ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第6章 Become one
1.社長室のパラドックス
三十八階にある社長室は、すっかり煙草の臭いが沁みついてしまった。建留は少し待たされたあとドアをノックし、返答を待って開けたとたん、空気が淀んで感じた。換気が完全とはいかないせいか、小泉社長自身から漂ってくるものか。デスクと応接用のテーブルの上には、かつてなかった灰皿がそれぞれに置かれている。モザイク模様をしたブランドものだが、ゴールドまがいのイエローカラーが主体色で、いかにも権力といった様を誇示してかえって下品に見せる。
同じゴールド系でも千雪のシャンパンゴールドは神秘的であがめたくなるほど建留をいざなう。そんな貴重さがいまは隠れてしまっているが、必ず、そんな意志を心底に秘めて建留はなかに進んだ。
室内に入ってまず目に入るのは遙か向こうまで見渡せる地上の景色だ。いまは七時をすぎて夜景が一望できる。
建留は久しぶりに社長室を訪れて、加納家にやってきてまもなく、滋に連れられてはじめてここへ入ったときのことを思いだした。
『どうだ?』
窓際にふたり並んで、滋は第一声、そう問いかけた。
『ちっぽけです。全部』
『さみしいか』
建留が投げやりに応じるとそんな問いが返ってきた。
認めたくはない。
建留を唯一として見てくれる眼差しは、もう、ない。
正確には、認めることができなかった。認めたら、心底にうずくまったまま立ちあがれなくなりそうで怖かった。
――あなたはいつ見ても永廣さんにそっくり。わたしがついているわ。
そんな言葉を伴って、会った記憶も薄い、取って付けたような母親、華世があてがわれた。華世はやさしかったが、母親、ではない。懐(なつ)く間もなく、気づいたときは仁條の名は取りあげられていた。
おれはどこから来たんだ? そう疑問に思ってしまったほど、仁條家にいた日々の痕跡は奪われた気がして、そして、心底で建留はずっと立ち尽くしている気がする。
『ちっぽけだ。全部!』
叩き割ろうとした窓は、建留の力ではびくともしなかった。本当にちっぽけな力しかない。
『建留』
建留の痺(しび)れた手のひらをつかみ――
『私もちっぽけだ。どうしていいか、わからないんだよ。おまえにここを継がせることしか思いつかない』
滋はほんのかすか、笑みを浮かべた。心底笑うのでもなく、少しも可笑しそうでもなく、ただ、何度も会ってきてはじめて見る滋の笑顔だった。
『ツガせる?』
『おまえの会社になる、ということだよ』
『……ここが?』
『そうだ』
そのときは漠然としか把握することができなかった。ただ――
ちっぽけななかに独りでいるのなら、何も怖がることはない。
そんなふうに悟った。
それから、たまにここを訪れるたび、建留はちっぽけさのなかで安堵していたように思う。加納家という気負いはなく、ここにいれば何かが手に入る、そんな憧憬すら抱いて。
いまになって思い起こすと、それは矛盾(パラドックス)だったかもしれない。ここにいれば、何もかもを排除できる。失ってもかまわない。そんな痛手など取るに足りない。
もしかしたら、何よりも建留は孤独を望んでいた。奪われる哀傷を知っていたからこそ。
建留は幻影を払うようにわずかに首をひねると、小泉社長がソファに腰をおろすのを待って、その向かいに座った。
「月曜日の準備は整いました」
呼びだしたのは小泉社長だが、建留は用件を聞かされるまえに先手を打つ。
「会談は実のある時間になるだろうね」
そうでなかったら容赦できない。そんな意味合いのこもった口調だ。
「第三皇子は三十歳と若くても、UHEでは経済のリーダーとして一目置かれている人間です。ジアイマーラにとって日本は最も優良な顧客です。だからこそ、侮っていたら急所を突かれますよ」
「君が利用されている、ということはないかね」
「どういう意味でしょう」
「君のプランはリスクが大きいということだよ。いつでも戦場になり得る。イラクではなくとも周辺国の事情も同様だ」
「小泉社長、世界を股にかける企業のトップが口にする言葉とは思えませんが。どんなビジネスにもリスクは付き物です。それをどう回避するか。あるいは、カバーするか。問題はそこではありませんか」
「どんな策がある?」
「少なくとも油田に関してイラクは新興国です。イラクについては商事が油田の開発権落札に向けて動いていますし、相乗効果を狙えます。イラクにとって日本が、突きつめれば業平が、ビッグパートナーになるチャンスですよ。もとい、ザイドとは五年来の友人ですが、私が彼にそそのかされているようなら、二重に――人を見る目もビジネスを見極める目もないということになりますね」
「無論、責任を持ってやっていることだろうからな」
「云うまでもありません」
建留がにべもなく応じると、小泉社長はソファから背を起こして、ほんのかすか身を乗りだした。
「加納代理」
「はい」
いよいよ本題に入る様子だ。本題が何かは云わずもがなだろう。
「君と瑠依の結婚について、話を進めさせてもらう」
建留は首を振りつつ薄く笑った。
「私との結婚で何を期待されているんです?」
「娘の幸せだ」
「小泉社長、私はそれほど器の大きい男ではありませんよ」
「……どういう意味だね」
「そのままです。社長もお嬢さんも、私のことを買い被りすぎではありませんか。器用な人間にはなれませんよ。仕事の話でなければ失礼します」
建留はさっさと立ちあがると一礼をして踵を返した。
「プロジェクトの話だよ。難なくゴーサインを出してもいいんだ。私も君とともに責任を持つ」
追いかけてきた言葉は、建留にとって意外ではなく、むしろ、小泉社長が自ら公私混同をほのめかしたことのほうが意外だった。
建留は立ち止まってゆっくりと振り向く。心(しん)から勝ち目があると思っているのか、小泉社長の顎を突きだした様はふてぶてしい。
「お嬢さんとの結婚の話だと思っていましたが。プロジェクトの話は二者で決めるものではないでしょう。月曜日を待てば充分です。初動としてはかなりもたついてますが」
建留は皮肉を込めて、なお且つそうは見えないようにさらりと流し、社長室をあとにした。
このフロア専用の受付のまえを通りすぎ、階段をおりながら建留は携帯電話の録音を切った。念のためにとしたことは、思いがけず小泉社長のぼろをつかむことになった。パワーハラスメントの証拠としても通用するだろう。
“秘密録音”を試みたのは、午後になって、茅乃と常井が面談に至ったことによった。華世発の話だが、旭人によれば、茅乃は千雪と小泉社長の会話を“盗聴”している。瑠依がティルームを貸してほしいと依頼した時点で思い立ったらしい。何が茅乃にそうさせたのか――千雪を追いつめるためか、単なる好奇心か、あるいは不信が芽生えたのか、茅乃の本意がどこにあったのかは不明だが。
デスクに戻ると、ものの十五分も席を外していたわけではないが――
「代理」
待ちかねていたかのように声がかかった。
「設計から連絡がありました。グレイシャスの二室はすべて改装を終えたそうです。できれば、実物をチェックしてほしいと」
ザイド一行の来日によって、グレイシャスホテルの宿泊施設部分の最上階は、ワンフロア全体が貸し切りになっている。なかでも、ザイドが使用する部屋は、和で徹底してほしいという依頼があった。
「わかった。帰りに寄って……」
返事をしかけていると、マナーモードにしていた携帯電話がふるえだした。ポケットから出してみると、麻耶からだった。彼女から電話があるのはめずらしいことだ。
建留は、あとで、と云うかわりに秘書に手を上げてみせ、通話マークにタッチしながら、背後の小会議室に向かった。
「はい、建留です」
『麻耶です。いまいいかしら?』
「ええ、大丈夫ですよ」
後ろ手にドアを閉めたところで麻耶が話し始めた。
『お願いがあるんだけど。おばあさまとお話したいことがあるの。段取りをつけてもらえないかと思って。それとも、いきなり訪問したほうが避けられなくていいかしら。いろいろ考えているんだけど、結果がどうであれ、やっぱりおばあさまは知るべきだわ。母がしたことはいけないことだった。でも、千雪が背負うことじゃないわ。建留さんはこちらの事情を知っていて、それでも再婚を考えたいほど……よりを戻そうとしてる、そう思っていいのよね?』
麻耶がまくしたてるにつれ、どこかいびつさを感じて建留は眉をひそめた。
「僕は、よりを戻すというまえに千雪と別れたつもりはありませんよ。待っていただけです。お母さんのおっしゃるとおり、過去のことは僕たちふたりに限っては関係ない。騒々しいのは外野で、それを排除できなかったのは僕の落ち度です。申し訳ないと思っています」
電話の向こうから長いため息が届く。
『わたしに謝ることはないわ。おおもとはわたしが隠していたせい。母のこと、千雪には、建留さんじゃなくて、わたしが最初に話すべきだったの。建留さんにいまの気持ちがあるかぎり、説得する時間はかかるかもしれないけど、千雪を待っていてくれないかしら』
建留は、思考が止まったのか、目まぐるしく働いているのか、判別のつかない恐慌に陥った。
「お母さん、おれ、が、話したんですか?」
意識なく建留の口を飛びだしたのは、めちゃくちゃな質問でまったく意味をなしていなかった。
建留の間抜けな発言を受け、電話の向こうではハッと息を呑む音が立った。
『母のこと、千雪に話したのは……建留さんじゃないの?』
その質問は建留に確信をもたらし、衝撃を感じながら、だれだ? と自ずと脳裡に浮かぶ犯人候補をピックアップする。
「話すとは云いました。けど、まだ話していないんです。千雪とはいつ話されたんですか」
『火曜日よ』
風邪だと旭人から聞かされて電話した日だった。何か変わったことはなかったか。会話を思いだそうとしたが、うまくいかない。
「今夜、千雪と話します。お母さん、祖母の件はまたのちほど連絡するということでいいですか」
『かまわないわ。千雪のこと共々面倒かけてごめんなさい』
「後回しにしていたのは僕ですから。それに、面倒なのは祖父母のほうですよ」
『笑い飛ばしたいけど、そうするのは解決してからね』
笑い声のかわりにため息を残して電話は終わった。
焦燥に駆られつつ、建留はすぐさま旭人に電話をかけた。
「千雪は?」
通話モードになって間に髪を容(い)れず建留が訊ねると、旭人が応えるまで、一瞬詰まったように間が空いた。
『定時に帰った』
「ここ一週間、変わった様子は?」
『いつものとおりだ。何があったんだ?』
「千雪は昔のことを知っている。ひょっとすれば、おれたちのことも」
電話越しに聞こえるのはオフィスの雑音ばかりになった。やがて、ここでもため息が蔓延(まんえん)した。
『だれが? ……って、もう……』
「ああ。可能性はそれしかない」
『どうする?』
「月曜日の会議が終わればすべて決着をつける。真っ向勝負だ」
『いざとなれば』
「云うまでもないだろう」
『二度めはおれも黙ってないからな』
旭人は忠告とも脅しともつかず、釘を刺して電話を切った。
それから建留はすぐさま千雪を呼びだす。が、いくらコールしても通話には切り替わらない。コールを終わらせると、つかの間、立ち尽くして動けなかった。
類(たぐ)い稀(まれ)な色を纏った幼い千雪に、幼い建留は同じ孤独を察し、あるいは未来にそれを予感し、自分だけは理解者でありたいと思った。
もしくは、もっと単純に――何があっても迫害からかばってやるんだ、そんな、なんの濁りもない思いだったかもしれない。
大人になって芽生えたのは子供っぽいわがままだ。
理解してほしい、おれのことを。
建留は首を振って怖れを拭う。
小会議室を出たのと同時に、秘書とぶつかりそうになった。
「あ、すみません。加納代理、サービスの西崎会長からお電話です」
「西崎会長?」
建留は、はい、という秘書の返事を聞き流しながら眉をひそめた。普段は連絡を取ることもなく、そのうえ遅い時間帯にわざわざ連絡してくるとは何事か。緊急の用事だろうことは予測しながら、建留は受話器を耳に当てた。
「お待たせしました、建留です」
『西崎だ。正月は世話になったな』
「いえ。昔話は初心に帰れますから貴重な時間ですよ」
高笑いが響く。
『近頃は、まさに刷新(リフォーム)という言葉が流行かと思っていたが』
「それはトップがこちこちの石頭だったら、の話ではありませんか。業平は幸いにして通気性がいい。自発的にリフォームが機能してます。換気の悪い人物がたまに無きにしも非ず、ですが」
『だれのことかは訊かないでおこう』
ひとしきり笑い声を立てたあと、西崎会長は『ところで』と要件を切りだした。
『今日、千雪ちゃんと会ったんだが』
思いがけず千雪の名が出てきて、建留は、話しながらメールをチェックしていた手を止めた。
「どちらでですか」
『うちの会社でだよ。帰るときに玄関でばったりだ。総務課長に会いにきたと云っていた。やっぱり気になってな、今し方、総務課長に連絡を取ってみた』
やっぱり、という言葉はためらうようで、何から派生しているかといえば見当はつく。社員たちの噂ではなく、小泉社長が自ら吹聴しているのかもしれない。
だが、それは問題ではない。千雪がなぜサービスの上司に会いにいったか、だ。
「それで?」
『総務課長は退職届を手渡されたそうだよ』
建留が見いだした、もしかしたらという可能性は外れなかった。
「もちろん――」
『保留だ』
西崎会長はすかさず建留のあとを次いだ。
「すみません、ありがとうございます。近々、総務課長のほうには確かな返事をさせてもらいます」
『頼むよ』と云って電話は切れた。
もう仕事をしても、手につかないだろうことは想像するにたやすい。
「代理、どうされました?」
「いや。今日は帰る。設計に、ホテルのチェックは明日の午前にやると伝えてくれ」
「わかりました」
建留はオフィスを出たところで再び千雪に連絡を入れてみた。呼びだし音は鳴っているものの、通じることはない。苛々(いらいら)と焦りながら、携帯電話をしまった。
「建留」
業平不動産直通のエレベーターが到着すると同時に横から声がかかった。
「一緒に帰らない? というよりも、声かけてくれてもいいと思うんだけど」
瑠依は首をかしげ、ふわりとした髪を揺らした。ただのわがままなお嬢さまなら可愛くも見えるだろうが。
「時間の無駄だ。もう“小泉さん”に用はない」
瑠依は険しい面持ちで探るように建留を見上げてくる。
「どういうこと?」
「そのままだ。おれが小泉さんに付き合ってきたのは守るためだ。けど、もう必要ない」
瑠依はますます目を細め、剣呑(けんのん)な雰囲気を装った。
建留は頓着せず、エレベーターに乗りこむ。出入り口に向き直ってボタンを押そうかとすると、何を考えているのか沈黙していた瑠依は外のボタンを押して扉が閉まるのを阻止した。
「千雪ちゃん、喋ったの?」
その問いで瑠依が出しゃばったことは確定した。建留は嗤う。
「不用意だな。人を傷つけるために傷つけるようなことを吐く人間は好きになれない。勘違いしてるらしいから云っておく。おれは純粋な加納家の人間じゃない」
「知ってるわ」
「そうらしいな。けど、それがどういうことかを考えてないだろう?」
「……どういうこと?」
「おれは加納家にも業平にも執着しているつもりはない。財産だってどうだっていいんだ。破棄する用意はある。つまり、おれに固執しても、小泉家にとってはなんの保証にもならないということだ。それでもいいのか? 小泉社長と再考したほうがいいんじゃないか? 手を離してくれ」
きっとした眼差しは消えることなく、ただ瑠依の手はエレベーターのボタンから離れた。
扉が閉まったとたん、建留は深く息をつく。
千雪を傷つける外因はもうなくなった。
あとは――
千雪から千雪を守らなければならない。