ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第5章 プリムドールハウス

5.普通に出会えていたら

 瑠依から話を聞いて以来、千雪は正常に考えられていない気がする。
 日曜日も何をしてすごしたか記憶にないし――実際、何もしていないのだろうが、月曜、火曜と仕事をしてきて、ミスがないのが不思議なくらいだった。食事をちゃんとしているのかもわからない。気づいたら食器を洗っているということもあるから、習慣に添って生活はできているらしい。とりあえず、仕事をしているかぎり、栞里が誘ってくれるから、きっとちゃんと食べている。
 ただ、呼びかけられても一度では聞こえていないことが多いようで、話に集中しているつもりが栞里から何度となく、大丈夫? と気遣った眼差しが向いた。仕事中でも同じらしく、何度めだったのか、旭人が睨むように目を細めて警鐘(けいしょう)を鳴らす。
 風邪気味だと云ってごまかし、それは残業なしで帰る口実にもなって、千雪は時間になるとさっさと片づけて会社を出た。
 代替えのきかない大事なもの。いつか旭人が云った大事なものは、きっと母親のことだ。
 旭人の母親の死が間接的に千雪の祖母のせいになるのなら――いや、明らかにそれが起因であり、千雪は旭人に疎(うと)まれても甘んじるべきことだ。ただし、旭人がそういったところを見せたことはない。よくよく穿てば、旭人と茅乃が話すことはそうそうなかった。反(そ)りが合わないのかと思っていたが、その根本は違うのだ。
 旭人は傷ついていて、それを隠すためにちょっとひねくれて、いつのときも傍観者のような様でいるのかもしれなかった。

 千雪は業平ビルを出ると、まっすぐ家には帰らず、電車を乗り継いで須藤家に向かった。元旦に訪ねて以来、ほぼ二十日ぶりだ。
 七時まえに着くと、今日は美容室は休みだからゆっくりしているだろうと思っていたとおり、すでに麻耶と芳明はそろって夕食を取っていた。
 突然の訪問はいつものことで――
「ごはん、一緒に食べていけばいいわ。おでんだから」
 麻耶は普段どおりに屈託のない笑顔で千雪を迎えた。
 まっすぐダイニングに行くと、芳明はためらうようにいったん箸を止めた。
「よく来たな」
 千雪が「うん」と短く返事をすると、芳明はうなずいて、千雪がダイニングテーブルの椅子に座るのを見届けてから取りかけていたコンニャクをつまんだ。
 依然として、芳明とは実の親子なのにおかしなくらいぎくしゃくしている。ただし、打ち解けるとまではいかないが、互いが避けることなく存在を許容するまでにはなっていた。
 須藤家にいても加納家にいてもどこかいびつで、千雪はまともな家庭というものを知らないのだと、いま頃気づかされた。

「千雪、どうしたの? あまり食べないわね。ちゃんと食べて体力つけないと、風邪でダウンしちゃうわ」
「お母さん……」
「何?」
「ここに……会社やめて帰ってきていい?」
 呆気にとられたように動作を止め、、今度は麻耶と芳明、ふたりともが箸を置いた。
「どうしたの? 会社をやめるのはともかく、わたしはてっきり建留さんと――」
「お母さん、本当のおばあちゃんのこと、聞いたの。お母さんが知ってること……お母さんの口からちゃんと本当のことを聞きたい」
 麻耶をさえぎって主張したとたん、麻耶だけでなく芳明までもが充電の切れたロボットみたいに固まった。
「だれから聞いたの?」
「……建留から」
 嘘を吐いた。けれど、瑠依からなどと云おうならば麻耶たちは心配するし、建留は話すと云ってくれたのだから、まるきりの嘘にはならないはずだ。
「会社をやめるとか帰るとか、建留さんがそうしろって云ったわけじゃないわよね?」
「違う。わたしがそうしたいって思ってるだけ。わたし、加納家にはいられないし、だから、建留ともどうにもならない。お母さん、話してほしかった。もとからおばあちゃんが……おばあさまが許すわけなかった。わたしはすごく無神経でずうずうしく見えてる。建留も旭人くんも傷つけてる。もしかしたら、おじさまとおばさまも」
 淡々とした千雪に何を思ったのか、麻耶は眉間にしわを寄せて気難しそうにした。
「兄親子を傷つけてるってどういうこと?」
 麻耶は訳がわからないといった様子で訊ね、今度は千雪が怪訝にして問う。
「建留の両親とおじいちゃんおばあちゃんは四人一緒に亡くなってるんでしょう?」
 麻耶は「そうよ」と応じながら明らかに戸惑っている。
「建留さんは家族を一度に亡くして、加納家に引きとられたわ。わたしが千雪を連れて訪ねたときは、加納家に来て三カ月くらいだったかしら。でもそれは事故で、だれのせいでもないの」
 麻耶の話すことを聞くうちに、千雪は麻耶にも知らないことがあるのだと確信した。旭人のことを知っているのなら、傷つくという言葉にもぴんとくるはずだ。

「お母さん……」
 云っていいのかどうかを迷う。
 知らされたことで自分がショックを受けたことは否めない。既成事実になぐさめは一つもなくて、ショックばかりだ。知らないでいいことと知るべきことの区別は必要で、ばかみたいに能天気に建留と結婚していたことを思うと、千雪はショックであっても知っておくべきだったと思う。未来がゼロになっても。
 知りたくなかった、そんなわがままも消えてはくれないけれど。
「どうしたの? 何かあるの?」
 麻耶は心配顔で二重に問いかけてくる。
「おばあさまは……ずっと許せなかったみたい」
 そう云いだして千雪が加納家の事情を話していくにつれ、麻耶の表情からは穏やかさが消え去り、驚愕に変わり、後悔、あるいは哀傷が鮮明に映しだされた。
 悲劇が重なりながら、それを知っていたとしたら、麻耶は果たして千雪を加納家に預けられただろうか。
「わたしが加納家にいると、傷つけてばかりのような気がする」
「千雪……」
 麻耶は言葉をなくしたように名を呼んでそれきりにした。
 やはり癖なのか、麻耶は次に口を開くまで、幼い子供にするように千雪の髪を撫でていた。

「あくまでわたしが聞いたことだけど」
 麻耶はようやくそう切りだした。
「うん」
「母と――千雪のおばあちゃんのことね、母と父……加納会長の過(あやま)ちは一度だけ。それも、母がそうしてほしいと云ったの。当時、業平不動産はまだなくて、商事のなかの一部門だった。そこで、母の上司が加納会長だった。母には身寄りがなくて、普段から気を遣ってくれたと云ってたわ。茶髪の子なんて生まれつきでなければいなかった時代よ。ましてや、目の色はどうしようもなかったし。初対面だと好奇の目は常にあって、だから加納会長は行きすぎたことから守ってくれたって。千雪の曾(ひい)おばあちゃんが亡くなったときも親身にお世話をしてくれたそうなの。そのあと、風邪をこじらせて会社を休んだときにお見舞いにみえて……一度の過ち、それはその日のことよ。加納会長とおばあさまはうまくいっていなかったらしくて……母はそこに付けこんだことになるわね」
「それで……妊娠したの?」
 少し痞えてしまうと、麻耶は鋭くその理由を察したのか、じっと千雪を見つめる。答えるのをためらっているように見えた。
「そうね……。たった一日のことで妊娠する確率ってどんなものかしら。わたしも疑問に思ったことがあるわ。母はそのことについては教えてくれなかったけど……死ぬ間際に、わたしがいてそれで充分幸せにしてもらったって聞いたときは、加納会長の意に沿わなくても、母は望んでいたんだと思った」
 一緒だ。
 千雪はそう思った。建留の意思を無視して、せめて子供が欲しいと思ってしまった。

「お母さんは、いつおじいちゃんのことを知ったの?」
「自分が婚外子だって知ったのは、小学校に入ってから。父親が加納会長だと知ったのは、母が死ぬ間際よ。それは、奇跡だったのか、必然だったのか……。母は一切、父親の名前を云わなかったわ。でもそのうちに、昔話をするときの母を見ていて、なんとなくまえに勤めていた会社の人――業平の人だと思った。探したい気持ちがなかったと云ったら嘘になる。知らないほうがいいとも思ってた。だけど、母が病気で死ぬんだとわかったとき、最後に会わせたいと思ったの。当ては業平商事ということだけ。会社のまえにいれば、わたしにはわからなくても父親なら娘だとわかってくれると思った。そのとき加納会長は、商事から独立して業平不動産の社長になっていた。そんな立場があったのに……わたしのこと、無視するならそうできたのに、加納会長はそうしなかった。母の意識があるうちには間に合わなかったけど、加納会長は時間を割いて看取ってくれたの。母の一方的な気持ちであっても、愛した理由がわかった気がしたわ。でも……」
 麻耶はいったん途切れさせると、深くため息をついた。
「そうしたのは間違いだったかしら。千雪にまで嫌な思いをさせてしまって」
「……嫌なことばかりじゃなかったから」

 建留と従妹としてではなく、普通に出会えていたら――泣き叫びたいくらいの気持ちでそう思ったことがある。たったいまもそう思う。
 会わなかったらよかった。一時的に思ったこともある。けれど、いまは思わない。それほど、建留から気持ちをもらっている。
 相反して、建留がいなくてちゃんと生きていけるだろうか、とそんな不安も溢れている。けれど、そうしなければならない。

「帰ってくればいい」
 それまで黙っていた芳明が直截簡明に口を挟んだ。芳明を見ると、かすかにうなずいて見せ、何事もなかったようにまた食事に戻った。
「うん。ありがとう」
 千雪はそう云いながら、ふと自分は芳明に似ていると思った。表情に乏しくて、それに比例して、人にうまく気持ちを伝えられない。そんな不器用さでかけられたたったひと言に、はじめて父親らしさを感じた。
「おじいちゃんとおばあさまは相変わらず、仲がよくも悪くもないのかしら」
「うん。おじいちゃんのほうがやっぱりおばあさまに気を遣ってる。どうしてだろうって思ってたけど……」
 言葉を濁すと、麻耶はため息をついた。

「お母さん、自分が婚外子ってこと、どう思ってた? つらかった?」
「親を知らないというのは、つらいというよりきついわ。引け目だったり、どんな人なのか知るのも怖かったり。でも、会ってみたい気持ちが一番だった気がする。それなのに、会えない。会っちゃいけない。だから、千雪にはおじいちゃんがいることをずっと云えなかった。会いたいと千雪が云ったときに、それが千雪のためにいいことなのか、判断に迷うだろうから。病気になって、考えは一気に変わったけど。母の命が残りわずかだと聞かされたときは、やっぱり独りになるのが怖かった。それを思いだしたの。千雪もそうなる可能性がある。千雪の性格を考えれば、ちゃんと理解してくれる人が現れるのかって心配だったし。おじいちゃんはちゃんと受け入れてくれる人だって確信はあったから」
「なぜお母さんは加納家を出たの?」
「千雪と同じ理由よ。わたしは、いるだけでおばあさまを傷つけてた。だから、千雪が帰ってきたいというのを止める資格はないわ。でも……」
 麻耶は思いつめたような面持ちで千雪を見つめた。
「でも、何?」
「償いにはならなくてもなぐさめにはなるわ」
 麻耶は独り言のようにつぶやいた。
「お母さん?」
 千雪が暗に訊ねても麻耶は真意を答えてはくれなかった。


 麻耶と話したことで、千雪は虚しくなるくらい落ち着いた。
 祖母と同じことをやりかけた自分よりも、麻耶のほうが何倍も痛手を追っている。それは、つらいというよりもきつい、その言葉に凝縮されていた。
 自分の子に、建留の子に、麻耶のような思いを繰り返させようとしていたなんて、自分のことしか考えていない、わがままな最低の人間だ。
 千雪には両親がそろっていて、独りぼっちにはならなくてすんでいる。ずっと未来には、独りになってしまうけれど、もう子供ではないのだから。

 建留から電話があったのは、寝ようかという時刻だった。
『風邪だって?』
 千雪の「はい」という応答を聞いたのかどうかという、建留の第一声は千雪の応えを急かすようだった。
 建留がコンタクトを取ってこないのは千雪に無駄に期待させないためなのだろうか、連絡を取り合うこともなくほぼ一週間がすぎている。だから、よほどの何かがあったらしいと思って覚悟して出れば、千雪の云い逃れが原因なのか。
「風邪“ぎみ”って云っただけ。旭人くんは建留のスパイなの?」
 建留の笑い声が電話越しに千雪の耳をくすぐる。
 心配してくれるのはうれしくて、泣きたくなる。
 千雪が引き継いできた災いのもとだという衝撃は落ち着いても、情緒不安定なのはおさまっていない。
『おれと旭人はブラザーだ』
 親友という言葉を思いだした。建留と旭人は、互いが互いをそう呼ぶ。いま、建留が云った“ブラザー”も単に兄弟ということではなく、そんな意味も含んでいるのだろう。本当の兄弟でないからこそそんな関係でいられるとしたら、どこか皮肉で、けっしてマイナスの関係ではないのに千雪の胸は痛い。
「うん」
『千雪?』
「何?」
『……いや、必要なときは電話していい』
 少し間を置いて云われたことは、本来、建留が云いたいことではないような気がした。
「わかってる」
『ザイドが土曜日の夕方、チャーター便で日本に入る』
「ほんと? プロジェクトのこと、どうにかなる?」
『どうにか“する”のは“おれ”だ』
 建留は奇妙なくらい云い張った。プライドが潰されたとかいう不快さではなく、訴えるようだ。
「うん」
『日曜日は、貴大たちも含めてプライベート会合を開く。そのまえに土曜の夜、懇親会をするけど、千雪、来ないか? 禁酒になるけど』
「わたしがお酒はそんなに飲まないって知ってるでしょ。禁酒は問題ないとしても、行ったらザイドに非難ごうごう、縛り首にされそう。イギリスでのこと、忘れた? はじめて会ったときは、男に簡単に顔を見せるものじゃないって文句云ってた。ジアイマーラじゃなくてイギリスだし、女の人、普通にうろうろしてて慣れてたはずなのに」
『ザイドは千雪のことを身内みたいに思ってるんだ。だから、慣習を押しつけたがる』
「身内?」
『親友イコール身内って、そういう考えになるらしい。つまり、おれの奥さんも身内だ』
 もう“奥さん”ではないから、ザイドも小言は口にしないだろうか。ふとそんなことを思い、返事をしそびれていると。
『ザイドは、おれたちが離婚したことは知ってるけど、いまでも千雪を身内だと思っている。あいつはおれを見抜いているから』
 そう云う建留は千雪の気持ちを見抜いたように応えた。
 建留のほのめかしがどういう意味を持つのか、わかろうとするべきではない。千雪は自分の期待にも建留の訴えにもふたをした。
「そう? 夜だから、なおさら不機嫌にさせそうだし、わたしは行かない」
『わかった。風邪、こじらせないように早く寝ろよ』
「建留が電話しなければ寝てた」
 含み笑いが届く。
『じゃあ、切らないとな。おやすみ』
 建留は千雪が原因のような云い方で電話を終わらせた。
 おれの奥さん。呼ばれることはもうない。

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