちゃんを遠ざけようとしただけだわ! おばあさまだって千雪ちゃんのことは……!」
「いいえ。自分のために、でしょう? わたしと千雪さんに確執があったのは事実よ。でも、それとこれは別のこと。千雪さんにさえ明かさないほど触れたくないという私の気持ちを、あなたは軽視したのよ。だれにお喋りしたのか、それは問題ではないわ。重要なのは“お喋りしたこと”なの。いつまたあることないこと触れまわされるかと思うと、おちおち眠っていられない。ぞっとするわ。これまで仲良くできていたと思っていたのに残念ね。もうお帰りなさい」
 ちょっとした身動きもできないような沈黙がはびこった。

「瑠依ちゃん、勝ち目はないよ。会長夫人の懸念はもっともだし、それを招いたのは瑠依ちゃんだ。もういいだろ。帰ろう」
「ひどいわ!」
 地団駄を踏むようなヒール音が遠ざかる。その実、叫び声は怒りよりも悲鳴に聞こえた。
「変人の集まりなんだから。二度と係わりたくないわ。こっちから願い下げよ……」
 独り言が続くと、奇妙な沈黙が蔓延した。
 すぐ近くで吐息が聞こえ、旭人を見上げると、げんなりと侮蔑を込めた様で首を横に振った。
「すみません。伯父は止めたんです。ですが、じかにあきらめさせてもらったほうがいいと思って連れてきました。お騒がせして申し訳ありません」
 史也の謝罪にため息が応じた。
「野放しにしすぎだろう。小泉社長も、娘からこれ以上、足を引っ張られるようなことにならないといいけどな」
「伯父もバカではありませんから……と期待してます。では失礼します」
「ああ。気をつけて帰れ」
「ありがとうございます」
 玄関の扉が開閉すると、足音が近づいてきた。リビングまで来て足音は止まる。

「千雪さん」
「はい」
「建留を幸せにしなさい。それが、あなたのおばあさまのわたしへの償いよ」
「はい……ありがとうございます」
 千雪が深々と頭を下げて顔を上げると――
「人前で泣くべきではないわ。いつも悠然と嫋(たお)やかに。それが唯一、あなたが加納家の娘としての合格点だから」
「……はい」
 建留の手がまた背中をなだめる。
「おばあさま、ひどいことを口にしました。おばあさまのせいにするのは僕の逃げ道でした。すみません」
「将来、孝志の跡を継ぐのなら、もっと大人になることね」
「はい」
「わたしが云えた義理ではないけれど。旭人」
 茅乃はいきなり矛先を旭人に向けた。
「……はい」
「建留の家出を勧めた責任は取るつもりよね?」
「どういうことですか」
「加納家を絶やさないようにしてちょうだい。そういうことよ」
 茅乃はつんと顎を上向けて立ち去った。
「冗談じゃない。勝手に夢見てればいい」
 旭人は、茅乃が何を云いたいのか察すると呆れ半分、子供っぽくつぶやいてダイニングに戻っていった。

 ふたりになると、建留は肩の荷がおりたようなため息をつく。
「送っていく」
「うん」
 千雪が目もとに手をやると、それよりさきに建留の親指が涙を拭った。
「建留」
「何?」
「旭人くんのお母さんのことは別に考えてほしいんだけど……。瑠依さんは、相続のこと、仁條家の加納家乗っ取りって云ったけど、おばあちゃんはずっとまえから仁條家にはもうこだわってなくて……建留が本当は加納家になじめてなかったことに気づいてたのかもしれない。加納家家族の一員なんだって、財産を継がせることでこの家に根づいてくれればって……復讐の道具じゃなくて、そんな願いがあったんじゃないかって……わたしは思うの。ややこしい建留の養子縁組も、世間体のためじゃなく、世間から建留を守るためだったかもしれないって。間違ってる?」
 しばらく建留は黙りこんでいた。その瞳には、自分のことを告白してくれた夜に見せた、迷子のように戸惑う少年がいる。そして――
「千雪に助けられたのはばあさんだけじゃない。おれもだ。ありがとう、千雪」
 いつも泰然とかまえた面持ちに、少年のような照れた笑みが宿った。

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