ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第6章 Become one
2.レオパードの絶対領域
結局、千雪には何度電話しても通じなかった。栞里にも電話してみたが、一緒ではないという。
建留は電車を乗り継ぎ、マンションに着く頃には駆けるように足早になっていた。マンションにいるのかさえわからない。
頭をよぎるのは、千雪の祖母のことだ。滋のまえから姿を消したように、千雪もそうするかもしれない。そうしたときに、探す手立てとして両親という身寄りがあることは救いになるのか。
エントランスに入ると、管理人に会釈するのもそこそこに奥へと行き、持っている合鍵がノンタッチでドアを開錠するなか、建留はエレベーターホールに進んだ。
五階に上がるまでにももどかしさが募る。自分をなだめる材料はないかと物色すると、会社は退職届を受理したわけではないし、千雪が無責任に仕事を投げだすとも思えない――と、建留はそんななぐさめを見いだす。
千雪の部屋まで来ると開錠されるや否やドアを開いた。
「千雪」
玄関先は自動的に照明がついたものの、呼びかけても室内はしんとしている。廊下に出てリビングに行った。ドアを開けながら明かりが漏れると、ちゃんとここにいるのだと安堵する。
だが。
室内に入って素早く見渡したとたん、ソファの下のカーペットに寝そべった千雪が目に入る。
いや、違う。
ブランケットを羽織るでもなく、仕事から帰って着替えもしないまま――
千雪は、倒れていた。
「……千雪っ」
振り絞るような叫び声をあげ、建留はダレスバッグを無造作に放りながら、千雪のもとに急いだ。滑りこむようにひざまずく。
横向きになった千雪は、胸もとで手を交差していて痛みに足掻(あが)くように見えた。
最悪の事態を脳裡に描きながら頬に触れた。手がぶれて見えるのは視界がおかしいのか、それともふるえているのか。
体温はちゃんと感じられた。口もとに手をやれば呼吸も感じとれる。だが、顔色は悪く、建留の呼びかけに反応することも目を開けることもない。
どういうことか考えられない。建留は自分がパニックに陥りかけているのだけわかった。
「千雪!」
無意識に名を呼ぶと、かすかだったが呻くような声が反応した。
「千雪? どうしたんだ。どこが痛む?」
もうだめなのか、助かったのか、絶望と安堵の区別もつかず、建留は急くように問いかけた。首の下に腕を入れ、千雪の上半身を抱えた。
すると、再び千雪が呻く。
「動かさ……ないで」
「わかった。救急車を呼ぶから……」
「ち、が……」
「違うって何がだ」
ヒステリックすれすれの声で叫んだ。千雪は目を閉じたまま、眉間にしわを寄せている。
「吐き、そうな……だけ」
「だから具合が悪いからそうなるんだろ。すぐ……!」
「お酒、合わなかった……みたい」
千雪は胸もとに置いた手を片方だけ浮かすと、人差し指でテーブルを指差した。
その方向を見ると、ワインと冷酒に熱燗(あつかん)、そしてビールがテーブルに並んでいる。建留の五感は鈍っていたようで、感覚を働かせると、いつものローズではなく日本酒の匂いが漂っている。おまけに――
「酒臭い」
笑いたくなるほど建留は気が抜けた。
「吐きそ……」
「急性アルコール中毒になってないだけマシだ。大学んとき死にかけた奴がいた。意識ははっきりしてるな?」
「ん」
喋るのも、ましてや身動きすらも嘔吐(おうと)を招きそうなのだろう。千雪は最小限の返事をした。
「吐いたほうがすっきりする」
千雪が吐き気に喘ぐのもかまわず、建留は抱きあげた。
トイレに連れていっておろすと、「向こうに……」と千雪は云いかけて口をふさぎ、次には吐き始めた。何度か吐きだしたあと、嘔吐(えず)く程度におさまっていく。
建留はそれを見届けてから、向かいにあるパウダールームに行った。タオルを一枚取って濡らす。
タオルを絞っていると、何気なく見た洗面台のオープン棚に、見かけない小箱があるのに気づく。手にして眺めた刹那、建留は自分が何を思ったのかよくわからなかった。
立ち尽くしていると、「建留」と力なく自分を呼ぶ声がした。
小箱をもとの場所に戻してトイレに戻ってみると、千雪はふたを閉めて寄りかかっていた。
「大丈夫か」
「このまま寝たい」
「ここで?」
「うん」
建留は口を歪めて笑い、千雪の口もとにタオルを宛がって拭いてやった。
ぐったりした千雪を立たせ、パウダールームに連れていくと、洗顔と歯磨きをさせる。ふたりとも汗を流す程度にシャワーを浴びて、それから建留は千雪をベッドに運んだ。
建留はいったんパウダールームに戻って、正月に来たとき結局は使わないで置いたままにしていた下着とスウェットを身につけた。
まだ煽られたような気分で、それだけに冷静になる時間が必要だった。
空腹感もどこかに押しやったまま食欲があるわけでもないが、建留は食料を探した。冷蔵庫を漁(あさ)ろうと開けると、調味料と葉物だけというほぼ空っぽの状態で、建留は顔をしかめる。隣の棚を開ければ、かろうじてストックされているカップ麺を見つけた。
湯を沸かす間に寝室に行くと、千雪は体力を使い果たしているようで、建留が連れてきたときのまま同じ姿勢でふとんのなかにいた。
「寒くないか」
「うん」
ふとんの下からくぐもった声が答えた。
「ちょっと食べてから戻ってくる」
しばらく待っても返事はなく、建留は千雪の頭に手を置いて、髪を撫でるようにしたあとリビングに引き返した。
気分が少し回復して冷静に考えられるようになったのだろう。千雪のいまの沈黙が葛藤からくるものと察するのはたやすい。拒絶と、建留の思いこみでなければ、恋着と。その間で千雪は立ち往生しているに違いなく。
説得できるのか、そんな絶対の自信はなく、自分の非力さが身に沁みる。
めったに食することのないカップ麺は好物だが、今日に限っては味がわからないまま食べあげた。
栞里に連絡しなければならないと考え至ったのは、携帯電話のランプが点滅していることに気づいたときだ。頭がまわっていない証拠だ。
旭人にも連絡したあと、ついでに家に連絡して外泊する旨を伝えた。電話に出たのは浅木で、外泊先が千雪のところだと家人に伝達されることはないだろうが、だれもが察しはつくはずだ。
正月、そうしたときに茅乃がひと言も咎めなかったのは、軟化しているせいか、千雪がケガしたことへの同情心か、あるいは、別のことに気を取られていたせいか。
それらをはっきりさせるのは明日だ。
酒を片づけて、パウダールームで歯をみがいていると、また小箱が目につく。
夢がすぐ手の届く場所にあるのなら、とことん貫くことしか考えられない。
寝室に入ってベッドの脇に行くと、横向きになった千雪の正面でかがみ、建留は床にあぐらを掻いて座った。
眠っているかと思いきや、千雪はゆっくりと瞬きしながら目を開いた。
「独りで酒を飲むことなんてなかっただろう?」
「お父さんと似てるかなって思って……試しただけ」
「お父さんは長年の積み重ねでそうなったんだ。普段、飲まない千雪がお酒をがぶ飲みできるわけがない。酔っぱらうんじゃなく、動けないくらい吐きそうになるのは体質に合わないって可能性もある。それに、吐いたのはほとんど水分だった。すきっ腹に酒をミックスすれば悪酔いする。似てることの比較にはならない」
「でも、アルコール依存症は遺伝だって」
「確率は高いかもしれないけど……なんで、そんなことを気にする?」
「……ジアイマーラは許可ないとお酒買えないし、だからジアイマーラで暮らしたら、そんな心配しなくてすむかなってヘンなこと考えただけ」
答えるのにためらった千雪は、真意とは違うことを口にしている。建留は顔をしかめた。
「急に依存症の心配するってだれに何を云われたんだ?」
千雪は目を閉じて、建留をシャットアウトする。
「千雪、おれを締めださないでくれ。話したら解決できることはある。けど、話さなきゃ、終わりも始まりもない。おれたちは、そうしなきゃならないほどの気持ちを持ってる。おれは捨てられる、加納家も業平も」
千雪はぱっと目を開いた。
「だめ! それをやったら……!」
「それをやったら、何?」
千雪は口を噤んだまま建留を見つめる。
「千雪、おれは一から始まることになっても怖くない。けど、千雪がいない無からは始まらない。時間を生き延びるしかなくなる。それでも、おれを見棄てる?」
千雪のびっくり眼は驚愕に満ちている。言葉を失ったようにしていたが、やがて。
「そんなのじゃない」
千雪は力なく否定した。
建留はそれだけのことに一縷(いちる)の道が開けたような気になる。無力さの裏返しだ。笑みまがいのため息を一つついて建留は口を開いた。
「千雪、おれは、本当は加納家の人間じゃない。実の両親は亡くなってる。昔の名は仁條建留っていう」
唐突に切りだしたにもかかわらず、千雪は、今度は驚かなかった。やはり、瑠依から聞いたのだ。
「建留……」
「聞いてほしい」
「……うん」
「小学一年生のときの話だ。その日の午後はマラソン大会だった。小学校に入ってはじめてだったし、両親と祖父母がそろって学校に向かっていた。その途中で、居眠り運転のトラックに追突されたんだ。車はコントロールを失ったあと、ぶつかった塀とトラックに挟まれた。だれがだれかは判別できたけど、そう云わなきゃいけないくらい、ひどい事故だった。おれは、遺体が修復されるまで会わせてもらえなかった。本当を云えば、その頃の記憶はあまりはっきりしない。たぶん、認められなかったんだろうな。鮮明に残っているのは、おれのせいで四人は死んだってことだ」
「建留!」
千雪はショックのあまりか、かすれた叫び声で建留を呼んだ。
「大丈夫だ。乗り越えてるから。仁條家は知ってのとおり、ばあさんの里だ。いちばん行き来があって近い親類といえば、ばあさんだった。正月、千雪はばあさんの初恋の話をしたよな。おれは、その初恋の人――祖父に似ているらしい」
「最初、加納家に来た頃、建留、建留って……おばあちゃん、いつも云ってて不思議だった」
「ああ。事故のあとの経緯は知ってるだろう?」
千雪は“知っていること“を認めるのか認めないのか、建留は返答を待った。
「うん」
しばらく迷ったようにしたあと、千雪はうなずいた。千雪が認めることにどれだけの重みを置いていたのか、建留は前進できた気がして、自分でも驚くほど肩から力が抜けた。
「どう聞いたか――千雪がどう理解したか、そのままを話してくれ。違ったことがあったら訂正する」
そうして千雪は、そうすれば痛みが和らぐかのようにぽつぽつと語った。掻い摘んだそれらはほぼ事実に添っていた。ただ一箇所、千雪の口調から建留は間違ったニュアンスを聞きとった。
「わたし、考えたの。建留が復讐の道具だって云ってたこと。おばあちゃんはおじいちゃんにも復讐してる。おばあちゃんは自分への償いだって云った。後継者を、おじさまでも旭人くんでもなくて、おばあちゃんは建留にって願ってる。おじいちゃんは、わたしとの結婚を条件として、おばあちゃんの希望を叶えたの」
「そのとおりだろう。けど千雪、一つ誤解していることがある」
「……何?」
「旭人の母親は自殺じゃない。事故だった。もともと、ばあさんと旭人の母親は折り合いが悪かったらしい。そのせいで父さんとの関係も悪化していった。離婚は、旭人によれば、母親には願ったりだったところもあるみたいだ。旭人は定期的に母親と会っていて、事故はそんな日に起こった。旭人は、加納家に帰りたくないと駄々をこねた。迎えの車に乗るのが嫌だと云って、車が通りかけた道路に飛びだした。母親はそれをかばったんだ」
「……目のまえ、で……?」
建留がうなずくと、千雪の瞳が揺れだした。
「旭人は自分のせいだと思ってる。おれの両親たちの場合と違って、加害者の運転手は真の意味では加害者じゃない。それはだれも否定できない。だから、旭人のせいじゃない、そうなぐさめても旭人には救いにならない。けど、違うんだ。おれが旭人から母親を奪ったのも同じだ」
「……どうして……そんなこと、ふたりとも思わなくちゃならないの? おばあちゃんから――わたしの本当のおばあちゃんから始まってることなのに!」
千雪は言葉を詰まらせながら悲痛に叫ぶ。建留は手を伸ばして、鼻根に溜まりかけた雫(しずく)を親指で拭い、笑う。
「千雪、傍(はた)からはそう見えるだろう?」
「……建留?」
「旭人も千雪もおれも、みんな自分のせいだと思ってることがある。けど、おれは、ふたりが抱えてる呵責(かしゃく)を、旭人のせいでも千雪のせいでもないと思ってる。千雪がたったいま、旭人とおれのことについてそう思ったように」
千雪は、建留が口にしたことの意味をゆっくりと咬み砕くような様で、一心に見つめてくる。
やがて、千雪はふとんから腕を出して、おずおずと手を伸ばしてきた。
小動物を手懐けている気分で、建留は口もとを歪める。建留がその手をつかむと、笑ったことを責めるようにきつく握り返してきた。
「建留……わたしが来て……憎んだことない?」
建留は考えたこともない質問に驚いたが、千雪がそういう考えに至るのは理解できる。
ただ、千雪がだれかを知るまえに建留は出会ってしまった。感情が麻痺していたような時期だった。だからこそ、そのときに生まれた、かばってやるんだ、そんな気持ちは建留の一部として心底に沁みついて剥(は)がすことなど不可能だ。
「そういう感情を覚える暇がなかった」
「助けてくれたときは全然やさしくなかったから」
「オスの本能だ。テリトリーを荒らされて穏やかでいられるはずがない」
「テリトリー?」
「千雪はおれの絶対領域だ」
「はじめて……」
と、千雪は云いかけてやめ、そしてあらためて口を開いた。
「ちゃんと云えば、会ったのははじめてじゃなかったけど……それなのに?」
「はじめてじゃなかったからだろう」
察してくれ、と足掻く気持ちをごまかすように、建留は肩をすくめて苦笑いをした。
「建留」
「何?」
「わたしのことで……あの男の人にお金を渡してるんでしょ。それが、加納家のスキャンダルになるって」
建留は眉をひそめた。
「……小泉社長が?」
千雪はかすかにうなずいた。
「どういうことだ?」
「わたしが襲われたこと、お金で口封じしたって。だから、それが世間に漏れたら、加納家は暴力団と繋がってるっていう話になってしまう」
「襲われてない。襲われかけただけだ。おれが助けたはずだ」
「でも、そういう話になるって……」
目を細めると、睨むように映ったのだろう、千雪の説明は尻切れトンボになった。
「確かにそういう話になるかもしれない。けど、そうなれば名誉棄損で訴える。それに、おれは……加納家は口封じのための金は一切渡してない。そうしたら、ああいう連中は弱みと踏んで付けこんでくる。渡したのは、お父さんの借金ぶんだけだ。しかも、法定金利の範囲内で。決着はついているし、疾しいような問題は何もない」
「……ほんと?」
怖れさえ見せて不安そうにしていた千雪は、あからさまにほっとした様子に打って変わった。
「そう脅されたのか?」
千雪はためらいを覗かせつつもうなずいた。
「仕事のことかと思っていた」
「それもある」
建留は深く息を吐きだした。
「話しておくべきだったかもしれない。小泉社長が身辺調査しているのは知っていた。先回りして、情報を流したのはこっちだ。あの男については偽物を仕立てて、けど、嘘を吐かせたわけじゃない。小泉社長はでっちあげたんだ。脅しはおれにくると予測していた」
「それならほんとに加納家には迷惑かからないの?」
「ああ」
「よかった」
千雪は心底安堵したように息をついた。
「千雪、ありがとう」
「……なんのこと?」
「千雪から話してくれたこと、どれだけおれがほっとしてるかわからないだろうな。けど」
「けど、何?」
「おれが小泉瑠依と結婚することは、千雪が逃げたとしても、気持ち的にも現実的にもあり得ないんだ。千雪が聞かされたでっちあげが事実だとしたら、結局はおれがそれを理由に脅されるし、おれは一生、小泉家に縛りつけられる。脅迫というのはそういうものだ。そんなことに気づけないとか、千雪は間抜けすぎる」
「ひどい」
建留は、自分の手のなかから引っこ抜かれそうになった千雪の手を素早く握りしめて引き止めた。
「正月に加納家で何があったのか早く話してくれてたら、千雪が小泉瑠衣からヘンなふうに過去のことを聞かされることも、おれがまずい食事に付き合うこともなかったんだ。小泉社長よりも彼女から何気なく聞きだすほうが簡単だし、切り札をつかめると思った。嫌な思いさせて悪かった」
「もう……大丈夫なの?」
建留の云い方から何を感じとったのか、千雪の祈るような眼差しが向く。
「ああ。だから、まずはおれたちのことからだ。明日、ふたりで加納家に行く」
「……でも……」
「本来は、じいさんとばあさんの問題だろう? ふたりに解決させるべきだ。おれたちにはどうしようもなかった――生まれてもいないときに起きたことなんだ。そんなおれたちが、なぜあきらめなければならない? 千雪、千雪の血統が短命かもしれないってことを知ってる。こういうことを怖がるとか、バカバカしいと思うだろう? けど、おれは、終わりが突然だということを知ってるんだ」
そう云い終えた瞬間、ふとんから抜けだした千雪は、裸体を晒そうがためらいなく、建留に上半身を預けてきた。背中にまわった細い手が、精いっぱいで建留の背中を抱きしめた。