ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第6章 Become one
3.ファム・ファタール
例えば繭(まゆ)のなかだったら、一糸纏わぬ無防備な姿でいても、こんなに安全でこんなに温かいのかもしれない。
反面、幽閉されたのも同然で、危険が伴っている。そのとおり、突然、背中をかばうようにしていた温かさが凶器に変わった。
う……。
その呻き声は自分のものか、額に触れる呼吸が生んだものか、判別がつかなかった。
千雪は一気に目覚めて、夢のなかで凶器に変わったものが何かを悟った。
「た、つる……!」
息が詰まって抗議は囁き声にしかならない。
背中にまわった腕が千雪を引き寄せ、痛いほど締めつける。そして、呻き声が建留のくちびるから漏れ、自分が苦しみに遭わされているかのように喘ぐ。声をかすらせてつぶやいた言葉は、ちゆき、と聞こえた。
それがどういうことか、千雪は四カ月まえに建留から聞かされたことを思いだす。
「建留、起きて!」
息苦しさに喘ぎながら精いっぱいで叫ぶと、建留の躰がぴくりと反応した。腕の力が緩み、千雪は呼吸を整える。
「千雪」
「大丈夫」
そう応じながら見上げた建留は千雪と目を合わせながら、まだ状況を把握していないような顔をしている。つかの間、揺れた瞳は瞬きとともに意思を宿した。建留は千雪から腕を解くと、仰向けになって脱力したように深く息をついた。
「大丈夫?」
さっきは千雪がその答えを暗に求められたが、今度は建留のばんだ。片腕で目を覆いながら、「ああ……嫌な夢を見た」とため息混じりで返ってきた。
「まえに云ってたこと?」
千雪の問いには答えず、かわりに薄らと笑って「何時?」と建留は話を逸らした。
昨日の建留の慌てぶりはひどい有様に見えた。起きあがるにも喋るにも、そうしたらすぐさま戻しそうなくらい、自分が無様だったことを棚に上げて、千雪はそんなことを思う。考えたこともない短命という言葉も千雪を驚かせたが、それが嫌な夢に繋がっているのかもしれなかった。
建留を慌てさせた発端、千雪がお酒を飲んだのは、不安に駆られたからだ。
さみしさのせいで、芳明みたいにお酒に逃げるかもしれない。逃げるのが得意なのはきっと芳明似だ。芳明が麻耶に甘えていたように、千雪も建留に甘えている。表情の乏しさだけではなく、そんなところも似ている。そう思うことすら、人のせいにして逃げているのだ。
美味しいとか味覚の問題ではなく、躰がアルコール欲するのか、そんなことを試してみたくなった。結果は、逆に躰は拒絶して、アルコールを排出する破目になった。
そんなばかげたことで建留に負担をかけてしまい、千雪は情けなく反省をする。どんな言葉が建留を安心させられるだろう。
「建留、いまは、ずっとまえは助からなかった病気も助かるようになってる。お母さんだって大丈夫だったし」
建留は力尽きたような笑みを漏らした。
「まあな。おれの寿命は短くなってる気がするし、案外、最後は千雪と一緒になるかもしれない」
「……どういう意味?」
何か云い含まれているような気がして訊ねてみると、建留は口を歪めて笑った。
「人間の寿命、つまり生きている間のトータル心拍数は変わらないっていう説がある。千雪と会って以来、おれはかなり心拍数を稼いでると思う」
「ひどいと思う」
「半分は千雪にとっていい意味のはずだけどな」
「意味がわからない」
「わかるべきだ」
からかうような口調からすると教える気はなさそうで、千雪は早々とあきらめ、うつ伏せになってベッドサイドに置いた目覚ましを確認した。
「いま七時」
「けっこう寝てたな」
すぐさま逆算したらしく、建留は少し呆れたように云った。千雪にしろ、このところ良眠とは云えない日々が続いていて、久しぶりの熟睡だった。
「途中、グレイシャスに寄っていく」
「ホテル?」
「ああ。改装の具合をチェックしてほしいって設計から連絡があった」
「旭人くんから聞いたけど、担当には麻土さんもいるんでしょう? 間違いないと思う」
「ザイドが細かい文句を云うとも思えないけどな」
「でも、どうして二部屋? 一部屋でも充分広いのに」
「シークレットな同行者がいるそうだ」
「だれ? 婚約者とか愛人とか」
と、思いつくまま自分で云っておいて、そのキーワードに千雪は顔を曇らせる。
「千雪」
「なんともない」
そう答えると、建留は呻くような息を漏らし、片肘をついて上体を起こした。
「そういう嘘を吐くからおれが不安になるって気づいてくれ。おれがずっと隠してきた一番の理由は、千雪がそれを知ったらおれから逃げるってわかってたからだ。頼むから、おれたちふたりを左右するようなことを、黙って独りで解決しようなんて思うな。約束してほしい」
建留の頼み事はせっぱ詰まって聞こえた。
「……なんともなくはない。これから、建留といられるのか、まだ不安なの。でも、建留のことは何も疑ってない。何をすれば少しでもよくできるのか、考えてる途中……」
正直に云いかけているさなか、建留はにやつきだした。千雪はいったん話すのをやめ、それから「何?」と用心深く見つめた。
「おれと、いたい?」
それはからかう声で、言葉に詰まった千雪が答えるまえに――
「やっとストレートに近い言葉が聞けた」
と、建留は笑った。
それが、本気でおもしろがってそうしたのなら千雪は怒ったかもしれないが、なぜか安堵しているように見えたから、睨みつける気にさえならなかった。建留が千雪のことで、どれだけ心的負担を抱えているのかわかっていくような気がした。
ふと、建留の視線が千雪の顔から下へと落ちる。目を伏せたせいでまつ毛が影を落としたのか、それとも心中を曝しているのか、建留の瞳が烟(けぶ)った。
肘をついてうつ伏せになった千雪の胸は剥きだしだ。裸だったらすぐには逃げられないで、おれが捕まえる隙がある――とそう云って、パジャマは着させてもらえなかった。冗談でもなく、ごく真剣なセリフだったことは目が覚めるまで腕が少しも弛(たゆ)まなかったことが証明している。
もしかしたら、昨夜、性的な意味で抱かなかったのは、そうすることで疲労させたすえ縛るのではなく、千雪の意思で逃げないということを確かめたかったのかもしれない。そんなことを思うほど、昨日の建留は、ほっとしていると云いながらも安堵とは程遠く神経を張りつめていた。いまもまだ緊張は抜けきっていない気がする。
「おれにとって、千雪にはファム・ファタールって言葉が合う」
「……いい意味? 悪い意味?」
「どっちも」
建留はそう云いながら、千雪の左腕を取って自分の頭の後ろにまわさせた。千雪はちょっとバランスを崩し、同時に建留がまえのめりになって、千雪の躰を支えるかわりにくちびるをすくう。
ベッドのなかにいるにしては往々にしてある性急さはない。かといって、やさしさではなく、征服欲のほうが前面に出ている感じだ。吸いついたかと思うと、ソフトクリームを堪能するかのようにくちびるを舐める。まるで、そうすることで自分を静めている荒くれ者のレオパードだ。
口のなかへと侵してくるわけでもなく、いつまでもそうしているから、くちびるが腫れぼったくなったように感じた。
「建留……」
キスの合間に呼びかけると、建留はくちびるを離して起きあがり、千雪のうつぶせにした躰を跨(またが)った。
背後から耳たぶが襲われて全身が粟立つ。おなかの奥がきゅっとしまった。それから建留のくちびるは背中を伝い、お尻をのぼる。緩く咬まれて、その直後には吸着する。
「建留!」
じれったい感覚に思わず叫んだ。
含み笑いとともに躰が仰向きにひっくり返される。
「今日はキステラピーだ」
真上から建留は囁いた。
右肩にくちびるが触れ、察したと同時に痛みが走る。
「い、た……っ」
その痕を建留は舌でねぶり、癒やしていく。痛みが薄れて千雪の肩から力が抜けると、建留の舌は鎖骨を伝い、ゆっくりと谷間におりた。そして、頂(いただき)へとぐるぐると遠回りしながらのぼっていく。
じかに刺激されるまでもなく、そこは待ちかねて、きっとあからさまにつんとして催促している。たぎるような熱のなかにくるまれたとたん、全身にふるえが走った。けれど、建留はテラピーということに徹底しているのか、左右を行ったり来たりするだけで性的に煽るような刺激はせず、千雪のなかにじれったさだけを募らせていった。
「ん、ふっ……建留……」
呼びかけると建留は胸先に舌を絡めながら吸着して離れていく。
あっ……んっ。
焦らされた挙げ句の刺激は強烈で、躰をくねるのに合わせて千雪の感覚は緩くのぼった。
「ちゃんとイきたい?」
潤んだ瞳の向こうにいる建留はひどく誘惑的に見えた。千雪が目を伏せると「オーケー」と勝手に解釈して建留は躰を下へとずらした。
「寒くない?」
躰はのぼせたみたいに火照っている。
「……ん」
「もっと熱くなればいい」
控えめにうなずくと建留はくちびるを歪め、けっして間違っていない解釈のもと、千雪の腿を裏側から支えて押しあげた。
躰の中心が外気に晒されると、濡れそぼつそこは空気の冷たさを知る。そんな冷気から熱を守ったのは、建留のキスだ。花片が建留の口のなかに含まれる。躰は勝手に期待して身ぶるいをした。やはり焦らすように舌がふわりと敏感な神経を持つ場所を撫でまわる。
やさしくされることが苦しいなんて知らなかった感覚だ。
あ、あぅんっ。
腰をよじりながら発した、苦しさまぎれの嬌声は、建留を煽ったのか、ただの合図になったのか、突然、花片が吸いあげられ、舌が先端をつつく。
「あぅ、だ、めっ」
漏れると思うのは錯覚にすぎないが、そんな不安に駆られ、そして一瞬の時が止まったような感覚のあと、ひどい痙攣を伴って快楽が放たれた。
建留は再び隣に横たわると、びくつく千雪の躰を引き寄せた。密着した下腹部に建留の欲情が触れるが、いま以上のことを仕掛けてくる気配がない。
「建留?」
「しばらく気をつける。ほんとに野生化しそうだ」
なぜ、しばらく、なのか、千雪はよくわからないまま、時折ふるえるという快楽の名残がおさまるまで建留の躰にくるまれて微睡んだ。