ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第6章 Become one
4.少年の慟哭
加納家に行くまえにグレイシャスホテルに立ち寄ると、貸切フロアの改装は、千雪からすれば完璧に整っていた。
さながら異国で、壁面はアラベスク模様のクロスに変えられ、絨毯(じゅうたん)はゴールド色を基調にしていてゴージャスな雰囲気がある。けばけばしい色合いではなく、少し抑制された色使いで、建留は、「髪が素の色だったら千雪は行方不明になるな」とからかった。ザイドが要望した和室は、桜をモチーフにして竹細工の戸があったりと、まもなくやってくる日本らしい春の雰囲気が演出されていた。
その後、ホテルを出た瞬間から千雪の緊張は増していくばかりだ。途中、昼食を取るにも箸は進まない。駅まで松田が迎えにきてくれて、加納家に入ると千雪の緊張もピークに達する。
玄関まで歩いていく間、建留は千雪の手を引いていたのだが、手のひらは汗を掻いている気がして、千雪は精神状態がばれないよう願う。パーフェクトであろうと、これで気も張らないというのは本物のドールだけであり、きっと建留も緊張している。だからこそ、千雪がしっかりしていれば支えになるのではないかと思うのに――
「手が冷たい」
建留は抜かりなく察している。
「平然としていられるんなら逃げない」
やけっぱちになって云い返すと、建留は可笑しそうにうなずいた。
「そうやって正直に教えてくれるほうがやっぱり助かる。行こう」
「うん」
出迎えた浅木のあとをついてリビングに入ると、全員がそろっていた。
一斉に視線が向けられると、千雪は繋いだ手を無理やり離していてよかったと思う。こんにちはという挨拶は自分でも頼りなく聞こえた。
テーブルを囲むように据えられたソファのうち、長いソファに茅乃と華世、その斜め向かいのシングルソファにはそれぞれ滋と孝志がいる。そして、少し離れた場所に置かれたソファに旭人が座っている。こんな光景は、加納家そのものといった、ばらばらな様を映しだしていた。
建留は千雪の背中を押して、滋たちの正面に当たる二人掛けソファのところに行くと、千雪をさきに座らせて自分も腰をおろした。
茅乃の視線はやはり痛い。いつもの刺々しさよりも、じっと見据えるような様子がよけいに千雪の居心地を悪くさせる。
「承知していただきたいことがあります」
建留の声は気負いもなく、なめらかに滑ってリビングに行き渡る。爆発までの秒読みが始まったようなストレスを覚えるのは千雪だけだろうか。滋がうなずくのを見届けて建留は続けた。
「僕は、加納家を出て、千雪とふたりで暮らしていきます」
リビングは息を呑む音に満ち、それから様々な気配に変わった。純粋な驚き、当然だという同調、そして、不服を唱える気配。
いちばんに口を開いたのは茅乃だった。
「なんてこと!」
つぶやくように漏らし、千雪へと軋むような眼差しを向けた。千雪は息を詰めて、無言の批難を受けとめる。
「その際、相続の話も白紙に戻してもらってかまいません。業平不動産から退くこともやむを得ないと思っています。ただ、その場合も、わがままですが、今回のプロジェクトについては終結するまでは留まり、責任を持ちつつ見届けさせてもらえませんか」
そこまで云いだすとはだれも想像だにせず、一様にしんとした。千雪ですら、そんな考えがあることは知っていたが、ここで、この日に、口にするとは思っていなかった。
滋はこれ以上にないほど眉間にしわを寄せて唸り――
「加納家と縁を切ろうなどと、まかり成らん!」
めったにない一喝が飛んだ。
千雪がびくっと肩を跳ねあげたのに対し、建留は予測していたかのように身じろぎ一つしない。ただ、真向かいの滋を見据え、わずかに顎をしゃくった。
「では、どうすれば、おばあさまの迫害から千雪を守れますか?」
千雪は首をすくめる。
「建留!」
悲痛な声で叫んだのは茅乃だった。建留は怖いくらい平然と茅乃を見やった。
「そうではなくてなんです? 千雪はもう知っていますよ、あなたが本当の祖母ではないことを」
茅乃の顔がこわばった。
「知っていながら、加納家の敷居を平然と跨(また)いだのかしら。なんて……」
「おばあさま!」
建留は鋭く止めに入った。
「もういいでしょう。知らないということを逆手に千雪をどれだけ痛めつけましたか? 事の発端に、千雪は欠片すら存在していなかったんです。あなたは、自分が傷ついたといって、千雪も千雪の母親も傷つけた。ふたりからすれば理不尽ではありませんか。それだけじゃない。どれだけ人を巻きこんで傷つければ気がすむんです? あなたが責めるべきは、おじいさんだ」
建留は、「そうですよね」と滋に向き直った。
「そのとおりだ」
「だったら、ふたりで解決してください。縁を切らないとおっしゃるなら、それはそれで受け入れます。恩義はなんらかの形で返したいと思っていますから。ただし、ここは出ていきます」
「恩義などいらん」
滋の苦々しい放言に重ねるように――
「待ちなさい、建留。勝手は許さないわ」
毅然(きぜん)とした声が発せられた。茅乃は気丈に振る舞っているだけなのか、それとも、本当に自分のことを正当化しているのか。
「許しなんて端(はな)から求めていませんよ。承知してもらいたいとは云いましたが、承諾をもらってからとは云っていない」
建留はにべもなく突き返した。また視線を滋に戻すと「家を出ることについては反対じゃないですよね?」と詰め寄った。
「そうしたほうがいい。母の二の舞をおれが許すと思ったら大間違いだ」
滋よりもさきに応じ、同調したのは旭人だった。
茅乃がぱっと旭人を振り向き、その剣呑とした気配はすぐさま千雪に向かってくる。
「旭人と共謀(きょうぼう)して……」
「もうやめるんだ」
今度さえぎったのは滋だった。叱るような声で、茅乃は反発するような面持ちで滋を見やった。
「あなたにわたしを責める資格あるの?」
建留のため息がひと際大きく響いた。
「おばあさま、もう受け入れませんか」
「何を?」
「おばあさまにも否があったことを、です」
「わたしになんの否があるというの?」
「わかっているはずです。あなたは、あなたを選ばなかった祖父への恨みを僕で晴らしている。両親たちはそのために、あなたに殺されたんじゃないか――」
「建留!」
「おやめなさい!」
千雪と茅乃の叫び声が重なった。
「あなたのためを思ってやってきたわたしに向かってよくそんな――」
「おばあちゃん!」
千雪はたまらず口を挟んだ。
「建留が本気でそんなことを思ってるわけじゃないってわかってるでしょ? でも、そう思いたくなるほど、建留はきっといろんなこと考えてたんだと思う……」
「千雪」
建留が引きとめる。千雪は振り仰いで、止めないでと云うかわりに首を横に振った。
「云わなくちゃ伝わらない。建留はそう云ったよね。わたしも云ってほしかったってこと、いっぱいある。だから、おばあちゃんも知るべきなの」
建留が止めるか、あるいは口を出すまえに千雪は茅乃に向かった。
「おばあちゃん、建留は自分のこと、復讐の道具だって云ったの。おばあちゃん、わたしに対して復讐したいって気持ちになるのはわかります。建留が瑠依さんとって思っただけでつらくてたまらないから。でも、建留に道具だとか思わせるのは間違ってる。おばあちゃん、独りぼっちになった建留のためにってそう考えたのなら、会社を継がせることよりも、抱きしめてあげればよかったのにって思うのは間違ってますか」
千雪が一気に云い終わると、リビングはひと時しんと静まった。
茅乃の気持ちが簡単にほぐれるとは少しも思っていない。けれど、茅乃が反論も貶(けな)すこともせず、無言でいることに兆(きざ)しが見える。千雪の希望にすぎないのかもしれないが。
「母さん、もう建留を解放してやりませんか」
呼吸音を立てることさえ臆してしまうほどの重々しい沈黙を終わらせたのは孝志だった。
「すべて私が悪い。それはおまえもわかっているだろう」
次いで滋が云うと、華世は小さくうなずきながら、なだめるように茅乃の手を取ってさする。そうされる茅乃の姿が、急に老(ふ)けこんだように見えるのは気のせいだろうか。
「おばあさま、千雪にばらしたのは、僕でも千雪の母親でもありません。小泉瑠依ですよ」
茅乃は怪訝そうに建留から千雪へ、そしてまた建留へと目を転じた。
「おじいさん、小泉社長は嘘の情報で千雪を脅してきました」
「脅しだと?」
「そうです。おばあさまはご存じのはずです。月曜日の会議のあとには退陣を迫りたいと思います。ご協力を願えませんか」
「心得ている」
滋は茅乃を流し目で見ながら賛同を示した。
すると、茅乃はおもむろに立ちあがった。
「わたしは認めませんよ。それに、わたしはあなたのおばあちゃんじゃないわ」
ひと言云わなければ気がすまない。そんなセリフに聞こえたが、裏腹に、虚勢にも感じた。
建留の部屋に入るのは、三年半ぶりだった。そのうちの約半分が異国にいて不在だったことを考えれば、家具の配置や雰囲気が少しも変わっていないというのはおかしくもないが、千雪は感傷を覚えた。
「建留は……その気になれば、ひどく非情になれるんだね」
着替えていた建留は、チノパンツのジッパーを上げかけていた手を止める。ベッドに腰かけた千雪を振り向いて、ふっと笑みを漏らした。
「どういう意味で解釈すればいい? 怖い?」
「ううん。最初に会った日もそうだったし、たまにそういうところ見てきたから怖くはない。ほかの人に対しては、いつもイイ子ぶってるからびっくりするだけ。おばあちゃんにそうするなんて思わなかったから」
「イイ子ぶってる?」
可笑しそうに吹いた建留だったが、次の瞬間にそれは、やる方ないといったため息に変わった。
「傷つけるとわかってて云った。最低だ。人にとやかく云える人間じゃないな」
自嘲した声には、それ以上に、ほかに方法がなかったのか、そんな苛立たしさが混じっている。
建留がやさしいのはポーズじゃなく本物だというのはわかっている。それは、ぎすぎすした加納家ではなく仁條家で育ったものに違いなく、それなら、子供だった建留にとって失った家族はとてつもなく大きかったはずだ。
建留は、昨日のスーツ姿から細身のシャツにパンツ、それに薄手のセーターと衣装替えを終わると、千雪に近づいてくる。ジャケットを羽織ればカジュアルすぎることはない。
建留はすぐまえにかがんだかと思うとひざまずいた。
千雪がほんの少し見下ろす側になったせいか、乞うように見えた。両腕が伸びてきて千雪の頭が引き寄せられる。その肩に顔をのせながら千雪は建留に手をまわした。
すると、いつもぴんと伸ばしたタフな背中が痛みを堪えているかのようにたわんでいた。建留の額がうなだれたように千雪の肩にのる。
そうしたしぐさに、会社の喫煙室で見せた攻撃性と、おそらくは対照的な激情が見えた。建留が時折千雪に晒す、転々と変える雰囲気は抑制しきれない心の動きが漏れているのに違いなく、茅乃に対して千雪が云ったように、建留はいろんなことに気をまわして感受している。
非情、ではなく、建留はむやみに感情を吐くただの少年に返っていたかもしれない。
そんなときに口にしてしまってから集うのは、本気で云ったわけじゃない、と、やっぱりそんな後悔だ。
「建留、おばあちゃんはわかってると思う」
そう云ってみたが、聞き届けたのか受け流したのか、建留は応えるまでに時間が要った。
「ガキっぽかった。けど、整理がついた気もする。ころころ変わる環境についていけなかった。どうしたらここで受け入れてもらえるのか、いまだにわかってないんだ。だから、なんにつけても応えないと、って、パーフェクトであろうとしてきた」
「建留はちゃんとこの家の人に見えてた」
建留はゆっくりと顔を上げた。
「千雪」
すぐまえにいる建留はかすかに笑っていて、ちゃんと目を合わせて話しているのにもかかわらず、わざわざ呼びかけた。
「フォローしてくれるとは思ってなかった。あれで、ばあさんは助かってる」
「そう?」
「自覚してない? まあ、計算じゃないからこそ、救いになるんだろうけど」
「……家を出るって本当にそうするの?」
「同じ失態を演じるつもりはない。……というのは建て前で、ロンドンでの生活が忘れられないかもしれない」
建留はシニカルに笑って顔をわずかに傾けた。呼吸が絡み、触れる――と目を閉じかけた瞬間、ノック音が部屋に響く。
「旭人だ」
こもった声が名乗った。
キスのかわりに、ため息が千雪のくちびるに触れる。
建留は立ちあがると、ドアのほうを見やった。
「入っていい」
「じいさんが書斎に来てくれって云ってる。ジアイマーラ一行の出迎えのまえに話したいそうだ」
「わかった。ちょっと行ってくる」
「うん」
建留が出ていくと、旭人もそうするかと思いきや、千雪が勉強するのに使っていたテーブルの椅子に座った。
「やっと一緒になれる感想は?」
旭人はからかった声で問いかけた。
「旭人くんのお母さんのこと、建留からちゃんと聞いた」
あからさまに千雪が話を逸らすと旭人は失笑し、そしてため息に変えた。
「父さんと母さんは社内恋愛のすえの結婚だった。ばあさんは、それが気に入らなかったみたいだ。じいさんと愛人……」
そこで旭人は肩をすくめて「ああ、悪い、千雪のばあさんだ」と云い直した。
「厳密にいうと違うと思うけど、普通に考えれば愛人って立場は本当のことだから、旭人くんが謝ることない」
「ああ。ばあさんは、父さんたちを見て思いだしたんだろうな。もしくは、幸せそうに見えて妬んだのか。結婚してから母さんへの風当たりが強くなった。それなのに、なんの負い目があったか知らないけど、父さんはかばうこともなく放置してた。幼稚園児が感づくくらいだ、母さんの気持ちが離れていくのは当然だろ。離婚はやむを得なかった。ただ、おれは母さんが恋(こ)いしかったらしい」
自分のことなのに客観的に云った旭人の笑顔は、少年のような照れ笑いに見えて、千雪は呵責、あるいは歯がゆさを覚えて胸が痛む。
旭人に特定のカノジョがいたことはない。それが幼い頃の傷(いた)みのせいじゃないとは云いきれない気がした。自分だけが――千雪はそんな咎(とが)に駆られる。
「旭人くんとおばあちゃん、ほとんど話さないからどうしてだろうって思ったのは最近。でも、おばさまとは普通に親子に見える」
「継母(かあ)さんはやさしい人だ。生まれつき子供ができないって聞いた?」
「うん」
「だからかな、兄さんもおれも、分け隔てなく育ててくれた。どうしても遠慮はあるみたいだけど。継母さんは、昔はばあさんもやさしかったって云うけどな。おれは見たことがない」
「旭人くんはわたしのこと、嫌いじゃなかった?」
「じいさんの愛人のせいで始まったことだから?」
千雪は沈黙することで肯定を示した。旭人は薄く笑みを漏らし、首を横に振った。
「悪いのは愛人だけじゃない。じいさんも悪い。たぶん、兄さんが云ってたように、ばあさんもな。千雪が来たとき、またひと騒動あるっていう面倒くさいことは予想した。反面、いいようにしてきたばあさんが、人生の最後にしっぺ返しを喰らえばいいって思ったな。ばあさんごひいきの兄さんは千雪に興味あるみたいだったから」
いつも興じるような雰囲気だったのはそういう気持ちがあったゆえだろうか、皮肉っぽく聞こえた。
「旭人くんは建留のこと、ずるい、って云ってた。それって財産とか、後継者のこととか?」
「その問題はまえに云っただろう、器が必要だって。血縁というだけで社長なんてやれない。業平みたいに大きければ大きいほど。おれがずるいって云ったのは、兄さんは周りに本心を一切明かさないし、ケチがつかないように計算して動いてるってことだ。おれは、ばあさんのご機嫌なんて取ろうとか思ったこともないけど、兄さんはそのへんを心得ていた」
「建留は加納家に受け入れられるのにどうしたらいいかわからなかったって」
「ああ」
旭人は相づちだけ打って窓の外に目をやり、そのさきに何を見ているのか、しばらく感慨に浸っていた。
「兄さんが嫌いだったって云ったことあるよな。兄さんはあのとおり、加納家に来たときから粗相がない。少なくともおれからは平然と居座ってるように見えてた。母さんが死んだときに気づいた。兄さんは平然としてたんじゃなくて感情に欠けてた。おれは、自分のせいで母さんが死んだことはわかってても、死というのがよく呑みこめていなかった。おれも欠けてたんだ。葬儀があってからしばらくたった頃だ。母さんが好きだった場所――バラ園が一望できる二階のバルコニーで、寒いのを我慢して宿題の日記を書いてた。離婚のあと、そうするのは習慣づいてたんだ。そしたら兄さんが来て、おれが宿題するのを眺めてた。それまでも話すことはあまりなかったし、最初のうちは無視してたけど、ふっと見たら腕で目を擦ってるんだ。母さんが死んだことを、兄さんはおれのせいなんだって云ってさ。おれのせいだ、って云い返して、また兄さんは云い返す。そんな云い合いのケンカしながら、ふたりで泣きわめいたかもしれない。それがあったから、おれはいまでもここにいるんだと思う。あの頃の記憶ではっきり思いだせるのは、事故の瞬間とそれくらいだ」
「建留も……云ってた。建留の両親が亡くなった頃のこと、あまり憶えてないって。両親たちが亡くなったことも自分のせいだって云うの。乗り越えてるって云ったけど……。旭人くんがいたからかも」
「千雪が泣くの、はじめて見た。千雪を嫌うとか嫌わないとか、なんの根拠もないだろ。その頃、よちよち歩きだった千雪に何ができたって云うんだ」
旭人は可笑しそうに笑った。
「おれは、母さんから未来にあったかもしれない幸せを奪ったぶん、兄さんのためだったらなんだってするって思うようになった。器用なようで器用じゃないからな。“おれの家族”という形は壊れて、それは何年もたって再現された。兄さんと千雪がいて、そこにばあさんが入って。まるで、キャストを入れ替えただけの芝居を見ているように感じてた。ただ、脚本は若干違ってたな。兄さんは父さんと違って、千雪を守ろうとして、ばあさんに突っかかってたから。結局は離婚まで繰り返された。けど、望みはあった。少なくとも、兄さんはあきらめてなかった。おれが兄さんに似てきたって云ったよな。そうしてきたから当然そう思ってもらわなくては困る。千雪が兄さんを忘れないように。おれは、兄さんの身代わりに小泉瑠衣と結婚したっていいと思ってた」
千雪は涙が引いてしまうほど驚いた。見開いた目から下まつ毛を伝い、雫がひと粒(つぶ)落ちて手の甲で弾ける。
「……どうかしてる」
旭人は冗談でもないふうに肩をそびやかした。
「ああ。その必要なくなったみたいだけど。千雪、過去のことで泣くくらいなら、だれに何を云われようが、兄さんの傍にいてやれ」
「うん。ありがとう」
義姉さん――と旭人がそう呼ぶことにこだわりを見せていたのは、ずっとそうであるように――そんな思いが潜んでいたのかもしれないと千雪は思った。