ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第5章 プリムドールハウス
4.ドールハウス
もしかしたら。そんな千雪の淡い希望は、土曜日の午後、一週間遅れで砕かれた。
少しの勇気と不安、そして、待っていたの、そんなうれしさを予感しながら検査薬を買って帰ってきたばかりで、笑わない千雪が笑いたくなるくらい、溢れた感情は喜怒哀楽の区別がつかない。泣いてもどうにもなるものでもないのに、気づいたときには涙を拭(ぬぐ)っていた。生理直前は情緒不安定という副作用もあるし、泣くのもきっとその延長上だ。なぐさめにならない云い訳で自分をなだめる。
これまでも精神的に何かあると遅れることがあった。生理まえに胸先が敏感になることもある。
いません、と、瑠依に吐いた嘘は嘘じゃなくなった。
小泉家のことがどうにもならなかったすえ、生まれてくる子供に建留の子供という権利が与えられないのなら、生んではいけないと警告を受けているのかもしれない。
けれど、そんな常識は千雪にとってなんの力にもならない。警告どころか失格だと云い渡された。そんな気がしている。
何も手につかなくて、考えることはあっちこっちに飛ぶ。
方がついたらという建留の言葉に、いつまでという期限はつかない。それが現実だ。
千雪と建留の間に残る確率は、ゼロか百か、もうそれしかない。もしも。瑠依と結婚をせざるを得なくて、そうしたら、千雪には何もなくなる。“もしも”の確率のほうがずっと百に近い。
どう整理を、あるいは区切りをつければいいのだろう。表面上の決着のつけ方は簡単なこと。いまいる場所から出ていけばいい。不透明なのは、自分のなかの心のことだ。当てになるのは千雪がつくりあげた記憶――それだけで千雪は独りで生きていかなければならない。
途方にくれて夕食を取っていないと気づかされたのは、訪問者を知らせる呼びだし音が鳴ったときだった。外が真っ暗になっているのにも意識が及ばず、千雪は手もとに薄らと見える携帯電話を手にした。時間を見ると七時をすぎている。
ずっと同じ姿勢だったから、ソファから背を起こすのにも躰がこわばっていると感じた。
照明のスイッチを入れてモニターを見にいくと、映しだされていたのは瑠依だった。
応答するにはためらう。この状況下になくても、瑠依と対面して不快を感じたことはあっても、よかったと思うようなことは高校三年生のときのパーティ以来一度もない。
けれど、よぎったのは建留が帰国したときのことだ。わざわざ、建留がいないかどうか確かめに来た前歴がある。今回もそうで、もし居留守を使えばとんでもない誤解に発展しかねないとも思う。
よりによって、なぜ今日なのだろう。追い打ちをかけられるとわかっていても通さないわけにはいかなかった。
「はい」
「わたしよ、瑠依。いいかしら」
こっちの都合を訊いているようでいて、強制にほかならない。インターホンで用件がすめばと思っていたが、それだったら電話で終わることだ。千雪はため息を押し殺して、「どうぞ」とロックを開錠した。
部屋に来た瑠依は、千雪の勧めに添ってソファに座ると何かをチェックするように視線をさまよわせる。それが、テーブルの上のアロマポットに留まる。勝手に手に取ると、ラベルを眺め――
「やっぱりこの香りだわ」
何が『やっぱり』なのか、きっとした眼差しが立ったままの千雪に向かってきた。
「まだ建留とこそこそ会ってるの?」
「会ってません」
水曜日のことは、建留が必要に迫られただけであって、こそこそ会うというには当てはまらない。そう理屈をつけて否定をしたが。
「水曜日、エレベーターのなかで建留からこの香りがしたわ」
瑠依の目が冷たく光ったように見えたかと思うと、すっと下におりていく。
「妊娠してないということも嘘?」
千雪は、反射的におなかをかばうようにした自分の癖を内心で叱責する。
「そうだったらいいのにって思ったことは否定しないけど、妊娠はしてません」
「そうだったらいいのに? 冗談はやめてくれる?」
正直に云ったほうが疑いも晴れると思ったのに、瑠依をさらに焚きつけたようだ。これ見よがしの侮(あなど)った笑い声が響く。
「建留の子供を産むのはわたしだけよ」
聞きたくない宣言が瑠依の口を飛びだした。座る機会をなくし、見下ろしている側の千雪のほうが劣勢にある。これ以上の打撃はたくさんだ。
「わたしは、建留と会ってもいないし、妊娠もしてない。もう帰ってください」
「お茶も出してくれないの?」
「建留がここにいないとわかれば充分……」
「建留はいつまでも自分のものって自信たっぷりな感じね」
どこがそういうふうに見えるのか、千雪にはまったく理解できない。いつだって一緒にいたいと思っているのに、そうできない。建留と共有する一瞬一瞬を大事にしている。そう思わなければならないほどの不安と、自信はまったく相容れないのに。
「自信なんて持ったことない。瑠依さんと建留のことは、わたしが何を云っても、やっても、変わらない。だから、瑠依さんがわたしに何を云っても同じです」
「バカにしてるの?」
瑠依の思考がどんなふうに働いて、千雪の発言がそう受けとられるのだろう。ただ、あれだけ自信を持っていた彼女の目算が思うようにいかなかったということが浮き彫りになる。
「建留の考えは建留にしかわからないって云ってるだけです」
「わたしをおばあさまと同じ目に遭わせる気? わたしはおばあさまみたいに中途半端に黙認なんてしないわよ」
瑠依がどうしてここで茅乃の名を出すのか、意味が把握できない。千雪はわずかに眉をひそめた。
「おばあちゃん?」
「そうよ。千雪ちゃんはもちろん、自分の立場がわかってないわよね。やっても変わらない? ううん、千雪ちゃんにはできることがあるわ」
瑠依は観客のいない一人芝居をやっているんじゃないかと思うほど、千雪はその発言の意味を呑みこめなかった。
「わたしにできること?」
「千雪ちゃんがおばあさまからなぜ嫌われているのか……知りたい?」
知りたい。ずっとそう思ってきた。それはよくないことに違いなく、そうしたら、瑠依から聞かされれば、一のことが十倍の打撃になりそうな気がする。それに。
「建留が話すって云ってるから」
それは小泉家との方がついたら、の話だが、そのことは脇に置いて、千雪は遠回しによけいなお世話だと伝えた。
けれど、瑠依はまた都合のいいように解釈したようだ。
「どうせ知ることになるんだ。だったら、わたしが教えても全然かまわないってことよね」
悦に入った様子で気味が悪いほど彼女は口角を上げる。
「座ったほうがいいと思うけど」
千雪が応えないでいると、瑠依はソファの背にもたれ、すらりとした脚を組んだ。ジェルネイルで着飾った手を、もったいぶったしぐさで膝の上に重ねて置いた。
「千雪ちゃん、加納家に来たばかり頃、色が薄いのは母方の代々の遺伝だって云ってたわよね。でも、おばあさまが茶髪(ブリュネット)だったなんて一度も見たことも聞いたこともないわ。白髪が目立つようになって、はじめて銀髪(プラチナ)に染めたってことは聞いたけど」
瑠依がそう云うと、千雪はあらためて茅乃が色のことを話したがらなかったことを思いだす。麻耶は千雪と祖母がそっくりだと云っていたのに。
どういうこと? そう疑問が浮かべば、他人なのだという結論は難(かた)くない。
「わかった? 少なくともおばあさまは、千雪ちゃんが云う血の繋がった“おばあちゃん”じゃあないってことじゃない?」
それなら、“おばあちゃん”はだれ? その疑問は差し置いて素早く思考を巡らせると、残る可能性は一つ浮かびあがった。
滋の千雪に対するかまい方を見ても、麻耶の『おじいちゃんのところへ』とそう云った言葉にも他人行儀なところは少しもない。
「いまのおばあちゃんは後妻?」
それなら納得がいく。そう思って云ってみると、瑠依はくすくすと笑いだした。
「いいように考えるわね。その答えはノー」
「じゃあ……」
何?
声にならなかった千雪の問いを、すかさず察知した瑠依が口を開く。
「千雪ちゃんはね、加納会長の愛人の孫になるわね」
その言葉は、部屋から音を――呼吸音さえ奪ったような気がした。軋(きし)みそうな空気感にしばらく千雪は息が継げなかった。
「……愛人?」
言葉の意味はわかるのに、発せられた肩書きがうまく理解できないなかで、『愛人がせいぜいだわ』と、そんな茅乃の言葉が千雪の脳裡にちらついた。
「お母さんに訊いてみたら? 千雪ちゃん、だから、おばあさまの気持ちは云わないでもわかるわよね? 犠牲者はおばあさまだけじゃないのよ。千雪ちゃんの本当のおばあちゃんのせいで、加納家は不幸だらけ」
「……不幸だらけって?」
「おばあさま、どうかと思うくらいヒステリックだわ。建留と旭人、本当の兄弟じゃないのよ」
千雪は目を見開いた。
聞かされたこと一つ一つは想像すらしたことがなく、あまつさえ、千雪のなかに然るべきものとして存在していたベースそのものが覆されてしまった。
理性が働けば、どうやっても瑠依を追いだしたかもしれない。それらは、瑠依の口から聞くことじゃない。けれど、そう思いつかないくらい、千雪が知らされた事実は衝撃だった。
「兄弟じゃないんなら……」
「血の繋がりでいえば、ふたりはまったくの他人よ。後妻って千雪ちゃんは云ってたけど、そうなのは副社長のいまの奥さん」
華世が後妻だとしても、血の繋がりがまったくないとはどういうことだろう。
「旭人くんは……おばさまの連れ子?」
「逆よ、連れ子なのは建留。旭人のお母さんは、おばさまを加納家に招き入れるために追いだされたの。正確に云えば、建留を加納家の人間にするために、ってことだけど」
「おばあちゃんがそうしたの?」
「おばあさまは初恋の人が忘れられなかったみたいね。建留はその人の孫。建留を生んだのは、おばさまじゃないのよ。産みのお母さんは、ご主人と両親と四人一緒に事故で亡くなったらしいから。おばさまは生まれつきの病気で子供が持てない人で、だから建留を養子にして引きとるのもためらわなかったみたい。でも、そうしたのもおばあさまの差し金じゃないかしら。その事故のあと、そう時間もたたないうちに副社長は離婚、そしておばさまと結婚。建留をただの養子として招くんじゃなくて、世間体とか建て前上、親子にして、おばあさまは建留に正当な相続の権利を与えたかったんじゃない? 華族制度が廃止になってから、さして財産もなかった仁條家の加納家乗っ取りは大成功ね」
瑠依は侮辱とさえ思えるような口調で締め括った。そして、組んでいた脚をほどくと、ゆっくりと立ちあがった。
「千雪ちゃん、千雪ちゃんが加納家にいるといろんな人を傷つけるんだってこと、わかった? 父が調査してはじめて知ったけど、驚いたわ。おばあさまは取りつかれてるわね。千雪ちゃんのおばあちゃんのせいで、建留まで巻きこまれてる」
「旭人くんのお母さんは? 一度も――」
「亡くなってるわよ。離婚して一年後に車道に飛びだして。ショックを受けないはずないわよね。なんの非もないまま追いだされたんだもの。旭人だってショックだろうし、話す気になるかしら。千雪ちゃん、千雪ちゃんにやれること、わかる? 加納家とは一切係わらないことじゃない?」
瑠依が軽やかに「じゃあ」と出ていったことも意識になく、気づけば千雪は独り、リビングに立ち尽くしていた。
まとまらない思考で一つずつピックアップしていく。
初恋と事故。別々だと思っていたことは、茅乃にとって建留は初恋の人の孫だ、という事実を投入しただけで一つになった。
二十三年まえにあった事故。建留は七歳、旭人は五歳。直後に、華世の養子になって建留は加納家にやってきた。旭人の母親は加納家を追いだされたすえ亡くなっている。
それらのことすべてに茅乃の思惑が働いているとしても、元凶は千雪の本当の祖母にほかならない。
茅乃はなぜそこまでしなければならなかったのか。何年まえの話なのか。麻耶の四十九歳という年齢を考えると短く見積もっても五十年まえになる。
愛人の存在を激怒し、恨み――それらが五十年を経ても衰えないのは――
加納家に招かれてもけっしてなじめなかった麻耶が、あるいは、千雪がいるから、だ。
祖母の血を引いた者が現れるたびに、茅乃の傷口は開いてしまう。
加納家は、ドールハウスのように一体ずつ増えたり消えたりしていく、まるで寄せ集めの家族だ。
加納家の血は一滴も流れていない、なんの因果もないのに建留は巻きこまれている。
復讐の道具。建留が自分についてそう云ったことを思いだす。
建留はただ巻きこまれただけじゃない。
最初から離婚という準備がされていた結婚。千雪を傷つけるためにあった結婚。
復讐は、時を超えて、色を継ぐ者になされた。建留はほかでもない、復讐劇の犠牲者だった。