ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第4章 ダブルコーナー〜愛人の品格〜

6.涎をたらす狼

「浅木さん、お雑煮(ぞうに)のおかわりを二つって」
 キッチンにいる浅木に声をかけると、すまなそうにした笑顔が返ってきた。
「千雪奥さ……千雪お嬢さまに手伝っていただくのは助かりますけど、少しはごゆっくりなさってください」
 最初、云い間違った浅木は自分で呆れたように首を振りながら訂正して、千雪を気遣った。
「浅木さん、知ってるでしょ。わたしは、だれかの話し相手するよりも配膳したほうがラクなの」
「そうでしょうけど……」
「千雪ちゃん、ティルームにお茶をお願いしたいんだけど」
 浅木が云いかけたところへ割りこんできたのは瑠依だった。
 家の主然とした云いぶりに千雪は眉をひそめたくなったが、不快感は内心に留めておいた。
「おばあちゃん、休憩?」
「お茶は二つね。緑茶でいいそうよ」
 瑠依は肩をすくめて云うと、ダイニングを出ていった。
 時計を見ると、九時をすぎている。もう、親族である業平創業者の加藤家を中心に、普段から懇意にしている人ばかりだから、いつ終わるとも知れず、茅乃は寝室に引きあげるのかもしれない。
 千雪を見ればまた不愉快にさせそうな気もする――と思って、千雪は小さくため息をついた。
 瑠依と鉢合わせしたくなかったのに結局はそうなってしまうと、早々と帰る理由も曖昧になった。建留に付き纏う瑠依を見るのも嫌だが、いない間にここぞとばかりにくっついていることを思うと帰れなかった。千雪がいようといなかろうと、瑠依はおかまいなしだろうが。
 それに、お呼ばれしてさっさと帰るのもずうずうしい気がして結局、千雪は加納家に残った。
 ただし、幸いにして、なのか、いまみたいに女主人張りの動きをすることはあっても、建留と瑠依のツーショットを見ることはない。
「わたしがいきましょうか」
「ううん、大丈夫」
 千雪の心情を察した浅木の申し出は断った。
 もしかしたら、茅乃が千雪を指名したのかもしれないと思った。良からぬことが待っているとしても、耳をふさぐより知っていたほうがいい。

 ティルームのドアをノックしても返事はない。千雪はお茶をこぼさないよう慎重にしながらドアを開けた。
 なかに入って顔を上げたとたん、千雪は不意打ちを喰らった。
 そこにいるのは茅乃ではなかった。
「きみと話がしたい。座ってくれ」
 のんびりしすぎている。千雪は自分で自分を叱る。
 千雪を建留から引き剥がしたがるのは、茅乃や瑠依ばかりではない。小泉社長もそうだ。
 一瞬なのか五分なのか、そんな感覚さえ虚ろのまま千雪は立ち尽くす。

 ヨーロピアン調のティテーブルは脚の曲線が優雅だが、部屋の中央で椅子の背にのけ反る小泉社長はふてぶてしくて、その雰囲気をぶち壊している。狼のようによだれを垂らし、逃げ場のない小動物が自暴自棄になって飛びこんでくるのを待ちかまえているようだ。
 小泉社長が暴力に及ぶということはないとわかっているからまだましだが、ただでさえ千雪は男とふたりきりというのが苦手なのだ。窮地に陥った気分になっているから、よけいにそう見えるのかもしれない。
 千雪はなかに進んで、小泉社長が座ったティテーブルにトレイを置く。お茶を出す手がどうにかふるえないで正気を保てたことは、わずかだが自分自身への助けになった。トレイをもう一つのテーブルに置くと、小泉社長の正面に座った。
 小泉社長は頭が切れるから業平不動産という巨大企業でも五十代の若さで戦略のトップという座に上りつめたのだろうし、見た目は瑠依と似たところもあって、いま六十四歳といえども若々しく精悍(せいかん)だ。けれど、この期に及んで加納家の名を借りようとするところは、まるで頭が悪くて一匹では小さな獲物しか狩れない、実は臆病だという狼の性質そのものだ。
 レオパードと狼が闘えばその結果は歴然なのに、いまは千雪独りで向かわなければならない。
 クッション付きの椅子に座っても少しも落ち着かない。小泉社長の目がじっと注がれているのを感じて、千雪はどこを見ていいのかわからず、ただ閉塞的な気分だけがうっ蒼としていく。
 建留。
 無意識に呼び、建留がついているということが千雪を力づける。気づかれない程度に一つ深呼吸をしたあと顔を上げた。

「伺います。なんの話でしょうか」
「わかっているだろう」
 答えれば付けこまれそうで、千雪は黙って次の言葉を待った。
 小泉社長は薄らと笑い、湯飲みを取って口をつける。茶托に戻すと、また椅子に踏ん反り返った。
「きみは頭がよさそうだ。私は、きみができる最善のことをきみは尽くしてくれると信じている」
 最善という言葉が何を指すのかはおよそわかる。けれど、小泉社長がそれを当然とする理由が何にかかるのかまではわからない。
 小泉社長は結婚八年にしてやっと子供に恵まれたといい、その瑠依を溺愛している。ずっとまえは、芳明と比べながら――比べる基準が最初からずれているが――娘に関心を持ち甘やかす、そんな父親がいることをうらやましと思っていた。いまは、自らを過信した狼親子にしか見えない。
 千雪がだんまりを通すつもりだと悟っているのだろう、小泉社長は一拍置いて続けた。
「きみの父親はアル中だったと聞く」
 瑠依のために手を引け、そんな強要とはかけ離れ、なぜここで芳明の話題が上るのか。千雪はとっさに身構えた。
「まあ、『だった』と過去のことにするには、アル中は治らないらしいからな、きみの父親は一生、アル中患者だ。その娘が、この加納家にふさわしいと思うかね?」
 小泉社長は、贅沢と慎み深さがうまく調和した室内をぐるりと見渡した。
 ただ手を引け、という直球の話ではない。小泉社長は真正面からではなく、まったく背後から来た。
 滋の意思のもとで結婚までしたのだから、芳明のことが加納家にとって不都合だというのは考えたこともなかった。

「父は……病気です。精神的に弱い人で、たまたまお酒に依存したというだけで……。いまは母と一緒に、仕事でも家でも普通に生活できています」
「それはクリアできたとしよう。だが、きみの父親が暴力団と係わっていたとしたら?」
 千雪にはひどくとっぴな話に聞こえた。気の弱い芳明が、そんな関係をどこかで築いているとしたら、お酒に溺れていた頃、役に立たないととっくに葬(ほうむ)り去られている気がする。
「そんなこと考えられません。父はほとんど家にいました」
「考えられない? きみはそういう輩(やから)と会っているはずだがね」
 千雪は考えこんだ。身に覚えはない――と自分のなかで断言しかけた矢先、一つだけ、肝心なことを除外していると思い当たった。さっき建留と話したばかりで、かけがえのない出会いとともに複雑に共存する、思いだしたくもない出来事。それしか浮かばない。
 けれど、千雪と“そういう輩”が会ったことを、小泉社長はどうやって知ったのだろう。それよりも――千雪はおののいた。どこまで知っているのか、ということのほうが千雪にとっては遥かに大きな問題だった。小泉社長の云わんとするところがその日のアクシデントじゃないことを祈るだけだ。
「……わかりませんが」
「きみが加納家に来た日のことだよ。自宅で会っている。憶えていないことはないだろう。ひどい目に遭ったらしいからな」

 小泉社長はテーブルに置いてあった手帳に手を伸ばす。手帳を見開き、そこに挟んであったものをもったいぶった様で千雪のまえに差しだした。
 見たくもない男が映った写真だった。正面を向かず、いかにも隠し撮りをしたという写り方で、眼鏡をかけてもいないし、その顔をよく憶えてもいないから断言はできない。ただ、雰囲気はそっくりだ。
 小泉社長はすべて知っている。そう明らかになったとたん、腿の上で重ねた手がこわばった。それが躰全体に波及して千雪を萎縮させる。
 小泉社長は喫煙者で、ここは禁煙室だから吸っていないが、喫煙者用としてあるリビングの換気のいい一角で吸ってきたばかりだろう、傍にいると煙草の臭気を感じる。相まって、あのときの下卑た煙草臭さが甦り、千雪は吐き気まで覚えた。
 ひどい目に遭ったのは事実だ。ただし、小泉社長の発言のニュアンスは違う。

「何もありませんでした」
 千雪は自分でも頼りないと思うような声でしか反論できない。
 小泉社長は気の毒だといった表情で口もとに笑みを浮かべる。
「だが、そういう話になるんだよ。世間に漏れれば。加納家はきみの父親のかわりに金で方を付けている。それがどういうスキャンダルになり得るのか、見当はつくだろう」
「この人は、父がお金を借りた人というだけです」
「そのとおり、ただの借金取りだろう。だが、返済分のみならず、須藤家の――きみのために多額の金が動いている。口封じだ。それがマスコミに知れるとなると、暴力団への資金流出、癒着(ゆちゃく)という言葉がつく」
 見せかけの同情を宿しながら、「こういうことは云いたくなかったんだが」と付け加えられた。
「でも……そうしたら瑠依さんにとっても……」
 千雪がそう云うのを待っていたかのように、小泉社長は軽薄な笑い声を立てた。
「わたしが何を云わんとしているか察せるなら、小泉家になんらダメージは及ばないとわかるはずだが?」
 小泉社長はしたたかだ。いま彼がやっていることをはっきりと名づけるのならば、それは“脅迫”だ。それを一切口にすることなく、千雪に二者択一を迫っている。
 選択肢は、スキャンダルか離別か、千雪にとってどちらも無下にできないものだった。
「きみの選択によっては、建留くんのプロジェクトも無駄に終わるな」
 小泉社長は駄目押しをした。
 最善――と千雪がそれを尽くすと確信し、「以上だ」と、まるで仕事の打ち合わせを終わらせるかのような事務的な口上で締め括られた。

 小泉社長が出ていき、ドアの閉まる音も千雪の聴覚には引っかからず、素通りした。いつの間にか静けさに支配されたなかで途方にくれる。
 いや、途方は決まっている。選ぶまでもない。
 怖くてたまらない。すべてが手のひらからこぼれ落ちたような気がした。

「千雪さん」
 そう呼びかけられるまで、再びドアが開いたことにも気づかなかった。
 千雪はハッとして椅子から立ちあがり、振り向くと今度こそ茅乃がいた。
「まさか加納家の名に泥を塗るつもりはないわよね? ひと財産持って出たのに、恩を仇(あだ)で返すようなことはしないでちょうだい」
 聞いていたのだ。そう確信した。
 茅乃は「あなたには」と思わせぶりに溜めたあと。
「愛人がせいぜいだわ」
 千雪を無造作に蔑(さげす)んだ。

 出ていって! そう云いたい気持ちは声にならず――違う、出ていかなければならないのは自分のほうだ――と、思考が散り散りにさまよう。
 無意識で千雪は後ずさり、茅乃から遠ざかった。不快なものをわざわざ寄せつける必要はない。そうしないために手っ取り早く簡単にすむのは、自分からその場を逃げ去ること。その一点のみで、もう一つテーブルがあることはすっかり頭になかった。千雪の踵が猫足の形をした椅子の脚に引っかかる。

「千雪さん!」
 気づいたときは、バランスを完全に崩していた。躰をひねってテーブルを支えにしようとした手はすかされ、椅子ごと転びかけた。千雪の口から悲鳴が飛びだしたのもつかの間、足もとを確かめようと下を向いたとたん、ちょうどテーブルの端が目のまえに迫り、左のこめかみをしたたかに打って痛みに息を呑んだ。その反動で椅子と一緒に床に倒れこむ。
「千雪さん!」
 二度めは、部屋に入ってきたときの、いい気味だといった声音とは違い、責めるような呼び方だった。
 階段から落ちて入院したときのように、麻耶は心配のあまり怒ることがあるけれど、そんなときの云い方に似ている。
 茅乃は、千雪に対して悪感情は抱いていても、躰を痛めつけることは論外なのだろうか。勘違いでなければ、そこに救いがあるようでいて、もうなんにもならない。
「大丈夫で……」
「じっとしてなさい」
 本能的に起きあがりかけると、茅乃は千雪を制して足早に部屋を出ていった。

 それから、千雪は上体を起こしただけで立つまでに至らない。気力がすべて削がれたような感覚に陥り、本能ではなく、いざ意思を通して立とうとすると躰には伝わらなかった。茅乃の命令が、まるでロボットのリモコン操作を中断したみたいに、千雪の運動神経を停止させたのかもしれない。
 あまつさえ、思考力もあやふやだ。テーブルは丸みのあるつくりだから頭のなかまで影響はないと思うが、打ち身の痛みは脳内に響いていて、よけいに考えが成り立たない。
 選択は決まっているのに、そのずっと向こうに続くだろう自分の行く先がさえぎられてしまった。

「千雪」
 どれくらい時間が経過したのか、すぐ傍で深刻そうな声がした。かと思うと、うつむいた千雪の視界に、“男”の手が侵入する。こめかをかばった手とは反対の手でとっさに払いのけ、千雪は隠れるように顔を背けた。肌と肌が弾かれた残響音が部屋に漂う。
 すっと息を呑む音がして――
「千雪」
 再度、今度は手を出さず、ずっと用心深い声で名を呼ばれた。それが建留の声だということが千雪のなかに浸透すると、ゆっくり顔を上げた。
 思いつめた面持ちながらも、建留の眼差しには窺うような気配を感じる。
「どうした」
 静かだからこそ感じとれたのは、声に滲む怖れだった。“男”だから拒絶したのであって、建留を拒んだわけではない。そう云うかわりに千雪は首を横に振った。
「大丈夫……もう一つテーブルがあるのを忘れてたの」
 建留は千雪のこめかみに手を伸ばす。ためらいがちに指先で千雪の手に触れ、拒絶がないと知ると、息をついて、打ち身を隠す手を引き剥がした。
「赤くなってる。頭痛は?」
 その訊き方から建留は状況を把握していることがわかる。茅乃は直接、ほかのだれでもなく建留を呼んだのだろうか。
「大丈夫。打ったところが痛いだけ」
「ほかは?」
「ううん、平気。慣れないことして疲れてるのかもしれない。帰っていい?」
「いや、このまま泊まっていくべきだ。脳しんとうを起こしてるかもしれないし、様子を見たほうがいい」
「だから家で寝てる」
「だから。独りじゃ意味がない。何かあったときに気づいてやれない」
 建留は何かを懸念しているようで、わがままを通そうとする子供のように喰いさがる。
 建留は何らかを気取っている。千雪はそう思ったが、まだ、決断は伝えたくなかった。
「建留、着替えがないし、この家は嫌なの。わかってるでしょ」
 しばらく考えこんでいた建留は、やがて整理がついたかのようで、首をひねりながらため息をついた。
「この家は千雪を痛めつけてばかりだ」
「そんなことを云ったら、出ていけって家が怒るんじゃない?」
 建留は緊張が解けたように肩を落とすと、ため息混じりで笑った。
「ああ、撤回だ。痛めつけてるのはおれだな」
 違う。いちばん千雪を痛めつけているものは、建留を好きでやまない自分の気持ちだ。

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