ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第5章 プリムドールハウス

3.オスの本能と孤独

 週が明けても状態は変わらず、仕事は年度末に向けて忙しくなっていき、早く帰ることはままならない。ただし、多忙なのはほかの部署も同じで、建留と瑠依のツーショットを見ることがなくすんでいる。
 パソコン画面との睨めっこが果てしないなか、千雪は数字の入力に神経を尖らせた。
 建留と同じ場所という仕事は歓迎したものではないが、こうやって仕事をしていると、にっちもさっちもいかない思考に嵌まらなくてすむ。いったん仕事を離れれば、また堂々めぐりに陥ってしまうけれど、一日中そうしているよりずっとましだった。
 千雪は自ら最終照合をしたあと、パソコン用の眼鏡を外して旭人に呼びかけた。
「主任、東洋社宅の精算、終わりました。チェックしてもらえますか」
「オーケー。須藤さんの仕事が立てこんでなければもう帰っていい」
「はい、そうします」
 ちらりと腕時計を見た旭人に釣られて、千雪も腕を見下ろすと七時半をすぎていた。残業は水曜日の今日まで三日連続になる。
 デスクの上を整理したり明日の予定を確認したりと、帰り支度が終わったのは八時近くになった。オフィスをあとにして、廊下に出てからまず千雪がやることといえばため息をつくことだ。いったん立ち止まってそうしたあと、エレベーターホールに向かった。

 一つ角を折れようとしたとき――
「千雪ちゃん」
 呼びとめる声にまた足を止めて振り返った。
「加納代理とちゃんと会ってる? 話してる?」
 史也がなぜそんなことを聞いてくるのか、千雪にはさっぱりわからない。三角関係の構図に無関心でいられないのはだれもと同じだろうし、むしろ、身内ゆえに興味津々かもしれなかった。
「……小泉さんは何か知ってるの?」
「何か、って?」
 史也は本当に何も知らないのか惚けているのか、千雪にはさっぱり読みとれず、付き合うだけ悩まされそうだ。これ以上に、惑うようなことはいらない。
「お疲れさまで――」
「おれが知ってるのは、瑠依ちゃんがイライラしてるってことかな」
 強引に切りあげようとした千雪をさえぎり、引きとめるかわりに史也はそう云った。
「イライラ? 先週の月曜日はご機嫌そうだったけど」
「うまくいってないんだろ。その月曜日、加納代理が千雪ちゃんになんて云ったのか興味あるな。加納代理、どうするつもりなんだろう?」
 軽い調子だが、その言葉から、少なくとも史也が大まかな経緯を知っていることは明らかになった。どこまでがふざけていて、どこからが真剣なのか、境目はわからないが。
「話す機会がないから知らないの。じゃあ」
 くるりと背を向けると、今度は引きとめられなかった。

 この時間、エレベーターのなかは人が少ない。業平ビルのエレベーターは二階までで、そこから地上に出るにはエスカレーターを使う。その二階に到着すると、千雪はほかの人にさきを譲って降りた。その間に別のエレベーターも扉が開いて、人が一緒くたになった。
 エレベーターホールを出ると、そのさきにあるエスカレーターに向かう。その矢先。
「千雪ちゃん、お疲れさま」
 いきなり呼びかけた声は千雪をおののかせた。
 聞こえないふりをしようかと思ったのもつかの間、無意識に声のするほうを振り向いてしまい、目が合えばそうするわけにもいかない。
 いま――いや、いつであろうと千雪が最も話したくない相手、瑠依が斜め後方からつかつかとやってくる。
「話があるの。ちょっと来てくれる?」
 千雪の近くまで来てそう云った瑠依は了承も得ないまま、いままでいた方向へと身をひるがえした。
 ほんの少しの間、立ちすくんだように動けなかったが、往来の邪魔をしていると気づいて、千雪はエスカレーターの場所とは逆方向へと歩きだした。エレベーターホールと社員食堂の間にある廊下を進むと、奥にはお手洗いと喫煙室しかない。瑠依は喫煙室のほうに消えた。
 喫煙室はガラスで仕切った空間で、幅広い横ストライプのすりガラス加工が施されている。なかに人がいるのは見えるが、だれかという判別はストライプのすき間と自分の目線が咬み合うかどうかに左右される。いまは、瑠依以外の人の影は見えない。
 千雪はスライドドアを開けてなかに入った。喫煙室とはいえ空調がきいているから、さほど煙草臭さは感じられない。中央にはソファがいくつか並び、ガラス壁の三面には、椅子のかわりに高さの違うバーが設置されている。
 瑠依は、ドアと対面する側のバーに腰を預けて、千雪をまっすぐに見つめた。

「千雪ちゃん、父はなんて云ったのかしら? こうなっても、建留のやさしさを期待してるの?」
「こうなっても?」
 何が決定したというのか、千雪は気づいたときには問いかけていた。
「わかってると思うけど。建留から連絡ないわよね。つまり、そういうこと」
 瑠依は、何も見逃さないといったような、じっとした眼差しで千雪を見据える。
 建留から連絡がないのは、千雪が思っていたようなことではなくて、瑠依が強制しているのだろうか。
 史也は瑠依が苛立っていると云っていたし、建留が云った『迷っている』ことは、けっして瑠依との婚約が決まったということではないはずだ。こんなふうに千雪に何か云わずにいられないことが、瑠依にとってうまくいっていないということを裏づける。
 安堵するどころか、悪あがきしてしまう自分が厭(いと)わしい。
「……わかりました。話はそれだけですか」
 瑠依の返事も待たずして方向転換しかけると、「千雪ちゃん」と瑠依は呼びとめた。
「わたしももう二十八だし、結婚したらすぐ子供が欲しいって思ってるの。父もそれを望んでるし。だから、建留の将来は心配しないでね。父がちゃんと取り計らってくれるわ」

 付け加えられた言葉は、千雪に訊ねるまでもなく瑠依が脅迫の内容を知っているとほのめかしている。建留と瑠依の婚姻が実現すれば脅迫も消滅するのだから、実力の評判を考えれば建留の出世は安泰だ。
 いまになって気づいたのは、小泉親子が、千雪は建留に告げ口しないと踏んでいることだ。千雪自身、建留に打ち明けるということは頭になかった。千雪がどうにもできないように、建留にもどうしようもないとわかっているから。
 ただし、そんな小泉親子のしたたかさはもはやどうでもいい。
 千雪が何より衝撃だったのは、建留と瑠依に子供ができる、という可能性だった。
 ショックの大きさは、理性がいかに欠如しているのかということを証明している。
 自分と建留の子供のことは夢を見ているくせに、瑠依の夢までは考え至らなかった。
 瑠依の子供には抱きしめてくれる父親がいて、千雪の子供には、同じ父親なのに、いない。そんな落差が目のまえに迫る。
 わがままで浅はかで――。
 やるせない虚しさを覚えて立ち尽くしていると、瑠依が鋭く目を光らせた。

「千雪ちゃん、まさか、いるの?」
 一つ一つ区切るように瑠依は問いかけた。
「……なんの話か……」
 云いかけていると、瑠依の視線は千雪の顔から下へと移った。思わず自分を見下ろすと、千雪はおなかに手を当てていた。自分でも気づかないうちに癖づいていたかもしれない。はっとして手を放した。
「いません」
 短く答えて千雪はくるりと躰をまわした。
「史也、逃がさないで」
 そんな命令が飛んだのと、千雪がだれかを判別する間もなくぶつかると思ったのは同時だった。
「嫌っ」
 千雪は腕を取られた瞬間、肩にかけたバッグが落ちるのもかまわず振りほどいた。
「瑠依ちゃん、逃がさないでって穏やかじゃないな」
 いつの間にいたのか、史也はかがんで千雪のバッグを取りながら、ため息混じりで瑠依に向かった。
「千雪ちゃん、おなかに建留の子供がいるかもしれないのよ。穏やかでいられるわけないじゃない」
 千雪は会話の合間にできるだけふたりから距離を置いた。四角い部屋は八畳ほどで、離れようとしてもたかが知れている。あまつさえ、入り口からは遠いほうに逃げてしまって自ら窮地に追いこまれている。
 びっくり眼をした史也が千雪のほうを向いた。
「千雪ちゃんに子供? ほんとに?」
「違う」
「だよね」
 うなずいた史也はまた瑠依に向かった。
「瑠依ちゃん、おれは、加納代理はやさしいだけじゃなくて品行方正な人だと思うよ。筋道立てないでむちゃをやる人じゃない」
 瑠依は顔をしかめて史也を見やった。
「どういうつもり? だいたい、何しに……」
 瑠依が云いかけたところへ携帯電話の着信音が鳴った。逸早く反応したのは瑠依で、彼女はジャケットのポケットから携帯電話を取りだした。
 耳に当てながら、瑠依は思わせぶりな視線を千雪へと向ける。もしかして、と千雪が感づいたのとどっちが早かったのか。
「建留?」
 あからさまに弾んだ声だ。建留がここにいるわけでもないのに、瑠依の顔には非の打ち所がない笑みが浮かぶ。建留が何を話しているのか、相づちを打った瑠依は「すぐ行くわ」と結んだ。
 電話を切ると、挑戦的な眼差しが千雪に注ぐ。
「史也の云うこと、理にかなってるかもね。おばあさまを怒らせたり、将来を左右することで建留がそんなヘマするわけないし。千雪ちゃんも頭が悪いわけじゃないもの、自分がどうしたらいいかわかってるわよね」
 建留の電話によほど浮かれているのか、瑠依は都合のいい解釈をまくし立てたあと、喫煙室を出ていった。

 緊張をはらんだ重たい沈黙がはびこり、さながら室内は嵐が去ったあとの気配だ。
「大丈夫?」
 史也は気遣うようにしながら、バッグを持って近づいてくる。千雪は反射的に身をすくめた。
「わたしにあんまり近づかないでほしいの」
「まえもそうだったけど、おれが怖い? べつに危害を加えるつもりはないよ」
 史也はため息をつく。人当たりがよさそうで実は、という面があるように見えるが、それは旭人が疑ってかかるから千雪もそんな目で見ていただけで、本当は表裏のない人かもしれない。
「怖いのは、小泉さんに限ったことじゃないから」
 史也は、うなずきながら――
「事情があるみたいだ。加納兄弟にはなんともないようだけど」
 と云った次には話を切り替えた。
「加納代理は駆けつけると思ったけど、逆に瑠依ちゃんを連れだすとはね。瑠依ちゃんをあまり刺激しないようにしてる。やっぱり頭いいな」
「……小泉さん、もしかして計画的?」
 千雪が疑ってかかると、史也は気を悪くしたふうでもなく笑みを浮かべた。
「瑠依ちゃんが千雪ちゃんと話したいと云うから協力はした。瑠依ちゃんがさきにおりる時間を確保するのに千雪ちゃんを引きとめた。それだけだ」
 史也はあっさりと認めた。潔白だといわんばかりに、バッグを持っていない左の手のひらを上向ける。
「じゃあ何しにここに来たの?」
「四人で話し合えるかなと思った」
「……四人て?」
「まえにも云ったとおり、早く決着はつけるべきだと思ってる。加納代理は千雪ちゃんを守りたがるから、ストレートに頼んでも無理だろうし、だから、今日はチャンスだと思った。ここに入る直前、代理にも連絡したんだ。千雪ちゃんが危ないってね。つまり、おれとしては代理にここに来てほしかった。瑠依ちゃんの御方をしつつ瑠依ちゃんを説得しようと思ってたんだ」
「どういうこと?」
「千雪ちゃんと加納代理のツーショットを見るまでは、瑠依ちゃんの話を一方的に聞いてただけだから、邪魔者は千雪ちゃんのほうだと思ってた。瑠依ちゃんは中学の頃から片想いしてて、高校生になったらって希望を持ってたらしい。けど、代理にはカノジョ――沙弓さん、だったよね? その人が現れた。半分くらい、あきらめてたんじゃないかな。それを完全撤回させたのが千雪ちゃんだ」
 聞いてしまうと、確かに千雪は突如として割りこんだ邪魔者だ。気が咎めて無意識に視線を落とすと、「けど」と史也は続けた。
「それはあくまで瑠依ちゃんを主人公に考えた場合だ。代理にとっては、眼中外だったんだろうなって思う。千雪ちゃんが来て、あっさり沙弓さんが引いたことを考えると、代理は瑠依ちゃんを寄せつけないためにカノジョに仕立ててたんじゃないかってね。悪いのは、洗脳してきた社長だよ。瑠依ちゃんを慶永(けいえい)中学に編入させたのは、加納家と近づくためだったんじゃないかと思う。計画的ってほどじゃなくて、あわよくば、って程度だろうけど、代理はそういうことを察してたんじゃないかな」
「社長だけじゃなくて、わたしの祖母も」
「あー……そうだね」
 史也は不自然に感じるくらい、間を空けてうなずいた。千雪は顔を上げて、つぶさに史也を見た。これといったものは見当たらず、慮った雰囲気だけ感じた。

「祖母のことで気になることがある?」
 千雪が訊ねても史也は肩をすくめるだけですませると、また話し始めた。
「千雪ちゃんと代理って、半分ずつって感じがするんだよ。足りないところをお互いで補っているような雰囲気がある」
「建……加納代理に足りないもの?」
「具体的に何かが欠けてるというわけじゃなくて、裂いちゃいけないなって思わせられる。ふたりでいると入りづらいんだ。おれははじめて見たよ、そういう関係」
 だれもがそう思ってくれればいいのに。千雪は欲張りなことを思う。
「瑠依ちゃんのほうが邪魔者だ。かわいそうだけど、人の気持ちは出会った順番どおりじゃないらしい。本当はさ、千雪ちゃんが危ないんじゃなくて、瑠依ちゃんと社長が危ない橋を渡ってるよ。いいかげん、おれも呆れてる。おれくらいまともじゃないと小泉親族は業平から永久追放だ」
 史也は冗談めかして肩をすくめた。それからバッグを差しだす。
「瑠依ちゃんにも同情の余地はある。あきらめさせる決定打が必要だ。千雪ちゃん、代理には、無事だってメールでもしてたほうがいいんじゃないかな」
「ありがとう」
 バッグを受けとろうと千雪が手を伸ばしたとたん、スライドドアが叩きつけられるように開いた。

「離れろ」
 恫喝(どうかつ)したたったひと言で、室内は張った糸を弾いたような緊張感に満ちた。

 千雪は史也と驚いて見つめ合ったあと、一緒に入り口に目をやった。
 その声にどんな感情が色づいていても、千雪が違えることはない。その瞳は、声色と一緒で威嚇(いかく)する気配に満ちて、史也を見据えていた。一方で、千雪に対しても神経を尖らせている。
 建留は明らかに迎撃態勢に入っていた。あるいは、仕掛ける側か。
 身動きはおろか、口を開いただけで糸が切れそうなくらい張りつめていると思うのに、千雪に向き直った史也は、バッグを押しつけるようにして戻した。そして、軽くホールドアップしながら建留のほうを向いた。
「念のために云います。瑠依ちゃんのために千雪ちゃんの監視役をやってたことは認めますが、僕が千雪ちゃんに危害を加えることはありませんよ」
「当然だ」
 建留はひと呼吸置く間もなく、けんもほろろに突き返した。
「瑠依ちゃんをかばうことはあっても煽るつもりもありませんから。情状酌量、公明正大に判断をお願いします」
 建留は目を細め、どういう意味合いがあるのか首をかすかにひねり、それから顎をしゃくって出入り口を示した。
「出ていけ」
 史也は素直に従って、お疲れさまです、と一礼して出ていった。

 スライドドアの開閉音のあと、今度は建留と残された。ふたりともが目を合わせているだけで口を開かず、しばらく部屋はしんと静まった。
 建留は、人に対して負の感情を表に出さないぶん、そうしたときの深度は計り知れない。だから、負の昂りをおさめるのは容易にいかないようだ。はじめて会った日も、アパートのまえでいまと同じ気配を纏っていた。
 瑠依が云う保護本能を最大限まで発揮しているのかもしれない。
 なだめようとしても、大丈夫というひと言さえはね除けられそうで、千雪は黙って沈静化するのを待った。
 やがて首をひと振りするのと同時に息をついたかと思うと。
「小泉の人間に近づくな」
 建留は吐き捨てた。
 そのひと言はそんなに大事なことなのか――もちろん、千雪にとって小泉親子はなおざりにできないことではあるが、まるで、戦地での枢要な任務を終えたかのように、広く厚みのある肩から力が抜けるのが見て取れた。

「いつだってわたしは近づくつもりなんてない」
 つぶやくように抗議をすると、建留が近づいてきた。
「向こうが勝手に、っていうんなら、逃げろ。得意だろう」
 千雪が語らなかった部分を補足をしたかと思うと、散々な云い分で建留は突っかかってきた。まだ完全に気を静めたわけではないのだ。
「瑠依さんを呼びだしたんじゃないの?」
「秘書課から仕事が終われないって捜索願い出てた。『待ってるんだけどな。帰れないだろう?』って秘書課の意見代行で電話したにすぎない」
 云っている間に建留は傍に来て、千雪の手からバッグを取りあげ、中央のソファに放る。
 直後、千雪のウエストをつかんで躰を持ちあげると、すぐ背後にあるクッション付きのバーに腰かけさせた。こっち側のバーは長身の人用で、千雪には高すぎて足が地に着かない。バランスをとっているうちに建留が脚の間に割りこんできて、近づくという以上にふたりの躰の距離を詰めた。
 建留と壁に挟まれて逃れようがない。千雪は目を丸くしながら間近にいる建留を見上げた。
「建留!」
「何があったか、もしくは、何を云われたか、話してくれ」
「……なんのこと?」
「この十日、千雪は電話もメールもしてこない」
 建留の批難に千雪はあ然とする。
「わたしはもともとするほうじゃない。建留のほうが……」
「そうだ。おれがしないだけだ。普通ならヘンだと思うだろうし、訊いてくるだろう。初恋は気にしたくせに、瑠依のことが気にならないはずはない。訊かないということは、千雪に何かあった、からだ。何があった?」
 建留は、何かあったと思っているだけでなく、見当がついているうえで云っているように感じた。
「……瑠依さんのことはなんとなくわかるから……だから建留はいろいろ考えてるんだろうって思って」
 ごまかしはきかないかもしれないが、打ち明けたところでどうにもならない。小泉家と争えば、加納家は窮地に立たされる。ともすれば、業平不動産から失墜(しっつい)する。千雪が小泉社長のシナリオに添えば、表面上は何事もなかったようにすむことだ。
 建留はやはり納得していなくて、威光を放つ瞳が千雪を射貫く。息が詰まりそうになりながら、レオパードは毛を逆立てている、と思ったとおり。
「罰だ」
 顎が持ちあげられたかと思うと、建留は千雪のくちびるに喰いついた。放たれた宣言のとおり、求めるのでも慰撫(いぶ)するのでもない、くちびる越しに歯がぶつかるような、ただ荒っぽいキスだった。
 千雪は建留のウエストをつかんで、精いっぱい肘を伸ばして押しのけようとしたがびくともしない。後頭部は壁に押しつけられているから逃げ場がなく、苦しくて、建留の口内に呻き声を吐きだした。
 すると、唐突に建留は顔を上げる。かすかに音を立てて呼吸を繰り返す千雪と同様、建留の呼吸も荒い。

「会社でこんなこと……!」
「どこだろうと、千雪はおれに反応する」
 横柄に云い、千雪のコートをはだけると、建留は左手を背中にまわして千雪の右腕ごとくるんだ。お尻に添えた手が、ちょうど同じ高さにある互いの腰を密着させる。一見、千雪を卑下した云い方だが、その実、明らかに反応を示しているのは建留のほうだ。
 フレアスカートからブラウスとキャミソールが引きだされ、素肌に触れた手のひらがわき腹から這い上ってきた。
「人が来るから――!」
「この時間、ここを利用する奴はいない」
 確かに各フロアに喫煙室は設けてあって、業平グループの食堂しかないこの二階の離れまで煙草を吸いに来る人はいないかもしれない。だからこそ、瑠依も千雪をここに連れこんだ。
「そういう問題じゃ……っん!」
 ブラジャーが押しあげられて、すくうようにした建留の手のなかに胸がおさまると、親指が先端に触れた。とたんに、なだらかだったふくらみのトップが、意思とは関係なくもっと触れてというように飛びだすのを感じた。
 昨日から胸先は敏感になっている。生理は三日遅れていて、妊娠するとそういう兆候が出るとあった。そんなことを知らない建留は、拒絶を無視して容赦なく千雪を苛(さいな)む。
「だめっ」
 腰がぴたりと抱き寄せられているうえ、脚が地に着いていないから踏ん張ることもできず、さらに脚を広げられているから蹴って抵抗するという術も封じられている。
 突いたりこねるようにしたりされるうちに、だんだんと左側の胸が熱を帯びていって、建留は押しのけようとする左手の力さえ奪った。
 建留の肩越しに目を開けていればここが会社だということがわかる。そうやって理性を保とうと試みるが、それ以上に建留はうわてで、千雪を知り尽くしていてかなわない。
 漏れそうな声は口を結んで耐えても、時折、喘いでしまう。少しでも逃れようと思えば、躰の中心に摩擦が発生して、快楽が刺激される。
「こんなところで……い、や……!」
「どこであろうと、おれだけを感じてればいい」
 建留のほかにだれを感じるというのだろう。
 耳もとで鳴る、独占欲に満ちた暴言は呻くように聞こえた。千雪の躰が応えるぶんだけ、建留にも感覚は伝染している。
「ひどい」
 なじると、痛みに変わる寸前の力加減で胸先が摘まれた。
 んあっ。
 指先で扱(しご)くように摩撫されて千雪は身ぶるいをした。すると、建留の慾がますます存在感を増して、ぴくっと跳ねるような動きで千雪を煽ってくる。
「た、つるっ」
 違う、煽っているのは千雪のほうかもしれない。腰を抱く腕がきつくなる。
 建留の右手が胸からおりておなかを滑っていった。そして、素肌から離れたかと思うと膝の上に飛んで、ふわりとしたスカートがたくしあげられた。

 エスカレートしていく建留の欲情をどうやって止められるだろう。千雪は知性の欠片もなく堕ちていいという誘惑と闘いながら、頭の片隅に残る理性を掻き集めた。けれど、思いつかないうちに、建留の手はショーツまで這いのぼってきた。
 それ以上、侵入することのないよう、逃げるのではなく、千雪はとっさに躰を押しつけた。同時に建留の背中に左腕をまわした。不自由な右手もどうにか腰にまわして、千雪は精いっぱいで建留に抱きつく。
 無駄だと半ば投げやりにしたことだが、意外にも建留が無理やり侵略してくることはなかった。
 なんとか阻止はできても、千雪もまた自分の熱を冷まさなければならず、しばらくそのままでいた。そうしていると、建留のオスの本能だけでなく躰全体が張りつめていたこと、それからその緊張が解けていくのがわかった。
 千雪が手をほどくと、建留の腕も緩む。ゆっくりとふたりの躰は距離を置いた。

「場所に関係なく、わたしは建留に気をつけなくちゃいけない?」
 建留はうつむきかげんで、きまり悪そうに笑いながら首を振った。
「たぶん、頭に血が上ってる。千雪が焦らせるから」
 発言は悪びれることもなく、以前から宣言しているとおり、建留は千雪のせいにした。そして、「千雪」と、建留はごく真剣な面持ちに変えた。
「何?」
「小泉家との方がついたら、千雪が知りたがったことを話す」
 電話で迷っていると云ったのは、そのことだったのだろう。建留はためらうようだ。
 方がついたら――そんな未来が想像できなくて千雪が返事をしないでいると、建留はそれに気づいているのかいないのか、息を詰めたように「だから」と次いで中途半端に言葉を切った。
「だから?」
「おれから、おれが唯一望む場所を奪わないでくれ」
 まるで、千雪が勝手に淫(みだ)らでいるような云い方だ。ただ、そう云うのもわざとだろうと見当はついて――
「建留のせい」
 定番の切り返しをすると、建留はいつものシニカルな笑みを見せた。
「今度はおれの捜索願が出ないうちに戻らないとな。独りで帰れる?」
「建留が海外にいる間、ちゃんと独りで帰ってた」
「ああ。さきに出て。おれは少し遅れて戻る」
 上半身の服をもとどおりにすると、千雪は建留からバッグを受けとった。
「うん。じゃあ」
 建留がうなずくのを見てから千雪は廊下に出た。
 エスカレーターのところまで来て振り返ると、建留がエレベーターホールの入り口に立っていた。
 孤独という言葉が浮かぶくらい、なぜか建留から目を離すことをつらく感じた。

NEXTBACKDOOR