ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第5章 プリムドールハウス
1.勝者の隘路
『何時に帰る?』
千雪の携帯電話に建留からのメールが届いたのは、席を立った旭人が戻ってくる直前だった。返信は放りだしたまま、それから三十分がたち、まもなく七時だ。
返事をしない千雪が不満を持つ筋合いはないが、そのままほっとかれるとすかすかした心細さが集う。建留の性格を考えたら、その後に催促がないということは、ふたりの不安定さを表しているように思えた。建留はやはり――少なくとも千雪の異変に気づいている。
休み明けの今日、ただでさえ仕事が進んでいない気がするのに、どっちつかずの混迷ぶりに自分が自分をよけいに疲れさせている。これ以上、やっても何も捗らない。千雪はデスクの上を片づけ始めた。
書類を整理している間に、背後の気配が俄に変化した。帰り際の労いの定例句と同時に、ひそめいた声が広がる。
隣から旭人の腕が伸びてきて、人差し指で千雪のデスクを二回叩いた。旭人は逸早く状況を察したのだろう、名を呼ぶのではなくそうすることが、千雪への警告だと知らせる。
なんだろうと身がまえてまもなく。
「亜優、新年会の幹事、今年はよろしくね」
三沢に向かった、瑠依の弾んだ声がすぐ後ろから聞こえた。
瑠依の口調はどこかわざとらしい。千雪はそう感じる傍らで、「お疲れさまです」と声をかける社員たちのイントネーションからその対象が建留だと直感したのは間違いだったようだと、どこかほっとした。
手が止まったのもつかの間、千雪は振り向かないで、瑠依が早く立ち去るよう祈りながら、片づけの続きを始めた。当然、瑠依は“脅迫”のことを小泉社長から聞いているだろうし、そんな彼女との会話など避けたほうがいいに決まっている。
「プレッシャーかけるわね。瑠依のお眼鏡に適うところ、探せるかしら」
そう応じた三沢に何気なく目を向けると、その視線は千雪の背後に向かっていたが、ふとずれた。それが、千雪におりたかと思うと、また上へと戻る。一瞬だったが、何かを訴えるような眼差しだった。
なんだろう、と考えているうちに、瑠依の軽快な笑い声が響く。そんなに三沢はおもしろがるようなことを云ったのか、不自然に感じた。
「亜優なら美味しいところ探せるでしょ。期待してる」
「一般庶民クラスだから、味覚は合わせてもらわないと困るけど」
三沢は瑠依に釘を刺したあと、表情を少しだけ畏まったものに変えた。
「加納代理、お帰りですか」
千雪ははっとして息を止めた。
旭人の警告に気を取られ、軽やかな足音とは別に、しっかりと地を踏むような足音が聞こえていたことをないがしろにしていた。
建留と瑠依が一緒にいる?
千雪は後ろを振り向けなかった。
「急用で出ることになった。さきに悪いけど、戻らないでそのまま帰るだろうな」
「悪くないですよ。お疲れさまでした。瑠依もね」
「わたしはついで?」
可笑しそうな声は「じゃあね」と続いて、足音がしだす。
どうしていいのかわからない。
千雪と建留のことは、いまや社内では公然としているから、ここで会話がないのはすごく不自然に見えるだろう。瑠依と一緒ということが、なおさらその様相をいびつにする。
身動き一つすらかなわず、思考力も極端に鈍っているなか、ふと息遣いを感じた。
「勝者はおれだ。忘れるな」
左の耳のすぐ傍で囁き声が聞こえたかと思うと、建留の手が右側の首もとに沿い、首根っこを撫でるようにして大きな手は離れていった。
振り向いたときは建留の背中しか見えなかった。
建留が瑠依と一緒にいる訳もわからず、加えて、大勢の目が注ぐなかでの親密なしぐさに戸惑い、千雪は居たたまれない雰囲気に放置された。
背中は嫌い。
気づいたときは無意識につぶやいていた。
急ぎたいのを堪えて普段どおりを装いながら身のまわりを片づけると、なんでもないふりをしてチームの面々を見渡し、お疲れさまです、と千雪は席を離れた。
「千雪」
オフィスから出たとたん、旭人が呼びとめた。
「何?」
「兄さんにとって何がネックだと思う?」
「……どういうこと?」
「千雪とまた結婚するのに、兄さんにとっての障害はなんだと思うかって訊いてる」
「……そんなのわかりきってる」
「だから、なんだ」
「おばあちゃんのこと……」
「違う」
ためらいがちに口にすると即座に打ち消された。
「小泉家との関係――」
「違う」
二度めも否定され、そして。
「千雪の気持ちだ」
旭人は断言した。
千雪には思いがけなく、突飛とさえ感じた。
「わたしの……?」
「わからないか? その障害さえなければ、兄さんはとっくに千雪を手に入れてる。千雪は、それがどういうことか考えるべきだ。ほかのことなんて、兄さんならどうとでもするだろう」
そう云うと、旭人もまた背中を向けた。
建留の背中は、千雪が不安でいると拒絶に見えて、置いていかれそうに感じていた。けれど本当は、背中を見せても、振り向く用意はできている、とそんな意思表明がいつのときも隠れていたのだろうか。呼びとめたら、振り向くだけではなく、もしかしたら建留は手を取りに戻ってくるのかもしれなかった。
千雪次第だ。
そんな言葉が耳もとに響いた。
その夜、日付が変わりそうな頃に建留から電話があった。
『迷っていることがある』
暗に時間が欲しいと云い含みつつ、そう口にすることさえ迷っているような云い方だった。電話がもっと早い時間ではなく、ベッドに入る頃になったことを考えても、迷いが溢れている。
千雪もまた電話を取るのをためらい、コールが鳴ってもしばらく放っていたのだ。それを見越していたのだろう、もう眠っているかもしれないという気遣いは見られず、携帯音は鳴り続けて、やっと通話に切り替えた。
ふたりとも迷いだらけで、正解など到底、導きだせそうにない。何を選んでも、後悔するという暗示なのかもしれない。
「わかった」
何もわかっていないのに千雪はそう云った――違う、わかっていることはある。
離れなければならないこと。
千雪が小泉社長から云われたことを、建留が瑠依から聞いたとしたら、建留は何を選ぶだろう。そんな選択をさせるまえに、千雪が選ぶべきなのだ。
「千雪」
「うん」
そのあと、電話越しにただ存在だけを感じる時間が続いて、やがて「おやすみ」と云って電話は切れた。
夢見ていることはきっと一緒で、だから――ごめんなさい――一緒に闘えなくて。
旭人の言葉から少しだけ浮上していた気力は、呆気なくしぼんだ。