ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第4章 ダブルコーナー〜愛人の品格〜

5.エルピス

「千雪」
 突然、後ろから声がして、飛びあがりそうにびっくりした。驚きすぎて、悲鳴は息を呑んだのと同時に消化される。千雪は息を詰めたまま、反射的に声がした背後を振り向いた。
 いつの間に、もしくはいつ来たのか、ティルームの方向とは反対の入り口から旭人が近づいてきた。
「だれもがあきらめてるのに千雪は果敢だな」
 その発言は温室内の会話を聞いていたとほのめかしているに違いなく、千雪はわずかに眉をひそめた。
「もしかしてずっといた?」
「べつに立ち入り禁止ってプレートはなかったけどな」
 そういう問題ではない、という反論は呑みこんだ。どうせあらぬ理屈を並べてやりこめられる。
「あきらめてるっておばあちゃんのこと?」
 旭人は千雪の頭上を通り越して、茅乃たちが出ていったドアのほうを見やった。
「そう。ばあさんがああなる理由もわからないわけじゃないけど、誰も彼も巻きこむのは訳が違う。ただ甘やかしてそれをほっとくじいさんもじいさんだ」
 千雪は目を見開いた。旭人の云い方は批難がこめられている以上に、憎々しいような刺を感じた。
「旭人くん?」
 遠慮がちに呼びかけると、旭人は千雪を見下ろした。淡々とした表情だ。そして。
「おれは兄さんが大嫌いだ」
 その言葉の意味にそぐわない微笑を浮かべ、旭人は云いきった。
 千雪はさらに目を丸くする。もちろん、兄弟がべたべたするほど仲がいいとしたら、そのほうが異常なことだと思うが、建留と旭人は、互いに挑むような雰囲気を感じることはあっても、嫌っているとまで感じたことはない。
「兄さんは、おれから代替えのきかない大事なものを奪った」
「大事なもの?」
「ああ。けど、正しく云えば、奪ったのは兄さんじゃない。ばあさんだ。子供だった頃の話だ。兄さんを恨むのがいちばんたやすくて手っとり早かった」
「……いまは違うの?」
「親友には見えても、敵同士には見えないはずだけどな」
 大事なものとは何か、促しても旭人は答えなかったが、いまは千雪から見ても建留に対する負の感情は見えないし、建留と同じように旭人は親友と口にした。そう呼べる兄弟関係は、姉妹さえいない千雪にはやはりよくわからない。
「建留も旭人くんのこと、いちばんの親友だって云ってた」
「おれのいないとこでそう云うってことは嘘じゃないんだろうな。それをうれしいと思うってことは、おれも素直にそう思えてるってことだ」
 旭人は肩の荷がおりたような様で、少年ぽく顔をくしゃりとして笑う。
 建留もそうだが、普段から旭人は感じていることを表に出さない。それ以上に、謎めいた気配を放つ。家族に対してもそうで、傍観者という立場に徹している。そんな旭人が、抱えているもの、それが何かはわからないが存在だけは明らかになった。

「業平不動産の跡継ぎは……旭人くんも上に行きたい?」
「おれは兄さんの力になれたら充分だ。向き不向きってのがあるだろ。計算しながらも勘が働く兄さんにはトップが向いてるけど、隅々まで正確さを求めがちなおれには向いてない。おれと兄さんに、後継とか財産とか、骨肉の争いを期待してるんなら外れだな」
 そんなものを期待するわけがないのに旭人は揶揄する。ただ、そうしたことで、千雪がふと覚えた懸念は払拭された。旭人の“大事なもの”は相続とは関係のないことなのだ。
「そんなこと望んでない。結婚は相続のためだったし、条件だったわたしが原因で兄弟ゲンカしてほしくないだけ」
「相続のために兄さんが結婚したと思ってるのか?」
 顔をしかめた旭人は責めるようだ。
「そう思ったこともある。でも、いまの旭人くんの云い方で、そうじゃなかったって保証がもらえた。ありがとう」
「礼はちゃんと形になってからだろ」
 旭人は不要だとばかりに首を振り、それから「千雪」と改まった。
「何?」
「兄さんは孤独だ。千雪が加納家に来たことで救われた部分があったんじゃないかと思う。兄さんのこと、ちゃんと見てやれよ」
 建留への関心を捨てない茅乃に瑠依、会社ではどこからでも挨拶言葉が飛んでくるほど人望があって、貴大たち友人についても事欠かない。そんな建留と孤独という言葉が合致しなくて、千雪は首をかしげた。
「ちゃんと見てる。でも、孤独って……」
 千雪は云いかけて口を閉じた。旭人の向こうに建留が見えた。
 千雪の視線を追って振り返った旭人は、そのまま建留のほうへと向かった。すれ違いざま、しばらく言葉を交わし、それから建留だけが千雪のもとへやってきた。
 ふたりが何を話していたのかはまったく聞きとれなかったが、千雪はどういうことか感づいた。

「おれはついてきてないし、盗み聞きもしてない」
 千雪の仏頂面をまえにしても、建留には疾しさの欠片もない。
「旭人くんにそうさせるなんて同じこと!」
「瑠依が予定より早く来たから、旭人をやったんだ。ばあさんと話すことは必要でも、瑠依とは必要外だろう」
 建留は気がまわる。安らいでいられるときがあるのだろうかと思うくらい。
 ちゃんと見てやれ、とそう旭人が云ったことの本当の意味がわかった気がした。
「……おばあちゃんはやっぱり建留と瑠依さんの結婚を考えてる」
 建留は眉をひそめてうんざりしたように息を吐く。
「その考えは間違いだっていずれわかる。わからないとしても、そうなることはない。千雪はわかるだろう? いや……わかってくれないと、おれはぜんまい仕掛けのただの人形でいるしかない」
 云っているうちに建留は、何かに駆り立てられたように攻撃性をあらわにした。
 云い終わったとたん、千雪の頬を支えるように持ちあげて、建留は無遠慮にくちびるをふさいだ。
 何かを奪おうとするように頬の裏を這いずり、千雪の舌をすくってくすぐる。建留から薫る日本酒の名残のせいか、ただキスに魅せられているのか、千雪は脳内がふわふわして酔った気分になる。
 荒っぽくも感じるようなキスの終わりかけ、吸盤をはがすようにしつこく絡みながら建留は離れていった。

「おれがむちゃをやるのは千雪のせいだ。けど、ほかのことは千雪のせいじゃない。ばあさんが理不尽なことを押しつけてる。それだけだ。もう腫(は)れ物に触るようなことはやめて向き合うべきだ」
 腫れぼったく感じるくちびるを親指の腹で撫でながら、建留は思い定めた様子でつぶやいた。
「建留、わたしはまだ知っちゃいけない?」
 訊ねると、建留は責めるように目を細め、千雪は取り返しのきかない悪さをしたような気にさせられた。希望(エルピス)をそこに置き去りにしたまま壷(つぼ)を閉じてしまったパンドーラーはそのとき、いまの千雪みたいな心境だったかもしれない。
「おれは、知られることを怖がってるわけじゃない。千雪にまったく非がないことであっても、それを知ったら千雪はおれから逃げるかもしれない。それを避けたいだけだ」
「怖がる? 建留が?」
 そんな言葉を云うとは思わなくて、千雪がめずらしいものに出会ったかのように首を傾けると、建留は大して可笑しそうでもなく、首を横に振って笑った。
「ばかばかしい説得なんていう、面倒くさいことをおれにさせないでくれ」
 建留は、聞き様によっては散々なことを要望した。口調自体は軽口を叩くようだったが、その実、危惧しているのは本当のようで、千雪の心底まで貫くような眼差しを注ぐ。
「千雪には結婚を壊した前科がある。それを後悔して、二度とバカな真似をしないって云うんなら……そうだな、そうしようとしたときは、逃げださないように手枷(てかせ)足枷をつけてかまわないって云うんだったら話す」
 千雪に一方的に結婚破綻の責任をなすりつけ、挙げ句の果て、建留はめちゃくちゃなことを付け加えた。

「建留、中東に行って変わった? 男性優位みたいなこと云ってる」
「おれは、千雪一人だ。何より尊重してるのに、どうやっておれが優位に立てるんだ?」
 よほど癇(かん)に触れたのか、建留は絡むようだ。それが包まれた頬からも伝わってくる。
「手がきついの」
「アバヤで身を隠してほしい。そう思わなくはないけど」
 建留は千雪の訴えに頓着せず、本気と冗談と判別のつかない言葉を漏らす。
「アバヤ?」
「アラブの民族衣装だ」
「……だれがだれだかわからない黒い服のこと?」
「ああ」
「……それ着たら特別にならなくてすんだかも」
「……色の話?」
「うん」
「嫌な思いした?」
「面倒くさかっただけ。きれいな色って云われたらお礼云わなきゃいけなかったし、中学生になったら、“進んでる”みたいに思われて、イイ子って云いにくい子たちから声かけられて……」
「男? 女?」
 そんなことが気になるのだろうか。千雪は首をかしげた。
「どっちも。男の子のほうが多かったかもしれない。それで女の子が文句を云ってくることもあったけど」
「怖い思いしてたみたいだな」
「べつに。可愛くも美人でもないし、ずっと絡まれることはなかったから」
 千雪はなんでもないと肩をすくめて見せたが、当時は独りで対峙するのに勇気を奮(ふる)い起こさなければならなかった。
「可愛くも美人でもない? おれは自分の目が節穴だとは思ってないけどな」
「……どうかしてる」
 建留は皮肉っぽい笑い方をした。それから、さっきの話は終わったかと思っていたのに、一瞬だけ千雪のなかに甦った心もとなさを察したのか――
「いまじゃなくて、学生のとき髪は染めておくべきだった」
 と、しかめた声で云いながら、なだめるように千雪の頬を撫でる。

「お母さんを責めないで。忘れてたくらい大したことないの。だからお母さんには云ってないし、いまさら云わなくていい」
「おれが思いださせたらしい。悪かった。責めてるんじゃなくて、ノータッチだったっていう幸運を心底に刻んでる」
「……どういうこと?」
「千雪はおれのためにあるリアルドールだ。云うことをきかなくても、再生(リサイクル)する気も手放す気もさらさらない。千雪にはおれしかいないって自覚していたほうがいい」
 傲慢(ごうまん)な云い分だった。いつか――いや、忘れることのない、建留が犯すという行為をした日の言葉が甦る。それは、千雪を傷つけるためではなく、自分を守るためだと建留は云った。いま、その守るという言葉の裏を読むなら、独占したいという懇願なのかもしれない、と感じる。千雪もまた、いつもそうしたがっている。いつかだれかと建留は――そんなことを独り思っていたときさえ割りきれなかった。
「わたしが平気なのは建留だけ。わたしが触られるのを怖がってること、建留は知ってるでしょ。あの日、自分がすごく穢(けが)れてる気がしたの。でも、何があったか知ってるのに、汚いって建留が避けなかったこと、いま、わたしにとってはすごく重要なことだったんだって思う」
 忌まわしい出来事を共有するという、隠さないですむ安心感のもと、淡々として見えるなかでも、本能的に千雪は建留に信頼を置いていた。だからこそ、いまではきっかけがなければ思いだすこともなくすんでいる。
 建留は驚いたようにすっと息を呑み、それから何かを振り払うように首を振りながら吐息を漏らした。
「おれがあのことで感じているのは、無事だった、それだけだ。正直に云えば、思いだすといまでもぞっとして落ち着かなくなる。階段から落ちたときと一緒だ」
 そう吐いた建留は頬から手を離したかと思うと、突かれたように千雪を掻き抱いた。
「もし、わたしに赤ちゃんできるなら、特別じゃなくて普通に生まれてくれたらって思うの」
 そう云ったことに何を見いだしたのか、千雪を抱く腕がいっそう強くなって、堪えきれない、そんな気配を発しながら耳もとで建留が呻いた。

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