ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第6章 Become one

5.償いにはならなくても

「千雪、お母さんがもうすぐ来る。同席してほしいそうだ」
 旭人が出ていったあと、しばらくしてから戻ってきた建留は出し抜けにそう伝えた。
 麻耶がここに来たがらないことを知っていたから、千雪は一瞬、意味が判断できなかった。
「同席って?」
「ばあさんと話すことがあるらしい。それに千雪も立ち会ってほしいそうだ」
 躊躇していると、建留が傍に立ってじっと千雪を見下ろす。千雪もまたつぶさに見上げていると、建留の顔になんらかの感情がよぎった。
「旭人にはほんとに気を許してるな。泣いた痕がある」
 ついさっきまでここで何があったか、見当をつけたらしい建留はぶっきらぼうに放った。メイクは直しても目が赤いのはおさまらず、隠しようがない。
「建留の親友を信用しちゃいけない?」
「それとこれとは別問題だ」
「……しょっちゅう泣いてるわけじゃないし」
「あたりまえだ」
 がんばって切り返しているつもりが、だんだんと雲行きが怪しくなっていく。千雪は口を噤んだ。
 何か千雪が云うのを待っているのか、それとも、自浄作用が起きているのか、建留まで黙りこむ。
 やがて、中断されたキスの続きを仕掛けてきたときは、不機嫌オーラは消えていた。首を傾けて覗きこむようにしたキスは、くちびるに触れただけで終わる。それからタートルのセーターの上から右肩に口づけて、建留は顔を上げた。

「どうして肩?」
「おれの証しがここにある」
「……所有物ってこと?」
 千雪が顔をしかめると建留は薄らと笑う。
「それだけじゃない。“戒(かい)”でもあるし……ジアイマーラの習慣を調べてみるといい。まあ、千雪は王族じゃないけど」
 肩をすくめた建留は、わずかに首をひねると話を戻した。
「まともに云っても拒絶は目に見えてるから、ばあさんを捕まえるにはティタイムがチャンスだ。千雪もお母さんも歓迎されるとはいかないし、不快だろうけど……」
 建留は語尾を濁した。
「たぶん、平気」
 建留は可笑しそうに口を歪める。
「出かけるまえにどうだったか見届けたいってのもある。千雪の気が変わって、捜索願を出す破目にはなりたくない」
 散々な云い分だが、なじるのはぐっと堪えた。建留が心(しん)から落ち着けるよう、何か手立てを探すほうが先決だ。
「建留からは逃げない」
 限定したことは建留を笑わせてしまう。
「ああ。もう何もかも吐きだすほうがいい。おれはそう思ってる」
「うん」

 建留について階段をおりてしまうと、麻耶が浅木に案内されて廊下を歩いてくるところだった。そこへ、書斎から滋が現れる。麻耶は千雪を認めて笑いかけたのもつかの間、立ち止まって深々と一礼をした。
「加納会長、ご無沙汰しています」
「麻耶、堅苦しい呼び方も云い方もやめなさい。いつも云っているだろう」
「はい。今日はまた掻き乱すことになります。あとのことは……お父さんに任せます」
「わかっている。建留」
 滋は重々しくうなずいてこっちを振り返った。
「はい」
 建留に背中を押されて麻耶と合流した。
「お母さん」
「あなたも聞いていてちょうだい。すれ違うことの悲しさを知っておくといいわ。建留さんと、二度とそういうことのないように」
 麻耶は深刻な様で千雪にそう云ったかと思うと、「建留さん、男子禁制よ」と茶目っけたっぷりで建留の笑みを誘った。
 ティルームのドアをノックして返事を待たずにドアを開けると、建留の手が、大丈夫だ、そんな言葉を秘めて千雪の背中を押した。
 紅茶の甘い香りがほのかに漂うなか、千雪のあとから麻耶が入る。ちょうど振り向いた茅乃の目に批難が映った。
「何事かしら、今日は」
 冷ややかな第一声を出すと、茅乃はまたもとの位置に背中を向けた。出ていけ、とすぐさま追いだされなかっただけましなのかもしれない。
 麻耶は茅乃の背中に向かって、滋にしたように会釈をした。あえて茅乃の視界に入ることはせず、麻耶は話しだした。

「奥さま、千雪を預けながらご挨拶もまともにできず、心苦しく思っておりました。申し訳ありません。重ねて厚かましいお願いですが、母のことをお話したいと思って参りました。耳をお貸しいただけないでしょうか」
「聞きたくないことを、わたしは何度聞かなければならないのかしら。夫からあなたの存在を聞かされたとき、死と同じくらいの屈辱を味わったわ。いいえ、わたしはそのときに死んだのかもしれない」
 茅乃の声は苦々しい。けれど、聞きたくない、そう云いながらも茅乃のほうが話のきっかけをつくったように思えた。
「はい。母がしたことは何一つ云い訳ができません。ただ、奥さま、上司と部下という以上に、加納会長から母がお気持ちをいただいたことはないんです」
「上司と部下の間に子供ができるのは、少しもおかしくないって云い張るつもり?」

「いいえ。奥さま、母は一夜、自らの意思であなたを演じただけです。加納会長は、妻に片想いしている、そうおっしゃっていたそうです。当時、お心当たりはありませんか。母がしたことは卑怯なことです。ただ、母も罰を受けています。その一夜、加納会長が呼ばれた名は奥さまだけだったそうです。承知のうえでも、加納会長のお気持ちに手が届かないと身に沁みたんだと思います。だから、結局は逃げてしまったんです。躰が弱り始めた頃でした。母は、奥さまの子を預かってるだけなのかもしれない、そんなふうに云いました。母を許せないというお気持ちは当然です。ずうずうしいのを承知で申します。どうか、奥さま、千雪のことをよろしくお願いします」

 不思議と茅乃は口を挟んで打ちきることもなく、麻耶に最後まで語らせた。ティカップを一度も手にしていないことにも千雪は気づく。
 はびこった沈黙は、怒りや憎しみよりも、後悔に近いように感じた。その解釈が間違っていないのなら、茅乃は――いや、だれもが何年もの月日を犠牲にしてきたことになる。それとも、これまでの時間を経てきたからこそ、芽生える、あるいは整理がつくことなのか。
「あなたの云うとおり、それは厚かましいお願いね。話がすんだのなら出ていってちょうだい」
 茅乃は平坦な声で麻耶を退けた。
「はい。不愉快なことをお聞きいただいてありがとうございました。失礼します」
 会釈をして頭を上げた麻耶は促すように千雪を見やる。
「お母さん、さきに行ってて」
 千雪もいまなら、茅乃と向き合って――実質的には背中が相手だが――対等に近い形で話せそうな気がした。麻耶はためらっていたが、やがてうなずいて出ていった。
 ドアが閉まり、どう声をかけようか、千雪が口を開きかけた矢先。
「千雪さん」
 茅乃のほうから呼びかけてきた。
「はい」

「孝志は難産のすえに生まれたの。最初に感じた陣痛から三日間かかったわ。陣痛促進剤を使われて、死ぬかと思うくらいの痛みだった。初恋の整理もできないまま、二十歳で姉を追うようにお見合い結婚をして一年後のことよ。その恐怖をあのひとにぶつけたの。わたしには好きな人がいるのに、無理やり結婚させられて殺されそうになった、と。あのひとはやさしかったのに。仁條家は公家華族という称号も“もと”がつく名ばかりの零落(れいらく)した一族だわ。たった十分さきに生まれた姉は初恋を実らせて、妹のわたしは仁條家を立て直すために加納家に来たのよ。どう整理をつけろと云うの?」

 答えを求めている云い方ではなく、千雪が何か云ったとしても茅乃にとっては空(くう)をつかむような言葉にしかならない。茅乃はため息を一つこぼすと、また続ける。

「ぶつけた言葉は返してもらえない。あのひとも、どうしていいのかわからなかったのよね。わたしはあのひとを避けて、孝志を育てることに逃げたすえ、麻耶さんのことを聞かされたわ。その頃のことは、大まかにも話せないわ。よく憶えていないから。それから、孝志を立派に育てなくては、そんなふうにまた逃げたかもしれない。悪い夢だったと思っていたかもしれない。でも、麻耶さんは実在したのよ。ここに現れた。孝志は、最後までわたしの御方ではいてくれなかった。独りっ子だったせいかしら、それとも、血の繋がりは意外に強いのかしら。何かあると『妹だ』って、わたしからかばっていたわ。孝志がそうだったように、わたしは、建留にも旭人にも、憎まれて当然のことをしているのよね。建留が、永廣さんに復讐してると云ったこと、当たっているかもしれないわ。もしくは仁條家にかしら」

「そうじゃありません。憎んでいたら、だれもおばあちゃんの云うことなんて聞いてないと思います。おばあちゃんはわたしに、建留の権利を奪わないでって云いました。おばあちゃんが仁條家に復讐してるとしたら、そんなこと云うはずがない。建留にちゃんとした居場所をあげたかったんだって、わたしはそう思ってます。それに、おじいちゃんのことも……おばあちゃんはおじいちゃんのこと、やさしいって云ったけど、それだけじゃない。それ以上の気持ちがあったから、いまでもおじいちゃんのことを許せていない。そうじゃないの? おじいちゃんのこと嫌いだったら、おばあちゃんは無視してるか、仁條家のために財産をもらって加納家を出ていくか、そのどっちかだって気がするの。初恋は、おばあちゃんがおじいちゃんのことをやさしいと思ったときに整理がついてたんだと思う。間違ってますか」

 そう問いかけるのは二度めだ。そして、再び茅乃は沈黙した。
 急に小さくなったような背中を見つめながら、千雪は麻耶がつぶやいていたことを思いだす。
 償いにはならなくても――。
 千雪がせめてできる償いのかわり。それは茅乃を後悔させたままにしないこと。
「おばあちゃん、わたし、おばあちゃんには云えたけど建留には好きって云えてないの。こういう素直じゃなくて逃げてしまうところ、わたしはおばあちゃんに似てるかもしれない」
 反応はなくて、それは出ていってという無言の催促だと察した。
「おばあちゃん、今日はもう帰ります」
 見られてもいないのに、千雪は一礼をして背中を向けた。
「わたしは、あなたのおばあちゃんじゃないわ」
「はい」
 同じ言葉は、それでも一時間まえの声音とはまったく違って聞こえた。


 ティルームを出ると、男子禁制という要望は聞き遂げたらしく、とても聞き耳を立てられない場所、階段の下のところで建留たちは待っていた。
 すぐに出かけるようで、建留は二階に置いていた千雪のバッグとコートを手にしている。
 麻耶が滋と対面するシーンを見るのも今日がはじめてだったが、いま孝志と話す姿もはじめてのことだ。千雪にとっては、麻耶が加納家にいること自体が不思議に映る。麻耶と孝志は、母親は違ってもやはり兄妹で、それぞれの横顔からどことなく似た面影が覗く。千雪が近くまで行くと芳明の体調が話題となっていたが、異母兄妹の間にはわだかまりがなく見えた。
 建留が問うように首を傾ける。何を聞きたいのかは云わずもがなで、千雪は小さく肩をすくめただけで終わらせた。

「もう行く?」
「ああ。一時間半後には到着の予定だ」
 千雪はうなずいて建留からバッグを受けとると、どこかもの云いたげにした滋に目を向けた。
「おじいちゃん、おばあちゃんにちゃんと云い訳してほしいの」
「云い訳?」
 滋は、まるで意に反することを云われたみたいに顔をしかめた。
「云い訳はずるいって思ってるかもしれないけど、そうしないことのほうがずるいってときもあるから。建留はちゃんと云い訳してくれる」
 麻耶が失笑を漏らす。同様に、千雪の頭上からも吐息が漏れた。見上げると、建留は苦笑いを浮かべている。
 対して、滋は何やら考えこんだ様子で、ティルームのほうを見やった。
 旭人も何か云いたそうにしているが結局は何も云わず、実際に呼びかけたのは孝志だった。
「千雪」
「はい」
「母は、仁條家でも加納家でも我慢を強(し)いられてきた。けっして、はじめからやさしくないという人ではなかったんだ。私もやさしさを奪った一人だ。麻耶を――妹を放っておけなかった、それだけの気持ちで母を傷つけている。母の気がおさまるのを待つのではなく、今日、建留がしたように引き際を見いだしてやるべきだった」
「わたし、おばあちゃんのこと嫌いだけど憎んでるわけじゃないから」
「千雪」
 麻耶がたしなめる横で、孝志の口もとには安堵を交えた笑みが形づくられる。
「そろそろ行きましょう」
 孝志が声をかけると、そろって玄関に向かった。麻耶たち四人が話しながら進むあとを、建留と千雪は少し距離を置いてついていく。

「あとでマンションに行く」
 並んで歩きながら、建留は囁くように云った。
「ううん。せっかくザイドが来た懇親会でしょ。帰りの時間、気になると思うから。会議とか、月曜日までいろいろたいへんだろうし、落ち着いてからでいい」
「聞き分けいいな」
 隣を振り仰ぐと、シニカルな笑みが降ってくる。責めているようにも見えるが――
「顔を見ないでも平気でいられるって余裕だ」
 と、やはりおもしろくないといった声音だ。
「そうじゃない。……いい気になってる、っておばあちゃんに思われたくないだけ。強行突破じゃなくて、歓迎されることはなくても、やっぱり少しは受け入れてほしいから」
 建留は文句たらたらな気配でため息をついた。
「千雪のほうがよっぽどイイ子ぶってる」
 ぼやいたあと。
「気分、悪くないか?」
「……大丈夫。吐いたからお酒は全部抜けてる」
 いきなりの質問に、なんのことか探しだして千雪が答えると、どこか不服そうな表情に合う。
「そうじゃなくて」
「……何?」
「……まあ、どうもないんならいい。ここで云うことじゃないだろうし。懇親会が終わったら、マンションには行かないまでも電話だけは入れる」
 建留は独り言のようにつぶやいたあと、話を打ちきった。


 松田が運転するステーションワゴンに送られて、千雪は麻耶とふたり、駅に降り立った。送る時間はあると云われたが、まさに一国の主といっても過言ではない人物を迎えるわけで、行くまえに何かあっても困るから駅まででかまわないと断った。麻耶が千雪と話したがっていることはわかっていて、そうするほうが好都合でもあった。
「外国の人を迎えるなんてたいへんね」
 建留たちを見送りながら、麻耶はしみじみとつぶやいた。
「うん。イスラム教徒(ムスリム)を迎えるのは特にたいへんそう。料理もハラール食品じゃないとだめだから、ホテルも苦労してるって云ってた」
「ハラール食品て?」
「イスラム法で許された食べ物のこと。豚肉はダメだし、禁酒だから、みりんとか普通の醤油も使えないって。ロンドンにいたときも、ザイドは専属の料理人連れてた」
 そう云うと、麻耶は千雪にまじまじと見入った。
「どうかした?」
「自分の娘が、そういう別世界みたいな人と普通に係わり合う人の奥さんなんだって、不思議な気がしてるだけ」
「まだ奥さんじゃないけど」
 訂正すると、麻耶は思案げに首をかしげる。
「建留さんと電話で話したけど、おばあさまのことはともかく、建留さんとは大丈夫なんでしょ?」
「うん。ふたりで暮らすって。でも、わたしはいますぐじゃなくて、もうちょっとだけ待ってみようって思ってる。それに結婚するなら……」
 千雪は云いかけて内心のことにとどめた。
「結婚するなら何?」
「ううん。いまは秘密。建留に云ってから」
「もう、大丈夫そうね。落ち着いた感じがするわ」
「うん」
「もっと早くにお父さんと対峙していたらって思うことがよくあるわ。千雪に我慢させて、千雪は云っていいことまで云わなくなった」
「わたしは気にしてない。ただ、お父さんには悪いけど、お母さんがどうしてお父さんと結婚したのか不思議だった」
「天涯孤独という似た者同士だったから、安心できたのよ。わたしの生い立ちをだれにも追及されなくて、咎められなくてすむじゃない? それに、お父さんはほとんど黙ってるけど、わたしのお喋りは聞き流してるようで、本当はちゃんと聞いてるの。それがわかったとき、独りっていう窮屈さから解放されたわ」

 千雪は火曜日のことを思いだした。千雪の話も、芳明はちゃんと聞き遂げて、帰ってくればいいと口にしたのだ。
 独りは自由であるようでいて、その実、世間の隅っこに隔離されているのとかわらない。だれかが気づいてくれたら、気にかけてくれたら縋りたくなる。
「わかる気がする」
 須藤家もまた隅っこで暮らしていて、千雪はそうやって自分もゴミのなかに放られたドールみたいに埋もれて終わるのだろうと思っていたけれど、危機一髪のドールには救い主がいた。

「お父さん、がっかりするわね」
「え?」
「千雪が帰ってくるのを楽しみにしてるみたいだから」
 千雪がびっくり眼で見つめると、麻耶は可笑しそうにした。それから反転して、少しだけ表情が陰る。
「おばあさま、年を取られたわね」
 麻耶はため息混じりにつぶやいた。
「二十年以上、会わなかったんだからしかたないよ」
「そうね。今日は記憶にあるよりずっと穏やかに感じたわ」
「……うん」
 千雪の生返事に気づいて麻耶が問うように首を傾ける。
「どうしたの?」
「建留がおばあちゃんにひどいこと云ったの。だからかもしれない。でも、建留は本気で云ったわけじゃなくて……やっぱり、本当のおばあちゃんのせいかなって思う。建留がわたしをかばうために云ったこともわかってるし、二重におばあちゃんを苦しめてる気がしてる」
「ごたごたしたなかで、兄と華世さんがうまくいっていることは救いだわ。建留さんと旭人さんの仲がいいことも。そんなことに気づいて、少しでも安らいでいくといいんだけど。おばあさまのお姉さまと何度かお会いしたことがあったの。立場上、お互いに話しかけるということはなかったけど、お姉さまを見ていると、おばあさまもわたしがいなかったらこんなやさしい顔でいられたのかもしれない、そう思ったわ。だからよけいに、千雪と建留さんはうまくいくべきだわ。認めてもらえなくても、嫌われたままでも。これ以上、後悔させてはだめよ。わたしはそう思うの」
 麻耶は千雪が思っていたことと同じことを云った。

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