ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第4章 ダブルコーナー〜愛人の品格〜

4.二度めだったら

 およそ二年、正確にいうなら一年九カ月ぶりに千雪は加納家のある町を訪れた。
 車窓から見える景色はあの日とは真逆の方向に流れていく。周囲に連なる邸宅の群を抜き、加納家が威風堂々と見えるのは怯(ひる)みそうな自分の弱さのせいだろうか。逃亡したい気持ちと闘わなければならない。迎えにきたのが松田だったら、止めて、と声にしているかもしれなかった。
 敷地内に入り、車を降りると、建留に手を引かれてスロープを歩いた。玄関先には、千雪より背の高い門松が番人よろしくそびえている。
「おれがついてる」
 建留は、玄関のロックが自動開錠される手前のほうで立ち止まるとそう励ました。おそらく千雪の気を軽くしようとしてだろう、口調はおもしろがっている。
 車中、互いに口をきくことはそうなかったが、建留から様子を窺うような気配は感じられて、やはり逃げたい気持ちは見透かされていた。きっと、手を繋いでいるのは、半分はそれを阻止するためだ。
「ついてなくていい」
 千雪がせっかくの言葉を退けると、建留は気に喰わなさそうで、問うように首を傾けた。
「ただの従兄妹同士として振る舞うつもりはない」
「だから。そのまえに、おばあちゃんとふたりで話す機会をつくってくれない? 畏(かしこ)まってじゃなくて、自然と。そうしないとおばあちゃんは応じないかもしれないし、わたしも逃げだしそうだから」
「何を話す?」
「それはおばあちゃんと話すことなの。建留も邪魔しないで」
 建留は何も云わず、頭を縦に振ることもなく、ただじっと千雪を見おろす。どんな葛藤がなされているのか、やがてため息が漏れた。
「何を話すにしろ、その結果がいまのおれたちに影響しないって約束するならそうしてやる」
「嫌われてるのはわかってるから……お互いさまだし、何も変わらないのもわかってる。でも、どうせそうなら、だれも間に入れないでちゃんと話したほうがまし。そう考えてるだけ」
 建留はまた一つ大きく息をついた。
「さっき云ったことを約束してくれればいい」
「建留にばっかり負担かけるのは嫌だし、そうしてるって思われるのも嫌」
 一歩踏みだした建留は、千雪の言葉を受けてまたすぐ止まった。
「千雪」
 考えこむような眼差しが千雪へと向かってくる。
「何?」
「その反対も気をつけてくれ」
「……反対って?」
「千雪が独りで負担に思うことはないってことだ。誓いは忘れるべきじゃない」
「誓い?」
 訊ね返すと、建留はひどく顔をしかめて心外だと主張する。
「薄情だ。やっぱり温度差がある」
 怒ったように聞こえて、千雪は素早く思考を巡らした。
 すると、ふたりに通じる誓いは一つしか思い浮かばない。
 すぐさま、千雪を置いていきそうな勢いで一歩を踏みだした建留のまえにまわりこむ。
「結婚式のこと?」
「おれは、千雪を喜ばせるために式を挙げたわけじゃない。誓いを立てるためだ」
 建留はぶっきらぼうに吐いた。どうかすると拗ねたようで、こんな云い方はじめて聞いたかもしれない。
 健やかなるときも病めるときも……これをなぐさめ、これを助け、その命のあるかぎり……。
 千雪にしろ軽々しく云った言葉ではなかったが、キリスト教徒でもないほとんどの日本人からすれば、その宣誓自体に重きを置く人がそういるわけでもない、ただの定例句なのに。
 そう思うと、神経質になると本人が云うとおり、あらためて建留が千雪に関していろんなことを思慮していると実感する。
 千雪のくちびるが自然と弧を描く。そして、広がった。
 建留は固まったように表情を止め、それからなぜかつらそうに目を細めて呻いた。
 次の瞬間、喰いつくようにくちびるが覆われた。そして、吸着しながら離れていく。
「笑っただけでチャラになるとか卑怯すぎる」
「建留、カメラ!」
 建留のつぶやきと千雪の叫び声が重なった。
「何も事件がなければいずれ消去される」
 建留は少しも恥じる様子がない。生まれたときから加納家にいると、防犯カメラにも慣れて感覚も鈍るだろうが千雪は違う。ごめんこうむりたい。ここに住んでまもなく、自覚のない姿がカメラに映っていると知ったときは消え入りたいような最悪な気分だった。
「人まえで平気だったときもあっただろう」
「旅行してるときは気が大きくなるってだけ。ロンドンはずっとそんな気分だったから」
「……なるほど。そこは温度差なかったらしい」
 旅行といっても普通の旅行とは違っていた。遅まきながらの蜜月旅行。その感覚は同じだったことを示すように建留は上機嫌な様で笑った。


 今日、二日は、親類に限らず加納家に近しい人が正月の挨拶にやってくる日だ。来客は長居せずに入れ替わり立ち替わりだから、夏のパーティのように広間を使うのではなくリビングですませる。
 千雪が訪れたのはまもなく来客があるだろうという、十一時まえで、リビングにいたのは滋をはじめ、男たちだけだった。広いリビングにはローテーブルがいくつか並び、大皿に盛った料理がそれぞれに置かれている。
 滋と旭人はともかく、建留が大丈夫だと云いきった孝志も畏まることなく歓迎を見せた。その後、浅木を手伝おうとダイニングのほうに行くと、茅乃と華世がいて浅木と段取りの確認をしていた。
 華世と浅木からは屈託もなく挨拶が返ってきたが、茅乃からは温かみに欠けた眼差しと慇懃無礼(いんぎんぶれい)な返事しかない。
 手伝います、と申しでても速やかに、けっこうよ、と云われてしまう。遠慮を知りなさいという批難が見えた。
 それらは想定範囲内のことだ。ただし、覚悟していても傷つかないわけではない。傍にいた建留は何か云いかけたが、自分を見上げた千雪に気づいて目を合うと口を閉じた。口を出さないでという無言のメッセージが建留に届いて、千雪はほっとする。
「建留はおもてなししなくてはならないし、お酒も入るわ。帰りは松田に送ってもらいなさい」
 もっともな理由をつけて牽制するのは、茅乃の得意技だろう。
 すぐ追いだされないだけましだと考えたら、千雪も多少は救われる。もしかしたら、建留が一緒にいたから、即座に追い返すような発言がなかったのかもしれないとも思う。
 建留が千雪を加納家に呼んだ真意はなんなのか、ただ会社でそうするのと同じように加納家のなかでも公然としたいだけなのか、それはともかく、千雪は小泉家が訪れるであろう三時までには帰りたかった。

「千雪、来て」
 ひっきりなしに客人が訪れて二時間、そのたびに挨拶と世間話を交わすという、久しぶりのことに疲れを覚えた頃、建留が呼びにきた。何かと思うと、浅木のところへ連れていかれた。
「茅乃奥さまがティルームで休憩なさっているんですが」
 浅木が伺いを立てるように云いだすと、千雪はぴんときた。
「あ、わたしが持っていきます」
「よろしいですか」
「大丈夫。おばあちゃんとは話したいと思ってたから」
 千雪が受け合うと、気遣うようだった浅木は控えめににっこりしながらトレイを差しだした。
 ダイニングを出たとたん、千雪は建留を振り返った。
「ついてこないで、だろう?」
 建留は首をひねりながら先手を打った。
「盗み聞きもだめ」
 釘を刺すと、建留は心配、もしくは不満を通り越して呆れたように大きく息をついた。
「約束は?」
「わかってる。平気だから」
「千雪は平気で嘘を吐く」
「建留」
 名を呼ぶというだけの千雪の警告に――
「……わかった」
 と云いつつもけっして納得しているふうではなく、建留は躰を反転させた。

 千雪は建留の姿がリビングに消えるのを待ってから、バラ園が見渡せるティルームに向かった。
 ノックをしてティルームに入ると、そこは空っぽだった。
 かまえていただけに千雪は拍子抜けして、伴ってトレイを持つ手の力加減が怪しくなり、紅茶をこぼしそうになった。慌てて手に力を込め、部屋の中央にある丸いテーブルにトレイを置いた。
 暖房がきいたなか冷たい風が入りこむと気づけば、外へと出られる観音開きの窓が少し開いている。おそらく茅乃は花の温室にいるのだろう。
 千雪はテラスに出ると、シューズラックから取りだしたバブーシュを履いた。
 およそ十五帖と大きい温室はバラ園の入り口辺りにあって、千雪が使っていた部屋よりも広い。温室内は春を先取りしていて、段々の台の上に並んだ鉢植えの花たちが華やかな色を散りばめているのが見える。
 目を凝らすと、やはり茅乃の姿があった。
 邪魔をしていいのか。ためらうほど茅乃はものやわらかな様で水やりをしている。
 ポリカ板のはまったドアを開けて入ると、今日は天気がいいから外の寒さが嘘のようになかは暖かい。雅(みやび)やかな香りが立ちこめていた。
 その心地よさに浸る間もなく、さっそく千雪の自制が試される。侵入者に気づいた茅乃の目がこっちを向くのと同時にそれが千雪だと認識すると、表情から今し方までの穏やかさが消えた。
 千雪は隅にある棚から陶器のじょうろを取って、すぐ傍にある水道から水を注ぐと茅乃に近づいた。

「おばあちゃん、わたしも手伝います」
 思い切って口を開くと、案の定、咎めた視線が向かってくる。千雪は小さく肩をすくめた。なんでもないふりというよりは、怖さを振り払うためだ。
「“おばあさま”って云い方、すごく他人行儀だから、おばあちゃんでもいいでしょ?」
「あなたとわたしはた……」
 茅乃は強い口調で云いかけてやめた。千雪が首をかしげると、「出ていきなさい」と顔を背けてしまう。
「わたし、葉っぱを取るから、おばあちゃんは続きやって。そっちの水がなくなったら、これ使っていいから」
 じょうろを台に置くと、千雪はつる薔薇の枯れた葉に手を伸ばした。
「わたしに向かってそういう口の利き方、およしなさい! あなたがいなくなって、どれだけわたしが清々したかわかってないわ」
「わかってます。わたしもここを出て気がラクになった部分あるから」
 歯に衣着せぬ茅乃の物云いに負けず、千雪も正直に云った。
「だったら来ないことね。それが大人の賢い対応法じゃないかしら」
「でも、ずっと年を取って何かあったときに、当てにできる場所っていったらたぶんここしか残らない。仁條の本家はもうだれもいないって。だから、おばあちゃんとわたしは同じ。お父さんの身内は付き合いないし、お母さんたち、いなくなったら……。そう考えてお母さんはここにわたしを連れてきたんです」
「都合のいい話ね」
 茅乃の声には同情の余地も見当たらず、冷たくあしらった。ただ、仁條という名を出したとたん、茅乃は顔をこわばらせ、かたくなになった気がした。
 茅乃には、千雪と同じように加納家のほかに頼る場所がない。そう考え至ったのは、建留に今日のことを誘われてからだ。
「おばあちゃん、わたしの初恋は建留。結婚できたけど、それは理由があったからで、初恋は実ってなかった。叶わないものだっていうけど……おばあちゃんは?」
「わたしが何かしら」
「おばあちゃんの初恋はおじいちゃん? お見合いだってことは聞いたけど、それから好きになっても全然おかしいことじゃないし」
 千雪が喋っている間に、水やりしていた茅乃の手が止まる。
「そんなきれい事があるのかしら。品のない生活をしていたわりに、世間を見る目が甘いわね」
 茅乃はぴしゃりとはねつけた。
「おばあちゃん?」
「わたしの初恋は姉に奪われたわ」
 千雪もまた枯れ葉を摘んでいた手を止める。声は淡々と、発言は簡潔だが、教えてくれたこと、あまつさえその内容には驚いた。
「お姉さんて双子の?」
「顔も生まれた日も同じ。姉かどうかという違いだけで、永廣(ながひろ)さんのことはあきらめなければならなかった」
 千雪の声が果たして耳に届いたのか、茅乃の目には遙か昔の映像が見えているかのようだ。永廣という人が茅乃の初恋の人で、なお且つ双子の姉が結婚した人なのだろう。
「……ふたりとも早くに亡くなったんですね」
「二十三年まえ、車の事故だったわ」
 茅乃の言葉で、千雪の脳裡に麻耶から聞かされた共通のキーワードが甦る。
「同じ頃、お姉さんの娘さん夫婦が亡くなったって……もしかして一緒に?」
「そうよ。居眠り運転していたトラックに追突されて四人とも。この話はもういいわ」
 嫌な思い出を振り払うように、茅乃は首を横に振った。
「おばあちゃんの初恋はだめでも二度めは実ってる気がするの。おばあちゃんはおじいちゃんといること多いし、おじいちゃんはおばあちゃんの云うこと、全部叶えてる」
「冗談じゃないわ。それはわたしの権利とあのひとの償(つぐな)いよ」
 茅乃は即座に否定した。またもや、千雪はその言葉に驚く。
「償い?」
 千雪が問い返すと、きっとした眼差しが向けられた。しばらく微動だにせず、そうした沈黙が流れ――
「もうたくさんよ。出ていってちょうだい」
 茅乃はやっと口を開いたかと思うと、千雪を排除しにかかった。
「権利と償いだけじゃない――」
「何も知らないあなたが何をわかるというのかしら」
「きっと……傍から見ていてわかることもあるから」
 茅乃は応えなかった。無視するつもりだろう。
「おばあちゃん、嘘を吐きたくないから聞いてください」
 そう呼びかけても返事はなく、当然、千雪も期待していたわけではない。千雪は一度、深く息をついて口を開いた。
「結婚が壊れたこと……結婚に目的があったことがわからないままっていうよりずっといい。いまはそう思ってます。わたし、建留をまた好きになりました。二度めだったら叶ってもいいですか? おばあちゃんとおじいちゃんみたいに」
「違うわね。あなたとわたしでは立場が違うのよ、まったく」
 茅乃は断固として千雪を退ける。
「あなたは建留と結婚するために、そして、離婚するためにこの家に来たのよ。あなたがわたしと建留の役に立てたのはそれだけ。役割は終わったの。建留は不動産を率いていかなくてはならない。その建留の権利を奪わないでちょうだい」
 茅乃が何をほのめかしたのか、千雪は鋭く察した。
「瑠依さんのこと?」
「そうよ。そうしたら、なんの問題もなく、不動産は建留のものになるんだわ」
 あるのはただ気持ちだけという千雪に、瑠依より優位に立てる材料は何もない。
「でも」
 建留なら、自力で不動産を取り戻せる――と、そう続けたかった言葉は云えなかった。

「おばあさま、いらっしゃる?」
 温室のドアが開くなり届いた軽やかな声は瑠依のそれだった。
 例年どおりではなく、予定より早く来たのはだれの意図か。そんなことを疑ってしまう。
 振り向くと、艶やかな着物姿の瑠依がいた。瑠依は何を着ても似合う。だれであろうと物怖じすることのない社交性も持っている。
「いるわ。瑠依ちゃん、いらっしゃい」
 格段に機嫌のいい声が茅乃の口から発せられると、千雪はそっとくちびるを咬んだ。
「おばあさま、あけましておめでとうございます!」
「あけましておめでとう。瑠依ちゃんは、今年はきっといい年になるわね」
「だといいんですけど」
 当てつけた会話をしながら、瑠依はさも得意そうな面持ちで千雪を見つめる。直後に交わした挨拶は、茅乃がそうしたように、瑠依は丁寧でも千雪を見くびった様が垣間見えた。
「おばあさま、向こうでお茶しましょ」
「そうね。ここは温かいからのどが渇いたわ」
 瑠依の誘いを茅乃はあっさりと受けた。
「千雪ちゃんは?」
 その誘いは茅乃がいるからこその気配りだろう。
「わたしはもう少し水やりするから、気にしないでください」
「そう? じゃあ、またあとでね」
 瑠依は茅乃の腕を取ってドアに向かった。

「おばあちゃん!」
 あまりに勢いこんでいたからだろうか、千雪の呼びかけに茅乃が振り向く。
「わたしがこの家にいてラクになれないのは、おばあちゃんがわたしを嫌ってるから」
「なんてこと。わたしのせいにするの?」
 茅乃は耐えられないとばかりにぷいと背中を向けた。瑠依は余裕たっぷりに千雪へと憫笑(びんしょう)を投げやってから茅乃に伴った。
 千雪の真意はやはり汲みとってはもらえなかった。
 温室のドアが開いて、茅乃と瑠依の背中が遠ざかるのをぼんやりと見送った。
 嫌わないでくれたら、わたしは嫌わないですむのに。
 何も変わらないことは承知のうえだったのに、欲張りにも千雪はどこかで希望を持っていたのだろう。何も考えられず、気力がしぼんで立ち尽くした。

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