ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第5章 プリムドールハウス

2.わがままな光景

「千雪、いったいどうなってるの?」
 金曜日の夜、乾杯をしてひと口飲んだとたん、栞里は詰め寄った。
「平気」
「――じゃないよ。今週、建留さんの隣は千雪じゃなくて、小泉さんばっかり。そういうことが平気だったら、もともと離婚してないでしょ。何が理由でも」
 美耶が栞里の加勢をした。
 こんなふうに攻められると予想はついていて、だから千雪は断ったのに、栞里と美耶に半ば両脇を抱えこまれるように連れられて、三人の新年会は決行された。
 仕事始めの月曜日から五日、建留が内勤だった三日間はくっつくように瑠依が同伴して帰っていたようだ。こんなふうに“ようだ”と曖昧にしか云えないのは、火曜日以降、千雪は終業時刻をきっちり守っていて、実際に目撃していないからだ。
 三沢とか塚田とか、よけいなことは周りが教えてくれる。今日も含めた残りの二日、建留が外で瑠依と合流したのかどうかはわからない。よけいなことと突っぱねるにはおぼつかなくて、知りたくないけどやはり知りたい。
「噂、せっかく落ち着いてたのに、もうただの噂じゃなくてスキャンダルになってるよ。小泉さん、社長公認だってほのめかして鼻高々らしいし――」
「わざわざ教えてくれなくても、わかってるから」
 千雪がさえぎると、栞里はため息混じりで「ごめん」とつぶやいた。
「謝ることない。もとはといえば、わたしが負けただけなの」
「負けたって何よ。千雪が小泉さんに負けるわけないよ」
「そういうことじゃなくて、自分の気持ちを優先した、ってこと。わたしは自分を甘やかしてる」
 栞里と美耶は考えこむように黙った。

 再会した日に、最後だと訴えたにもかかわらず、千雪はその意思を呆気なく自分でひるがえした。建留が強引だから、と、そんな云い訳を自分にしていたかもしれない。
 帰って。ほっといて。嫌い。
 そんな簡単なひと言を一つも云えなかった。

「今時、相思相愛なのに結婚できないとか、ばかげてる。千雪、何度も云うけど、間違っていたのは離婚で、やり直すことは間違ってないんだよ」
「わたしも栞里の云うとおりだと思う。建留さん、小泉さんのことも何か考えあってのことでしょ? 柾也は今月が勝負だって云ってたけど。再来週だっけ? 機密事項(トレードシークレット)だって云って、はっきりは教えてくれないけど、重要人物が来るらしいね」
 ザイドのことだろう。千雪はうやむやに首をかしげた。
「建留はいつも何か考えてる。その結論を妨げているのがわたし」
「それってお惚気(のろけ)?」
 金城が云う『勝負』は勝算ありと見込んで美耶に伝わったのだろうか。美耶は栞里ほど深刻に考えていないらしく、可笑しそうに突っこんだ。
 千雪は眉をひそめて首をかしげる。
「……どこがそんなふうに聞こえるのかわからないよ」
「だって、結論が出せないくらい千雪のこと優先して考えてるってことでしょ」
「そ。なーんだかね、やっぱり建留さんの欠点だよね。なんでもかんでもパーフェクトでいようとするところ。一つくらい捨てたらって、千雪、云ってみたら?」
「捨てるって何を?」
「例えば、不動産、もしくは加納家というしがらみ。建留さんなら、どこでもパワフルにやっていけそうだけど」
 そんな仮想の話はついこの間、建留が泊まった次の日にやったばかりだ。

 貧乏だったらどうしてる? 千雪は建留に質問をした。冗談なのか本心なのか、加納家ではやることのない、狭い家で鍋をつつく、という建留の答えに、千雪は漠然とシーンを思い描き、そうできたら幸せだと思ってしまった。
 いちばん簡単なのは、ふたりとも全部を捨てて、ゼロから始めることだろう。けれど、勝者はおれだ、と建留は云った。そんな建留のものになるべきものを取りあげるわけにはいかない。

「栞里が云うように、建留はどこでもどうにかすると思う。でも、不動産も加納家も、捨てるのは難しいの」
 美耶はすぐさま、「捨てなくっても大丈夫」と受け合った。
「小泉さんの……あ、小泉社長も絡んでいるなら親子共々になるけど、小泉家の誤算はね、建留さんの反感を買う、ということは、不動産だけじゃなくて商事も敵にまわしてしまうということ」
 美耶の云い分は大げさすぎる気がして、千雪はわずかに目を見開いた。
「不動産はおじいちゃんが会長だし、多少は影響あるとしても、結婚はプライヴェートなことだから商事はノータッチだと思う。加藤会長は身内だけど、企業人だし、なんでもかんでも身内びいきする人じゃない」
「実力主義、でしょ。それはわかってる。上戸さんとか、三十で課長代理に抜擢(ばってき)されちゃうんだもの。千雪、わたしは、だから、云ってるの。建留さんのプロジェクトの話、知ってるでしょ。まだ水面下のことではっきりは知らないけど、柾也も仲村さんも上戸さんも、それと連動してやってることがあるみたい。つまり、建留さんがやってるのは、商事と不動産が連携したプロジェクトだってこと。重要人物と絡んでるというのは、それだけビッグプロジェクトだと思うし。建留さんのほうが通ったら一気に進むのに、それを小泉社長が阻んでるって聞いてる。それが個人的理由なら大問題よ。商事が黙っているかな、って話」
 それなら、千雪が逃げなくても、建留はちゃんと手に入れられるのだろうか。
「そう考えると、今回のスキャンダルは千雪にとっていいほうへ動いているのかも」
 栞里は何を思い浮かべているのか、宙を見つめたまま口を挟んだ。
「どういうこと?」
「小泉社長はともかく、いざとなったときにアンチ小泉瑠衣な人って多いんだよ。仕事ができないわけでも明らかに怠けてるわけでもないけど、社長の娘だってことを前面に押しだして、何をしてもまかり通るって思ってるところが露骨でしょ。建留さんて、女子社員にとってはやっぱり憧れの人なわけ。被害というほどじゃなくても、千雪、風当たりは強くない?」
「詰め寄ってこられることくらいはあったけど……気にしないようにしてた」
「建留さんが御曹司だから、社員としては下手なことできないし、それくらいですんでるんだと思うけど、つまり、アンチ千雪な人もいるわけよ。あ、この場合、千雪っていうよりは“建留さんのカノジョ”ってことね。それで、ここからは建留さんのカノジョじゃなくて、千雪ってことだけど、小泉さんよりは千雪のほうがずっといいっていうのが大多数の意見」
 千雪にとってありがたいのかそうでないのか、栞里はややこしい云い方をして締め括った。
「でも、居づらいのには変わりないよね。わたしは結婚したからわりと平気でいられるけど、グループ交際のときは妬(ねた)みやっかみは多少あったもの。みんなもそう云ってた。あたりまえになるまでにはちょっと時間がかかるかも。小泉さんが出しゃばらなければ、千雪も落ち着けたんだろうけど」
 美耶が云い終わると、三人そろってため息をついた。
「建留と同じところで仕事しなきゃいけないってわかってたら……。お母さんの手伝いでもしてればよかった。就活は離婚してからでも遅くなかったし」
「千雪、まさか仕事やめる気じゃないわよね?」
 栞里は鋭い。テーブルに身を乗りだして詰問(きつもん)した。
「いまさら逃げても一緒だよ」

 首をすくめてごまかしたけれど、本当ならいますぐでもやめたかった。違う、やめるべき、なのだ。
 区切りがついたら。そう思って、千雪のバッグには日付を空白にした届出書が常駐している。


 土曜日、先月の初めまでは学校に通っていたから時間に縛られた感があった。十二月に試験があってその感覚も途絶え、いまはまったく時間が空いてしまっている。
 けれど、空虚さのなかに落ちたような気分はそればかりのせいではない。
 学校に行っている期間でも、夕方になると建留が来ることも多かった。けれど、今日は来ない。わかっている。
 迷っていることが解決しないかぎり、建留は会いにこない気がする。電話があったときにそう思ったとおり、今週、建留は訪ねてこなかった。これまでも毎日訪れていたわけではなく、そうできるほど建留が余裕だらけで仕事をやっているわけではないことも知っている。ただ、来ないときはそのかわりに必ずあった電話もかからなかった。

 家にいると、埒の明かないことをうだうだ考えるだけで、かといって、だれかと会う気分にもなれない。外出することに決めた千雪はホーリーガーデンにやってきた。
 建留が泊まった翌日、遅くに起きて、ブランチを取りながら、建留から家族の理想図を聞きだした。千雪はそうしながら、ふたりで暮らす場所はなぜかここを思い浮かべていた。
 幸せが粉々になった日、結婚が期限付きだと知る直前に、ふたりで暮らす住み処を確保しておくと建留が云った場所――あのレストランがこの街にあると気づいたのは一カ月まえ、建留に連れられてこの近くに来たあとだ。
 あの頃は、土地勘がまったくなかったが、業平不動産で働き始めてずいぶんと詳しくなった。先月、ホーリースカイからの帰り道、わざわざ遠回りしてここに来たことが、建留にとってこの街にはなんらかのこだわりがあると、そんな気がしている。
 施工期間を確認してみると、建留が家を出ようと決めた当時、このホーリーガーデンは着工したばかりだった。いまもまだ背の高い囲いのなかにあって一般の立ち入りは禁止されているが、春のオープンに向けて外観も周囲の施設も完成している。
 マンションはなだらかな山の形をしていて、中央の最上階に行けばほかよりも見晴らしがいいという利点があり、逆に一階にあるエントランスの両端は庭付きで戸建て感覚が味わえる。

 建留が口にした夢。
 ――男の子と女の子、一人ずつ、こぢんまりした庭を駆けまわる姿が見たいかもしれない。
 こぢんまりという言葉は、建留の描くパノラマが加納の家から離れていることを示している。
 ここなら、それが実現する。
 子供の顔は想像できないけれど――もしくは建留似の男の子と女の子しか浮かばないけれど、子供たちを遊ばせながらゆったりと笑みを浮かべて見守っている建留の姿は、はっきりと描ける。
 千雪はなんとなくおなかに手を当てた。
 気をつけなくても大丈夫。それはまるきり嘘だ。一般的なデータの確率からいえばちょっと低いだけで。安全日なんて本当はないという人もいる。
 加納家に行った日、頭を打ったあとで休んでいる間、散漫な思考力のなかで可能性を探ったけれど、小泉社長の脅迫の材料は事実としてすんでいることであり、どうしようにも千雪にはタッチできない領域で、なんの策も浮かばなかった。
 離れることしかできないのなら――。
 千雪が何も云わなければ建留はちゃんと避妊をしてくれる。嘘を吐いた理由はほかのなんでもない、建留の子供が欲しいと願った。建留がいなくても、愛された証しになってくれる気がして、思いきれそうな気がした。
 賭(か)けではなく、千雪のわがまま。
 なんの兆候もないおなかを見下ろし、そして目を上げた。
 工事中の囲いがスクリーンの役目をして、そこにわがままな光景を映しだす。
 はしゃぐ子供と千雪と。足りないのは、囲いの向こうにある家と、もう一人の子供と、そして建留。
 建留の腕におさまって眠るのはかけがえのない至福だ。そうしてとは云えなくて――建留が泊まらないで帰る理由も見当はついたから――けれど、それはやっと叶った。建留の体温にくるまれて目覚めたときは、宝物を与えられたような気がした。
 その宝物を穢さないように。
 そう思っているのに、“最後”を引き延ばすどころか、建留を待っている自分にうんざりしている。

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