ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第6章 Become one

6.フェードアウト

『今日、加納の家に来てほしいそうだ。仕事が終わるまで待っててくれ』
 建留から千雪にそんなメールがあったのは、週が明けた月曜日の昼休みだった。文面を見るかぎり、加納家へ行くのは建留ではなくほかのだれかの意思だ。
 加納家に行く不安よりも、二日ぶりに建留の顔を見られるうれしさのほうが勝るかもしれない。
 千雪が見越していたとおり、建留は土曜日の夕方から日曜日中、プロジェクトのことでずっと出ずっぱりだった。
 千雪は、自分が来なくてもいいと云ったくせに電話の声だけでは足りないと思ってしまう。建留がなじったような余裕なんて欠片もない。来てと口にするには、性格が邪魔をして、もしくは幸いして、かろうじて云わないですんでいるけれど。
 日曜日は、商事の貴大たちも同席したうえで建留とザイドはプロジェクトについての最終確認を行い、その夜、相違もなかったと聞いて、千雪は自分が携わっているかのようにほっとした。
 そして、月曜日。千雪が出社するよりも二時間も早く会社に出た建留は、朝から終業時刻のいまになっても会議詰めだ。聞こえてくる話では、会議の途中、分散して個々のミーティングに入ったあとまた合流する、そんなことが何度かあったようだ。商事を交えた会議は、千雪が考えていたよりもずっと具体的なことに及んでいるのかもしれない。
 ザイドのサプライズは、同伴者というのが父親、つまりジアイマーラの首長でありUHEの大統領であるアムジャドであったことだ。
 そんな地位にある人が、海外の一企業を訪れることなどめったに見られない。空港での出迎えは政府関係者もいたらしく、ザイドたちは、明日には政府との会合を控えているという。業平訪問は公式ではなく内密のことだ。その実、主目的は政治的なことではなく業平とのビジネスであり、何よりも優先してのことだから、さすがに業平一族もぴりぴりと神経を尖らせている。
 社内の雰囲気も、要人というにとどまらず一国の君主の来社とあって、一日中いつもと違った緊張感を孕(はら)んでいた。
 千雪はそろそろと帰る準備を始めた。ひとまず、栞里たちとカフェに寄ることになっている。建留が終わるまでの時間潰しだ。彼女たちには心配をかけているから、はっきりしていないまでも落ち着きそうなことくらいは話しておきたいからちょうどよかった。
 パソコンの電源を落としたところで携帯電話が振動し始め、見ると栞里からで、『皇子さまが巡回中。そっち行くよ』というメッセージだった。
 ザイドのことだ。考える必要もなく見当をつけると、一分たったかどうかといううちに社内階段の出入り口の方向からさざめきが湧いた。

 ザイドが自然と人を立たせるところは、生まれながらにして備えた品格だろう。どちらかというと、警備員やら通訳者やらを従えて後ろを来るアムジャド首長のほうが温和な印象を受ける。
 千雪はけれど、めずらしくてただでさえ目につくカンドーラという民族衣装を纏った姿よりも、先導する建留の姿をさきに捉えた。
 千雪が目を向けるのとほぼ同時にこっちを向いた建留は、一瞬だけ足を止めた。おそらくは驚き、そして、どういう意味なのか、建留は目を細めた。
 建留がザイドを振り向き、何やら短く会話を交わす。それから建留がまた千雪に視線を向けると、あとを追うようにしながら迷いなくザイドの視線が千雪を捉えた。旭人が即座に立つ傍らで千雪が立ちあがるうちに、ザイドは皇子の顔から一瞬にしてロンドンにいた青年の表情に変わった。
 ザイドは父親と言葉を交わしたあと、建留とともにまっすぐ千雪のほうへやってくる。

“千雪、久しぶりだ。髪が短くなったくらいで変わってないな。”
 正面にたったとたんの第一声は、うれしさが滲み出ていて、千雪までうれしくさせる。
“こんにちは、ザイド皇子。またお会いできてうれしいです。活躍されていると聞いてます。簡単に近づけなくなった気がします。”
 ザイドは首を横に振りながら苦笑いをする。
“ザイド皇子、だって? 堅苦しい云い方はナシだ。ロンドンでは友だちだっただろ? これからも同じだ。そうしてくれないとさみしくなる。いま、周りはそういった連中ばかりになった。”
 肩をすくめたその様子から、ザイドが本気で云っていることはわかった。念のため建留を見やると、うなずいたから遠慮しないでもいいのだろう。千雪はほっと息をついてうなずいた。
“じゃあ、そうする。ジアイマーラでのこと、建留からいろいろ聞いたの。行ってみたいと思ってる。”
“ああ、来ればいい。暑いことを除けば、千雪が思ってるよりずっといいところだって保証する。それよりも、千雪、国ではおれも建留からいろいろと泣き言を聞かされたな。”
“ザイド。”
 建留がすかさず口を挟んだ。ザイドはおもしろがって建留を見やり、またすぐ千雪に戻った。
“離婚したって聞いたときは信じられなかった。けど一昨日、いざ日本に来てみたら再婚するって云う。建留が先走ってるわけじゃないな?”
“どういう意味だ。”
“冗談だ。千雪を見ればわかる。”
 ふざけ合うようなふたりの雰囲気は、ロンドンにいた頃と少しも変わっていない。
 英語だからだれもに筒抜けだろうし、このあとのことを思って会話の内容にひやひやしながらも、あの頃が戻ることを、もしくは、それ以上の時間がやってくることを千雪は思い描いてしまう。
“千雪、今回のプロジェクトのことでおれに来てほしいって云うくらいだから、何かあると思って協力させてもらった。土産だ。”
 そう云ったあと、ザイドは父親を呼んだ。

 ふたりとも西洋の血が流れているせいか、建留と同じくらい背が高い。遠目で見ると温和だったが、傍で見ると、ザイドと同じで、眼差しは鋭い。ローブみたいな白いカンドーラが体型を隠していてなんとも云えないが、雰囲気はがっしりと貫禄(かんろく)たっぷりだ。
“アムジャド首長、私のパートナーの千雪です。”
 ザイドと並んでいた建留が傍らに立ったかと思うと、その紹介の仕方に千雪は内心で慌てふためいた。これまでなされた会話を思えば、いまさらの発言でごまかしようがないのだが、千雪は努めて周りの景色を遮断した。
“千雪、噂はかねがね建留から聞いている。会えてうれしいよ。”
“はじめまして、アムジャド首長。お目にかかれて光栄です。ザイド皇子とはロンドンで懇意にさせていただきました。中東滞在中は建留がお世話になったと聞いています。ありがとうございました。”
 お辞儀をして顔を上げると、アムジャド首長は千雪の髪と瞳にまじまじと見入った。そして、納得したように二度うなずく。
“きみのような日本人ははじめてだ。といっても、そう多くは知らないが。久しぶりに日本に来たんだが、これからザイドの母親と会うことになっている。私にとっても訪日は願ったりのプレゼントだ。”
 それからアムジャド首長が、日本人の妻がアラブの生活になじめなかったことを嘆き始めると、延々と続きそうな気配を感じたのか、ザイドが呆れたように口を挟んでやめさせた。オーバーなジェスチャーで息子の仕打ちに嘆きを訴える様子が可笑しくて、緊張でこわばっていた肩からやっと力が抜ける。
“どんな方か、お目にかかってみたいですね。”
 旭人がフォローすると、アムジャド首長は茶目っ気たっぷりに“秘密だ”とかわした。

 旭人が話に加わってから、千雪は頃合いを見計らってザイドにこっそり話しかけた。
“ザイド、教えてほしいことがあるの。”
“何?”
“発音うまくできないけど、‘・・・ ・・’ってどういう意味?”
“……建留に云われた?”
 千雪がうなずくと、興じたように口を歪めたザイドは、“性格上、建留は教えないだろうな”とつぶやいてから、声を落として説明しだした。
 目を丸くした千雪を見て、ザイドはにやつき、そのときちょうどこっちを向いた建留は千雪とザイドを見比べて目を細める。
 聞こえたのだろうか。なんとなく萎縮させる雰囲気に感じて、千雪はなんでもないというかわりに首をすくめた。

 ひとしきり友好的という以上に親密な立ち話を終えると、ザイドたちの見送りには、建留の誘いもあって千雪も下までついていった。
 三十五階のフロアは、連れだしてくれなかったらどうしようと思ったくらい、注目の的という以上に、揉みくちゃにされそうな気配だった。ただでさえ、今朝から千雪は目立っている。
 エントランスには、さきに降りたらしく、商事の加藤会長や滋をはじめとした上層部がずらりと待機していた。
 重々しい様でジアイマーラ一行を送りだしたあと、後ろのほうに控えた千雪のところへやってきた建留は、目立つ要因になった髪に触れそうになった。重役たちの手前、ばつが悪すぎる。そう思って、千雪はとっさに後ずさると、建留は鼻先で笑う。
 顔見知りの重役たちが戻りざま、お疲れさま、という千雪へ向けた労いにしばらく付き合った。そのなかに小泉社長も当然いて、目が合って千雪が感じたのはまず脅迫的な威圧感が薄れていることだった。

「切った?」
 周りにだれもいなくなると、建留は見てわかりきったことを問う。
 昨日、肩を超えていた髪は顎のラインまで短くした。ルーズに緩く波打たせ、フェミニンな印象を与えて悪くないと思うのだが、声音を聞くかぎり建留は気に喰わないらしい。
「しばらく短くしてるつもり。そのほうが戻ってしまうのも早いと思うし」
「だな。まえの千雪に近いけど、所詮、フェイクだ」
 本来の色にカラーリングした髪を建留がつかむ。今度は逃げなかった。不自然なくらいじっと千雪を見ていた建留は、ふと、短いながらも声を出して笑う。
「戻せよって云っても、もとに戻したらバレそうだって嫌がってなかった?」
「バレたらだめだった?」
「手遅れだ。もう、知れ渡ってる。だからひとまず連れだした」
「手遅れ? それはわたしの髪のせいじゃない。建留が云ったことのせい」
 建留は悪びれる様子もなく笑みを漏らす。
「これから小泉社長と“打ち合わせ”だ。ザイドもアシストしてくれたけど、千雪、これはおれにとって最大のアシストだ」
 顔が近づいてきたかと思うと、数えられるほどとはいえ行き交う人の目もはばからず、建留はつかんだ千雪の髪に口づけた。短くなっているから、角度によってはキスと見間違われてしまう。やはり千雪はあえて周囲を見ないようにした。
「行ってくる」
「うん。栞里たちとアムルタートにいる」
 千雪は業平ビルの斜め向かいを指差し、建留はうなずいた。

 一階にある重役専用のエレベーターへ向かう建留を見送ったあと、千雪はエスカレーターで二階にのぼった。これから質問攻めに遭いそうなことを考えると臆した気持ちになる。さっさと立ち去るにかぎる、と思いながら不動産専用のエレベーターに乗り換えた。すると、三十五階のボタンを押すと同時に人が乗りこんできた。
 だれかと思えば瑠依だった。
「まだ居座る気?」
 剣呑とした眼差しに、千雪は無意識に躰を引く。ふたりきりにはなりたくない相手だ。けれど、出ていきたくても、避けたい張本人である瑠依が出入り口に立ちふさがっている。
 扉が閉まり、窮地に陥った気分で息苦しくなった。また後ずさると、エレベーターは動きだすまえに扉が開いた。飛びだすチャンスだと思ったのに足がすくんでいる。そして、瑠依を器用に避けながら人が入ってきた。
 その人を見て、千雪は目を見開く。
「建留」
 千雪と瑠依、ふたりともが同時に発した。

 建留は扉のボタンを押すと、千雪の側にまわりこみ、ほんの傍でわずかに躰を斜めにして立った。千雪を背中に守りつつ、いつでも迎撃するという構えに見えた。
「おれには、小泉さんにとって心外な忠犬志願者がいる。下手な真似はしないことだ」
 それは建留のけじめなのか、千雪は、『小泉さん』という、距離を置いた云い方に気づいた。
 瑠依は睨むように目を細めて建留に向かっている。
「加納家も、千雪ちゃんのことも、どうなってもいいの? 加納家は、三流のドラマみたいにつつけばいろんなことが出てくるわ。世間は興味津々でほっとかないんじゃない?」
「パーツだけを並べてみればそうかもしれない。けど、小泉さんは見落としている。加納家は、ばらばらに見えたかもしれないがそうじゃない。加納家の名に傷をつけようものなら、だれもが結束し反撃する。これから、小泉社長と打ち合わせだ。結果を聞いてからよく考えて行動を起こしたほうがいい」
 建留は穏やかにしながらも、毛を逆立てて警戒している。一触即発といった気配が漂った。
「おばあさまがいなくなるのを待つだけなんて思ってるわけ?」
 しばらく黙ったあと、瑠依は嘲るように放った。
 千雪はあまりの云い様にすっと息を呑む。
「そんなこと思ってない!」
 飛びだした言葉はきれい事ではない。このまま茅乃の人生が終わるとしたら、また後悔を受け継ぐことになる。きっとそうなるのは千雪ばかりではない。
「そんな考えがおれたちにあるとしたら、離婚することはなかったし、再婚するのにもためらう時間はいらない。小泉さんは、おれの生い立ちを知ったところで同情すらせず、それどころか千雪を脅かすネタに使った。おれは、そういう、おれ自身に気持ちのない、互いに気持ちのない家庭を持つ気はない」
「千雪ちゃんだって加納家を狙ってないとはかぎらないわ!」
「そうじゃないことは、たったいまおれが云ったことを考えてみればわかる」
 建留が云い終えたと同時に三十五階に到着してエレベーターの扉が開く。

「おれにとって、千雪よりも自分に利点があると思ってるんならそれを挙げてみればいい。説得の余地をやってもいい」
 瑠依はちらりと千雪を見やり、建留に向かった。
「社交力は千雪ちゃんよりずっと上よ。社長夫人として、愛想がないなんてどうかしら」
「ついさっき、アムジャド首長とザイド皇子との面会を見たんだろう? 千雪が彼らを不快にさせてたのか?」
「わたしは社長の娘よ」
「千雪は、不動産創業者である会長の孫だ」
「わたしは、建留にふさわしいっておばあさまに認められてるのよ」
「そうなのか? 知らなかったな。小泉さんの云うとおりだとしたら、ばあさんの目は節穴だ」
 建留は大して可笑しくもなさそうに一笑に付した。
 千雪の背中に手をまわしてエレベーターから降りると、瑠依を振り返った。
「ほかには?」
 建留は促したが、瑠依は口を閉ざしたまま、それ以上のことは挙げてこなかった。不快さと苛立ちをあらわにしながら、動揺が見え隠れしている。
 エレベーターの扉は、さながらジ・エンドとフェードアウトするように閉じられた。

「建留」
「大丈夫だ」
「忠犬志願者、って?」
「さあな。行こう、会社を出るまで付き添ってる。質問攻めは明日、すべてはっきりしてからで充分だろう」
 建留は千雪が感じているような憂うつも戸惑いも持ち合わせることなく、単におもしろがっている。
「建留、アムジャド首長、ほんとに不快にしてなかった?」
「不快にしてたら、首長がプライベートな愚痴をこぼすようなことはない」
「アラブは住みやすそう」
「まさか。発展してるところはほんの一部だ」
「でも、女性は握手とかハグとかやらなくていいから失礼だと思われなくてすむ」
「気にしてるのか?」
「気にならない?」
「むしろ、気に入ってる」
 本気で不安にしているのに建留はふざけた返答をして、まったく始末に負えない。
「ザイド、アムジャド首長のことをお土産だって云ったけど」
「首長が顔を出したんだ。プロジェクトを潰すにはよっぽどの理由がいる」
「ザイドにすごい借りができた?」
「向こうにもメリットはある。それに、ロンドンで世話になったって返礼らしい。ザイドはチャラだって云ってる。これで、おれと千雪が離れるようなことになれば、ザイドの配慮を踏みにじることになる」
「うん、わかってる」
 ためらいなく千雪が即答すると、なぜか建留は安堵とは真逆のやるせないような笑みを浮かべた。



 業平グループの上層部、そして主要な担当者が一堂に会したジアイマーラとの会合は、多少の調整は必要だったものの、概ね胸積もり内のことで予定どおりに進行し、建留としては確かな手応えがあった。
 見送りを終え、野次馬めいた視線が――それが防犯用の赤外線ビームなら避けるすべがないほど張り巡らされたようななか、千雪が会社を出るのを見届けると、再び、会合の会場となった業平ビル最上階の役員会議室に戻った。
 窓辺に寄り、遥か地平線まで見渡す。
 三十にもなって幼さを吐きだした建留とは逆行して、千雪は受けとめる強さを身につけたように思う。煽られるような高揚感は、会合の成功によるものか、千雪が見せてくれた覚悟によるものか。
 千雪が髪を短くしたのはいただけないが、未来が見えるいま、もとに戻るまで気長に待てばいい。そう考えていると、白いシーツに広がるシャンパンゴールド、そんな記憶の一片が自ずと浮上してしまう。つい二十分まえ、髪の色を戻した千雪を見た瞬間と同じように、場違いにも躰が疼いて、建留はよこしまな劣情を振り払うように窓辺から身をひるがえした。

 まもなく、業平不動産から加納会長、小泉社長、加納副社長、業平商事からは加藤会長、加藤社長が顔をそろえてやってきた。室内の仕様はホテルのスイートルーム並みの優雅さだが、五十人収容という広さのなかでも存在感は確かで、どことなく重厚な空気を漂わせる顔ぶれだ。
 建留は革張りの椅子の背から躰を起こし、テーブルに腕を置いてわずかに身を乗りだす。
「立て続けの会議にお疲れのところ申し訳ありません。プロジェクトについては具体的構想を提案させていただきましたが、記憶が真新しいうちに、懸念材料、また要望があれば挙げていただきたいと思います。彼らが日本に滞在している間であればスムーズに話が通りますし、面会を申しこみます」
 いったん、静けさを取り戻したあと、商事の加藤会長が重々しくうなずいた。
「当面、問題はないと見受けたが。内容も申し分ない」
「イラクについては商事も油田開発権の獲得に動いている。ジアイマーラの後押しは心強い」
 加藤社長自らがまさに後押しをした。
 そして、小泉社長へと全員の視線が集中する。

「小泉社長、イラクプロジェクトはジアイマーラから資金協力の申し出がありますし、いま進められているジアイマーラ自体の再開発への参加要請も不動産には願ったりのビジネスだと思われますが」
「加納室長代理、君と懇意にしているというだけで、彼らはやたらと気前がいいな」
「懇意にしていることが多少なりと影響していることは自負しています。ですが、それ以上に、彼らにとって利点があるからこそのことですよ。ジアイマーラは湾岸戦争以後、イラクとの関係を強化しているところであり、都市開発に貢献することで経済力の支えになれば親密化します。そうなれば、他の国に対してジアイマーラはイラクとの仲介国として中東全体での存在感も向上しますから」
 云い終えると同時に孝志が背もたれに預けていた躰を起こした。
「小泉社長、何をためらっていらっしゃる? 室長代理の立案にはなんら問題はない。会合に出席しただれもがゴーサインを出したと私は理解していますが。いや、ためらうというよりも、小泉社長は単に渋っておいでのようだ」
「反対はしていない」
「決裁いただけるんですね」
 建留が同意を促すと、小泉社長は答えるのに一拍置いた。
「進めてくれ」
「はい、さっそく明日からイラクとの交渉手続きに入ります」
 承認の返事を取りつけた建留は素早く答えた。この席で口にしたことに撤回などあり得ることではないが、建留が答えることで確定とすべきだった。
 小泉社長は終わりと見越して、もしくは、主題が変わると察して逃れるためなのか椅子を引いた。
「今日、持ちあがった修正点を改めたうえ、再度、目を通したい」
「承知しました」
 建留が答えたあと、加納家の面々はそれぞれに目配せをした。

「小泉社長、折り入って相談したいことがある。かけてもらえるか」
 滋は立ちあがった小泉社長を制し、椅子を指し示した。
 折り入って、と深刻さを表す言葉から、いま小泉社長の脳裡に何が浮かびあがったのか、奥歯を咬みしめたような渋面がよぎる。小泉社長はゆっくりと腰をおろした。
「うかがいます」
「このところ停滞気味だった不動産事業もようやく一つ抜きんでたようだ。今回のプロジェクトは次に繋がる。前途洋々だと思わないかね」
「ええ」
「だが、君は少々、羽ばたくことに対して消極的なようだ」
「何をおっしゃりたいんです?」
「君の思考はもう凋落(ちょうらく)の一途(いっと)をたどっている、ということだよ。企業人に必要なのは、守りに入ることではない。発想の転換だ」
 それを口にするには自らを追いこめることになり、静まり返った室内は小泉社長のそんな葛藤に気流が淀む。その息苦しさに負けたのは、そんな気配を生みだした小泉社長自身だった。
「退任しろ、ということですか……っ」
 小泉社長はしぼりだすような声で咆哮(ほうこう)した。
「取締役会長職を用意している。ただし、代表権は剥奪させてもらう。社長後任は、加納現副社長だ」
「ばかな。創業者一族の横暴極まりない!」
 小泉社長は滋をきっとした眼差しで見据え、吐き捨てた。
 ついさっきの様子から自分の形勢はわかっているようだったが、こうまで不利になるとは思っていなかったのだろう。
「加納会長もまた代表権を失い、取締役名誉会長に退いてもらいます。小泉社長、会長職は、長きに渡り業平不動産に貢献し、その功績を至当に評価した、あなたへの温情措置と捉えていただきたい」
「温情?」
 加藤社長の言葉に小泉社長は訝しく眉をひそめる。

「あなたは自分がしたことを重々承知のはずです」
 建留が口を挟むと、睨めつけた眼差しが向かってくる。
「私が何をした」
「加納家を脅迫されましたね」
「知らん」
「正月に、加納家のティルームで。堂々としたものです」
「知らないと云っている」
 建留はジャケットのポケットから携帯電話を取りだした。
「残念ながら、会話は筒抜けなんですよ」
 操作しながら云い、そして、携帯電話を掲げた。鮮明な音声が流れだす。

『この人は、父がお金を借りた人というだけです』
『そのとおり、ただの借金取りだろう。だが、返済分のみならず、須藤家の――きみのために多額の金が動いている。口封じだ。それがマスコミに知れるとなると、暴力団への資金流出、癒着という言葉がつく』

 建留は音声を切った。
 小泉社長は顔色を変えながらも態度を改めることはなく――
「盗聴は犯罪だ」
 論点をずらした。
「いいえ。これは、あなたが加納家の一室を借りたいとおっしゃってることを祖母から聞き、同席者、千雪の同意を得て録った“秘密録音”です。この脅迫は、加納家としては訴えも視野に入れざるを得ませんね」
「脅迫ではない。事実を述べているまでだ。気をつけてほしいという心配しての忠告だ」
「これはほんの一部です。前後の会話を聞けば、すぐにわかる。それに、事実、ではありませんよ。須藤家の問題について加納家は、借金とその法定内の利息分以外、一切金は渡していない。あなたは嘘を吐いている」
 小泉社長は真一文字に口を結んだ。
 録音に関しては建留も嘘を吐いたことになるが、真っ当な弁護だ。矛先は、千雪からも茅乃からも遠ざけなければならない。

「小泉社長、お認めになったほうが賢明では? ご家族のためにも」
 加藤社長がうんざりしたため息を漏らしながら促した。
 次いで、孝志が追い打ちをかける。
「加納家を売る行為は、すなわち、業平不動産を巻きこむことになる。小泉社長、あなたは事実無根で会社に損害を与えようとしている。背任、そう捉えられてもしかたありませんね。会長職は充分なはずだ。年齢的にも潮時であり、代表権はなくとも地位も名誉も温存される」
「この件は次の取締役会で議題とする。よろしいな?」
 加藤会長のひと言は即ち決定事項に変わりなく――小泉社長は、喰いしばった口のすき間からかすかに呻き声を漏らした。
「承知致しました」
 のたうちまわるような様で勧告を受け入れ、席を立ち、深々と頭を下げると、小泉社長は重い足取りで役員会議室をあとにした。

 優美なドアが閉まるのを見届け、建留は立ちあがった。
「不快なことに付き合っていただいたうえ、力添えをありがとうございました」
「建留、おまえが謝ることはない。私から始まっていることだ」
 滋は気難しくしながらも、どこか肩の荷をおろしたような印象も受ける。
「その記録があるかぎり、小泉社長も何もできまい」
「何かやるとしても、勝ち目はない。この業平で社長までのぼりつめて結果がこれか」
 加藤会長に応えて加藤社長は呆れ果てた声音でつぶやく。
「何事も過ぎてはいかんということだろう」
 加藤会長はそう云うと、「建留くん」と呼びかけた。
「はい」
「貴大に続いて、建留くんと千雪ちゃんの結婚を見届けなければ、私は死にきれん」
「加藤会長、死を心配するなどまださきのことでしょう。それ以上に、貴大とのツートップを見届けるとおっしゃっていたはずです」
「そうだったかな。まあ、人生の終わりに楽しみが一つ増えたことだけは確かだ」
 建留に応えて加藤会長はそう締め括り、会議室を緊張感から和やかな空気に変えた。

 人生の最後に。
 残っているものはただ一つでいい。
 千雪――。

NEXTBACKDOOR