ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第4章 ダブルコーナー〜愛人の品格〜
8.弱み
年末年始の休みも明け、六日ぶりになった総出の出勤は、社長の新年の挨拶から始まると、社員同士の挨拶はそこそこに慌ただしくデスクに着いた。かったるい気分をはね除けて、だれもが勘を取り戻そうと追われるように仕事をこなし始めた。
建留もまたそのなかの独りで、営業提案の書類に目を通していく。営業総括推進室はグループ内から様々な相談、あるいは要望がくる。現況と対策案を見比べているうちに、気づくと建留の眉間にはしわが寄っていた。
――建留、しかめっ面してる。
昨日、千雪は二度そう云った。
泊まった翌朝、目覚めたのは建留のほうが早く、ベッドに留まって千雪が起きるのを待った。わずかに身じろいだと思うと、抱いているにもかかわらずさらに身を寄せて、猫のようなしぐさで建留の首もとに顔をうずめてくる。それは脈動を確かめるためだったのか、目覚めかけていた千雪の躰はまた弛(たゆ)んだ。
千雪が起きたのはそれから三十分たった頃だった。
そのとたんの、満面の、とまではいかなかったが、千雪が笑った理由はわかった気がした。
帰国した日を除いて、この二カ月半、建留が泊まることはなかった。そうする建留を引きとめることもなく、ただ、気をつけて帰って、その言葉を平坦な声で送る。平坦だからといって、感情がないわけではなく、むしろ感情を抑えこんでいる。
建留が帰るのは、模索している段階で茅乃を刺激したくないためだったが、帰らないでほしいの――それが千雪が本来、云いたかったことだと思う。
そうわかっていても応じてやれない無力感との闘いが続いている。
おれたちは一緒にいるべきだ。
そう信じて、どうシナリオを立てればいいか、ザイドが来社した時点でプロジェクトのことから動きだすつもりが、それまでの時間は取りあげられ、建留は考えこんでいる。そのときのしかめ面は、たった一日で定着したらしい。
建留は拳で眉間を軽く突いて、しかめ面を解いた。千雪のことを考えると仕事の効率が悪くなる。首を振って回想を振り払った。
昼休みを待って常井と連絡を取り、事情を説明して折り返しメール連絡があったのは、終業時刻をすぎて間もなくだった。それを受けて旭人を呼びだすとまもなくやってきた。
「ちょっと席を外す」
建留は斜め向かいのデスクに着いた秘書に声をかけ、「はい」という返事を聞くのもそこそこに、席を立って後ろのほうにある会議室に向かった。
五つある小会議室のうち、ドアにかかった“空き室”のプレートを確かめてから“使用中”にひっくり返すと、建留は旭人を伴って一つの部屋に入った。
「千雪はどうだ?」
建留が訊ねると、旭人は肩をそびやかした。
「器用なのか不器用なのか、至って普通だ」
不器用に決まっている。建留は、つきそうになったため息を呑みこんだ。胸ポケットから携帯電話を取りだすと、常井の番号を呼びだして耳に当てた。
「建留です。正月早々、お手数かけました」
『長年、なんのために加納家に仕えていると思われているんです? 私は、加納家を守るために顧問弁護士としているんですよ』
弁護士ゆえなのか、常井は云い聞かせるような口調だ。真面目ななかにも潜んだからかいを感じとれるのは、建留が子供だった頃から続く長年の付き合いだからだろう。
「ありがとうございます。さっそくですが、聞かせてください」
『ええ。まず須藤家の件ですが、情報操作については万事うまくいってます。まえに提示したとおり、あの男については似た男をTSエージェンシーから宛がい、そして、TSエージェンシーから東西データバンクに潜入させた者が手引き。小泉社長には、あの男が偽物というだけで、あとはありのままの情報が年末に提供されました』
「仁條家の調査についてはノータッチですね?」
『ええ。よかったんですか』
「公になっても加納家内部が傷つくだけです。対外的には何も問題になりませんよ。そうでしょう? 問題は、脅しの標的がおれじゃなく千雪であることです」
千雪から、小泉史也が茅乃の初恋の話をしたと聞かされた直後、もしかしたら、と手配した結果、興信所が興信所を調べるという経緯に至った。そこでわかったのは、小泉社長から依頼された東西データバンクが、須藤家の調査に着手していたことだ。幸いにして、須藤家は人付き合いがほとんどなく、難航しているようだったが、いずれわかるだろう、そう思って先手を打った。
小泉家が黙っているはずはない。それは最初からわかっていたが、迂闊(うかつ)だったのは、加納家で堂々と脅迫行為がなされたことだ。
『千雪さんはなんと?』
「常井さんも千雪を知っているでしょう。聞きだせないから常井さんに確認を取ったんです」
電話の向こうで常井はため息を漏らす。
『建留さん、茅乃さまからも連絡がありました』
「……祖母から?」
『ええ。小泉家に対して、不信感を持たれているようです。建留さんに悪影響があるようなことをおっしゃっていました。日時を調整して、茅乃さまとは秘密裡に加納家で会う予定です。会長には内緒にしてほしいと頼まれましたが、建留さんにそうしてほしいとはおっしゃいませんでしたので』
「ありがとうございます。お世話かけました」
電話を切ると、旭人は促すように顎をしゃくった。
「小泉社長には提案どおりの報告がいってる」
建留が云うと、旭人の面持ちは案じるようでもあり、険しくもした。
「バレたらどうなんだ?」
「なんら嘘はない。男はダミーでも、云い訳はつく。寝た子を起こしてどうするんだ。ああいう奴は見境なく脅してくる」
「嵌められた興信所は?」
「バレたとしても、東西データバンクの失態であることには変わりない。興信所にとっては、調査ミスは致命傷だ。騒ぎ立てて自ら評判を落とすようなことはないだろう。よほどのバカじゃなければ」
「確かに」
旭人は納得したふうにうなずいた。
「旭人、常井さんによれば、ばあさんが小泉家を警戒し始めた」
「どういうことなんだ?」
「そうさせるようなことを社長が口にしたことになる」
「千雪に?」
「ああ」
「何を? 千雪の母親がが婚外子だってことをか?」
そう問われて、建留はしばし考えこむ。
「いや……ばあさんは、おれに悪影響があると云ったらしい。愛人の話なら、千雪が傷つくだけだ。おれに影響はない。それに、そこをつつかれるのは、ばあさんにとっても看過できることじゃない。プライドがあるからな。小泉家にとって、ばあさんの意向は唯一の武器だ。機嫌を損ねるはずがない。けど、結局は不信を招いてるし……」
建留は言葉尻を濁(にご)し、肩をすくめた。それがいいほうに転がればいいと期待しながら、何かを脅された千雪が身を引こうとするのも想像にたやすい。最後に――終始、その言葉が建留に付き纏っている。
旭人はため息をついて壁に寄りかかっていた背を起こした。
「おれも探ってみる」
「どうする?」
「常井さん、ばあさんに会いにくるんだろ? 母さんでも使うさ。おれの頼みを嫌とは云わないはずだ」
その云い方は、旭人の傷が少しも癒えていないことを示す。
真っ当な後継者であるにもかかわらず、加納家のなかで疎外感を抱いているのは、実は建留よりも旭人かもしれなかった。
「頼む。情報が入るに越したことはない」
「父さんには今日、話すんだろう?」
「ああ。退陣劇には覚悟がいる」
「しっかりしろって云っておく。父さんも償うべきだ」
旭人は皮肉っぽく笑って会議室を出ていった。
会議室にとどまった建留は、帰る時間を訊ねようと千雪にメールを送った。だが、いつもなら三分以内に返ってくるメールが、五分たっても来ない。それが千雪の意思表示なら――。
やはり、昨日のことが甦る。
建留、子供は何人欲しい?
出し抜けの質問に、建留は自然に任せていいと答えたが、理想でいいから、と千雪は云い張った。答えると、今度は男の子と女の子とどっちがいいかと訊ねる。また答えれば、理想の家はどんな感じかと続いた。
建留から理想を聞きだして、何を得ようとしたのか。
締めつけられるような感覚と一緒に、右側の首の付け根が疼いて、建留はそこに手をやる。
昨夜、帰るのは千雪が入浴をすませてからとリビングで待っていると、風呂に入ってはじめて肩のしるしに気づいたらしく、戻ってきた千雪は「おかえし」と云って背後から建留の首根っこに咬みついてきた。
油断してる。だから、勝者でいられるようにおまじない。
容赦ない痛みに建留が呻くと、千雪はそんな言葉で云い訳をした。
ごめんなさい。
そう付け加えた言葉の裏にあるものは読みとれなかった。
けりがつけられるまで、千雪の思うようにさせたほうがいいのか、それとも、こうなったからこそ、括ってでも傍にいさせるべきなのか。判断がつかない。いや、ただ単に前者を選びたくないだけかもしれない。
建留は自嘲ぎみに笑った。
一つ息をついて携帯電話をしまい、会議室を出ようとした矢先、ノック音がした。
どうせ出るところだと一歩踏みだしたとたん、返事がないにもかかわらずドアは開けられた。
ハイヒールを履いた足が見えると、直感したとおり、それは瑠依だった。強引に入ってくると後ろ手にドアを閉める。
「なんだ」
建留が短く訊ねる間に、瑠依は正面に来て立ち止まった。
「冷たいよね、建留。千雪ちゃんが来るまえは、面倒見がよくてやさしかったのに」
「千雪をヘンに傷つけるような真似をしなければ、いまでもそうしていられた」
「千雪ちゃんのお披露目パーティのこと?」
建留は肩をすくめるだけで答えなかった。
「わたしはただ、沙弓さんを追い払いたかっただけよ。それをみんなが勝手に深刻に受けとったんだわ」
「巻きこむべきじゃなかった」
「わかってるわ。わたしの最大の失敗だった。千雪ちゃんは建留の保護本能を最大限に引きだして、同情させて結婚までしちゃうんだから」
「同情?」
愚論だとばかりに問い返し、建留は薄らと皮肉っぽく笑んで見せた。
瑠依はどう解釈したのか、勝ち気な様子はまったく消えない。
「千雪ちゃんが来た日、会長から頼まれたって云ってたよね? わたしは建留から頼まれて千雪ちゃんの服を用意したわ。責任、持ちすぎじゃない? それとも、付け焼き刃みたいな従妹がそんなに大事? わたしのほうが断然、建留とは長い付き合いだけど。血統なんて関係ないでしょう?」
思わせぶりに瑠依の口角が上がる。
建留は眉をひそめた。
「何が云いたい?」
「血統で云えば、千雪ちゃんには正当な相続の権利があるけど、建留にはないってこと」
警告を込めて目を細めたあと、そうすることさえばかばかしくなって、建留は首を横に振った。
「それなら、おれのことはやめたほうがいいんじゃないのか」
「そんなことないわ。わたしが相続権について知ってることは建留も知ってるでしょ。おばあさまもやるわね。結局は、加納家最大の強み、“金のなる木”を建留に継がせたんだもの。わたしはそうなるまで待ってなさいって云われたから待ってただけ」
「おれの意思はどこにいったんだ?」
建留は吐き捨てるように問うた。
「ねぇ、建留。千雪ちゃんがいなかったら、って考えてみて。わたしとの結婚はごく自然な成り行きだったと思わない?」
にっこりと持ち前の笑顔を浮かべた瑠依は、建留の疑問にまともに答えなかった。建留はうんざりと首を横に振る。
「千雪がいなかったら、か? そんなことは考えられない。それが、おれの、永遠に変わらない答えだ。“小泉瑠依さん”、きみに対しても、だれに対しても」
建留は、これまでうやむやにしてきた瑠依との距離を明確に提示した。察しているだろうに、彼女は笑みを絶やさない。
「そうね。千雪ちゃんは現れちゃったんだもの、記憶から消えることはない。でも、建留、わたしと結婚すればわかるわ。そうしたら、建留はわたしのことを気にかけるようになる。千雪ちゃんにそうしていたようにね。建留はそういう人」
「おれのことをどう思おうがかまわないけど、小泉さんとの未来はまったく浮かばない」
「わたしは建留が好きなのよ。はじめて会ったときから、ずっと」
「それが本当でも、もう応えられない」
「“もう”? じゃあ、千雪ちゃんが来るまえに告白してたら違ったの?」
「だから、考えられないと云ってる。小泉さんに対して責任を感じていたことはある。けど、おれが千雪に対して責任だと思ったのは、千雪を迎えにいくまでのことだ。ばあさんに何をすりこまれたか知らないけど、自分と向き合ったことがあるのか。例えば、おれから業平不動産も加納家も取っ払ったらどうする?」
「そうじゃなかったらわたしたちは会ってないもの。おかしな質問よ?」
千雪との未来や理想は、どんな条件の下(もと)でも、どれだけでも描ける。
『例えば、不動産も加納家もなくて、わたしが育った須藤の家みたいに貧乏だったら、建留はどうしてる?』
『千雪がすぐ襲えるような狭い家で暮らすのもいいかもしれない。小さい座卓で鍋つついて』
理想の話の延長で千雪がした問いにそう応じると、千雪はめずらしく可笑しそうにしてうなずいた。
業平不動産を取っ払っても加納家を取っ払っても。
それを考えもしない瑠依の答えは、建留のなかにある、彼女に対する責任に似た近しさまでをも清算した。
「だったら、そのまま、もう一度さっき小泉さんがした質問の答えとして返す。何かにつけて、千雪がいなかったら、というのはおかしな質問だ」
瑠依はこのときはじめて、自信をなくしたように見えた。だが、一瞬のことで消え去る。
「でも、千雪ちゃんとはもう一緒になれないわ」
「なぜ?」
「不動産を継がなければならないでしょう? おばあさまのために」
「おれの意思は無視するってなんだ」
「不動産を継ぐのは建留の意思でもあるはずだわ。だから、プロジェクトに必死になってる。実現させるためには、どの道を選択すれば最善なのか、わかるでしょ?」
そのとき、建留は千雪が何をもって脅されたのか、わかった気がした。千雪が口にしたことと咬み合わせれば自ずとピースは嵌まる。
「そういう手を使う気はない。おれにもプライドはある。この話はもう終わりだ。社長にもはっきり云わせてもらう」
瑠依を避けて通り抜けようとしたが、彼女は躰を横にスライドさせて行く手をふさぎ、なおも喰い下がる。
「株のほかにも会長には財産あるでしょう。いまのところ千雪ちゃんには相続の権利がなくても、千雪ちゃんのお母さんには権利がある。つまり、ずっとあとにはそのぶん、千雪ちゃんのものになるんだし」
「関係ない」
「千雪ちゃんはそう思うかしら」
「離婚までしたんだ、おれと千雪の間で財産の話はもう問題にならない」
「それじゃあ、何が問題になるのかしら」
瑠依は小気味よい様で――
「会長の愛人だった人の孫だって知られること?」
建留の弱みを突いた。