ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第4章 ダブルコーナー〜愛人の品格〜

3.イエスorノー?

 マンションギャラリーから急かすように千雪を連れだしたわりに、まっすぐは帰らず、どこかへ電話をしたあとレストランに立ち寄った。しかも建留は、千雪のマンションに帰るには逆方向になる場所をわざわざ選んだ。加納家からしても遠回りな場所だ。
 レストランはイタリア料理店で、特別かといえばメニュー表に値段が書かれていないから、高級なところだろう。
「よく来るの?」
 店の雰囲気には慣れているふうで、千雪が訊ねてみると、建留はわずかに肩をすくめて、一度だけ、と答えた。
「この向こうの住宅街に、来年の春、完成するマンションがある。ホーリーガーデン事業、知ってるだろう?」
「知ってる。ホーリースカイの横型でしょ」
「ああ。立ち上げのときに来たことがあって、そのついでにここに寄った。IOMAの店長の知り合いがやってる店だ」
「わざわざここまで来なくても、イタリア料理ならOLIVAでよかったのに」
 味の差、あんまり感じないんだけど――とそこまで云うのは礼儀上、やめておいた。
「それは早く帰りたいっていう意味?」
 建留はからかう。千雪が無視してワインを口にすると、それでますます建留をおもしろがらせた。それから建留は肩をそびやかして――
「熱を冷ましてる」
 と、薄く笑い、次には何かを吹っきるように首を振って、「ホーリーガーデンは見学した?」と話題を変えた。
「うん。スカイのほうを見に出たついでに一回だけ旭人くんから案内されて見学したの。高級住宅街だし、入る人を選ぶ場所だから、外観がそれなりで四角い箱型じゃないし、すごく素敵だった。区画内にいろんな施設があるから便利だと思う。三億クラスっていうから売れるのかって思ったけど、賃貸部分まで四十戸全部完売してるって」
「購入物件はなかをカスタムオーダーできるっていう売りで、それが好評だった。プライバシーという点では一戸建てに負けても、セキュリティとかメンテナンスを考えたら利点はある」
「お菓子屋さんとかブティックとか、ちょっと出ればたくさんあるし、人気あるのもわかる気がする。ここ辺りは全体的に雰囲気もいいし」
「そうだな」
 そう云った建留は、千雪を見ているけれど、その実、千雪を通り越してどこか別のものを見ているように感じた。
「建留?」
「早く食べて。帰らないと」
 自分が勝手に連れてきたくせに、建留はさらに勝手なことを命令した。


 家に帰ると、建留にさらわれるようにして浴室に行った。まずパウダールームで千雪が化粧を落とす間、建留はすぐ脇の壁にもたれて待つ。
「正月、加納の家に来ないか」
 唐突な誘いだった。クレンジングミルクを伸ばす手が止まる。気まぐれで云うことでもないが、横を向くとごく真面目な面持ちに合う。
「でも……」
「このままでいたいわけじゃないだろう? 時がすぎるのを待つとか、これ以上、無駄な時間を費やすつもりはない。順番に終わるとは限らないんだ」
 建留ははっきり口にはしないけれど、残酷なことをほのめかしている。
「嫌いだけど、早くいなくなればいいなんてわたしは思ってない」
「わかってる。おれが云いたいのは、あとから後悔するような時間なんて必要ないってことだ」
 千雪はどう答えようもなく、首をかしげてみせたあと、正面の鏡に向き直った。
「建留。おばあちゃんの初恋って知ってる?」
 そう訊ねると、なんとなく建留から異質の雰囲気が発せられたような気がした。
「だれから聞いたんだ?」
「聞いてないから、いま建留に訊いてる。まえに小泉さんとそんな話をしたから。おばあちゃんの初恋の人はおじいちゃんじゃないってことみたいだけど」
「小泉史也と?」
「うん。東洋社宅のモデルルーム見にいったときだった」
「なんでそのときに云わないんだ」
 建留の声は険しい。初恋の話がそんなに重要なことなのか、千雪は目を丸くして建留を振り仰いだ。
「いちいち、そういう世間話みたいなことを建留に報告しなくちゃいけない?」
「そうじゃない」
 建留は千雪を見つめたまま、口を噤んでしまったような気配を感じる。が、ちょっとした沈黙ののち、肩をすくめて話しだした。
「じいさんとばあさんは見合い結婚だ。初恋同士じゃなくてもおかしくはない。けど、お互いに気持ちがあったから、ここまでこじれたんだ。おれはそう思ってる。あんなすれ違いを、おれは千雪と繰り返したくはない。一回でたくさんだ」
 滋と茅乃は何があってすれ違ったのだろう。
「建留の初恋は? 初恋は実らないっていうみたいだけど」
「ああ、壊れた」
 建留は拍子抜けするくらいあっさり答えた。
 どんな人だろう。うらやましさと嫉妬が絡み合ったその疑問は口にできなかった。
 千雪の初恋は史也の指摘どおりだ。だとしたら、ジンクスを覆(くつがえ)せているだろうか。そんなことを思う一方で、建留が訊き返さないということが、千雪の初恋を知っているからだと思うと、ずるいと文句を云いたくなる。実際にそうすれば、分(ぶ)が悪くなるのは千雪だ。少しくらいは対等でいたいから、ぐっと堪えた。
 それなのに、建留はすべてお見通しだといわんばかりに皮肉っぽい笑い方をする。
「ザイドの来日は、一月末の予定だ」
 建留は追及することなく、千雪はほっとした。
「来るまでにそんなに時間がかかるって、ほんとに忙しそう」
「忙しくはあるだろうけど、それよりは立場の問題だ。ザイドは第三皇子だし、気軽に外国を訪ねるにはいろいろ調整することがあって簡単にはいかない。UHEにとって日本は最大のオイル輸出国だ。首長から、どうせ行くならって責務を押しつけられてるみたいだ」
「たいへんそう」
「だな。ザイドを見てると、おれのほうが遥かにプレッシャーは軽い」
 穿(うが)てば、その発言は建留の弱音とも取れる。
「プロジェクト、うまくいってる?」
「これまでの時間を無駄にするつもりはない。承認させる」
「……やっぱり社長?」
「千雪が心配することじゃない。顔、早く洗って」

 建留はおもむろに壁から躰を起こすと、服を脱ぎ始めた。そのあと、洗顔が終わるや否や、千雪の服を奪い始めた。
 入浴はそうゆったりすることもなくベッドに運ばれて、千雪はすっかり建留のペースに流されてしまっている。千雪にしろ、ベッドですごす時間のほうがずっと貴重だった。
 建留がころころ気配を変えるときは、抑制しきれないなんらかを抱えているときだ。今日はその典型で、熱冷ましは役に立たなかったらしい。最初はめずらしく、建留は千雪よりも自分のことを優先した。すぐに反応してしまうから、つらくもない。むしろ、必要とされていると感じて、ただ抱きしめたくなる。
 その気持ちのまま、建留の首に手をまわして引き寄せる。突き立てるようだった動きが手懐(てなず)けられた野生動物みたいにおとなしくなり、戯(ざ)れ合うような動きにかわり、千雪もまた熱に浮かされる。
「千雪、飛ぶのも墜ちるのも一緒だ。イエス? ノー?」
 建留のくちびるが荒く息をつきながら千雪の耳もとで囁いた。粟立(あわだ)つような感覚は躰の奥に響く。
「う、んっ」
 呻くように応じると――
「どっちなんだ」
 笑う建留の躰が揺れ、それが千雪の体内のキスを刺激して、まもなく、ふたりの熱は同時に飽和した。

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