ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第4章 ダブルコーナー〜愛人の品格〜
2.温度差
建留が帰国してまもなく二カ月になる。ふたりの関係はだれにも邪魔されることなく、心もとなくなるくらい平穏にすごしている。そう、幸せであるはずなのに、不安は建留を近くに感じるぶんだけ千雪に寄り添っている。
平穏と幸せを同時に感じられることに慣れていないせいもあるだろうが、そんな時間がずっと続くわけはないと知っているせいでもある。
また結婚したい。そう思っていないわけではないけれど、通い婚みたいに時間を共有できるときに一緒にいるという在り方でも千雪は充分だと思っている。
建留の気持ちは疑いようがなくて、けれど、『We should be one again』とそう云った建留が結婚という言葉まで口にしないことがどういうことか。千雪はわかっているつもりだ。
「準備はいい?」
午後二時になって、そろえた書類をブリーフケースに入れていると、旭人が遅めの昼食から戻ってきて声をかけた。
「はい」
「すぐ出られます」
千雪のすぐあと三沢が続いた。
旭人は内線で連絡を取り、短いやりとりをしてすぐに受話器を置く。
「この時間だ。直帰することになる」
「……はい」
その報告は露骨に思えて、千雪は返事をするのにためらった。つい三沢を見てしまいそうになったが、そうすればよけいに想像力を掻きたてるような気がして、どうにか思いとどまる。
千雪はデスクの整理に取りかかった。立ちあがって椅子にかけていたコートを羽織り、右腕を袖に通していると、ふと香りを感じる。気配のするほうへと目を向けると、建留がこっちへ歩いてくるのが見えた。
とても香りを感じる距離ではない。あまつさえ建留は、千雪が好きだと知っているから休日に会うときに香りを纏うことはあっても、会社にそうしてくることはない。気配を感じたのは来るとわかっていたからだろうが、それが香りと結びつくというのは過敏すぎると自分でも呆れる。
建留としっかり目が合うと、感づいたのはその視線のせいかとも思うけれど。
建留にくるまれたい――とそう胸の奥が疼くほど不謹慎なことを願ってしまう。それは、何かを伝えるような眼差しのせいでもなんでもなく、ただ建留がそこにいるせいだ。
仕事をする、という場合に限定すれば、せめてフロアが違っていてよかった。
「お疲れさまです」
仕事だ、と、半分は自分に云い聞かせるように挨拶をする。そう云ったのは千雪だけでなく、建留に気づいた人は一様(いちよう)に言葉をかけた。
建留は同じように応じながら、いったんフロア内を見渡した目をまた千雪に戻す。視線は躰を滑り落ちて這いあがってくる。仕事中なのに! ――そんな千雪の責めた眼差しと合って、建留はくちびるを歪めた。
「行こう」
建留の号令で、旭人は建留と先立ち、そのあとを千雪と三沢が続いた。
四人は、業平ビルから二つ離れた駅にある業平不動産のマンションギャラリーに向かった。東洋社宅と並行しながら旭人が手がけていた新築マンション“ホーリースカイ”事業について、建留が解説(レクチャー)を依頼したのだ。
イラクプロジェクトの立案が少し落ち着いたこともあり、建留は部署ごとに入って現況リサーチを行っている。不動産内の部署に限らず、グループ全体を段階的に視察するようだ。今週は住宅事業部のばんで、数多くのなかから旭人の班が扱う事業をセレクトした。
旭人と三沢が案内するのは当然のことだが、千雪まで同行させるつもりだと知ったときは、さすがに公私混同だと誤解されるからと抗議はした。無論、建留がこうと決めたことを譲歩することはあまりなく、今回も取り合わなかった。
ホーリースカイ事業は、地震の際、建物の揺れを打ち消すという最新の技術を採用している。震度7まで確かに免震できるという。富裕層をターゲットにした億単位の贅沢(ぜいたく)なマンションになる予定だ。
だから、旭人の事業をセレクトしたこと自体が訝(いぶか)られることはないと云い、建留は、千雪の考えすぎだと片づけるが、本当にそうだろうか。
「須藤さんてクールよね。公私混同しないし」
マンションギャラリーでホーリースカイモデルの一室を見学していると、果たして三沢が声を落として話しかけてきた。
建留と旭人が概要を確認し合うために、ギャラリーで待ち合わせた建設会社の責任者とミーティングルームに消えたとたんのことだ。
「え?」
「加納代理といても顔色変えなくて、甘えたりもしないから。小泉瑠依だったら、人目はばからず……というより、ベタベタして見せびらかすんじゃない?」
三沢は、悪口を云ったわけではなく、あくまでおもしろがった雰囲気だ。
同期とはいえ、三沢と瑠依はそれだけの関係で、仲が良くも悪くもないみたいだ。
史也が瑠依には友だちがいないと云っていたことを思いだす。けれど、千雪にも親友と呼べるのは栞里と美耶くらいだし、同情するよりは瑠依の振る舞いに問題があるのだと思う。
いわれなき何かから逃げるとき、いつか絶対にはね返るんだから、という、千雪にも意地悪な気持ちは湧くけれど、それを直接ぶつけようとは思わない。けれど、瑠依は躊躇しない。むしろ、そうする計画を立てている。
「……とわたしも思います」
思わず千雪が正直に同意すると、三沢は笑いだした。
「喋らないからといっておとなしいわけじゃない。須藤さんて好きだわ。小泉瑠依と加納代理が、って話を聞いたときは、そうなるんだって納得するところではあったけど、でもお似合いじゃない。須藤さんと加納代理のツーショットを見てるとそう思うの」
千雪はなんとも応じようがなく、曖昧に首をかしげた。
「傍(はた)から見ると、加納代理のほうが隠しきれてないかな」
三沢はからかうように付け加えた。
それには、やはり答えようがない。つい三十分まえ、住宅事業部にやってきた建留の眼差しは、部下に対する領域を越えた瞬間が確かにあった。嫌いな上司がそれをやったらセクシャルハラスメントで訴えるかもしれない。
「それか、隠そうっていう努力をするつもりもないって感じ。須藤さん、加納代理とは本当に加納主任を通して会っただけ?」
それは、だれとは限らず――時に話したことがない人からも、折りに触れ、千雪が訊かれることだ。ただ、三沢は核心を突こうとしている。そんなふうに思うほど、彼女はまじまじと千雪を見つめる。
「はい。よく訊かれるんですけど重要なことですか?」
「塚田さんが云ったから気づいたんだけど。須藤さん、コンタクトじゃないわね?」
そう云った三沢は今度は千雪の髪に目をやる。ストレートの髪はこめかみの部分をヘアピンで留めているだけだ。
「それに、プリンの逆なのよね、須藤さんの場合。生え際のほうが明るい感じ」
三沢は見抜いていた。
色が違うことを面倒くさいと思ってきたけれど、いまはじめて恨んだかもしれない。色が違わなければ平凡な千雪が目立つこともなければ、その果てで見破られることもなかった。
恋人同士と思われるまではまだいい。それが、再燃ということになると話は違ってくる。離婚話も再婚話も、噂には瑠依が絡んでいる以上、憶測はともすればスキャンダルに変わる。
「これは……遺伝で、働くには明るすぎるから染めてるってだけなんです。わたしみたいな人、たまにいますよ」
「――っていう云い訳は云いっこなしね。アッシュブロンド? 生まれつきそういう目と髪の色の子がたまたま二人いるってこと、東京で、業平で、どれくらいの確率かって考えたら、偶然すぎない?」
三沢はまったくおもしろがっている。
「加納代理については、不動産創設者の末裔だし、注目の的になってもあたりまえ。それに、仕事できて、眉目秀麗、高雅。ほっとく人いる? っていう話。いろんなこと云われるのはしかたないかな。わたしが入社したときは結婚されたばかりだったけど、それを知ったところで、話題に上るっていう点では少なくとも同期の子たちはほっとかなかったわよ。瑠依は加納代理の周りをうろうろして得意げだったわね」
瑠依に関してはちくりと嘲(あざけ)るような云い回しだったが、それらは前置きにすぎず、三沢が云いたいのはきっといまから喋ることだろう。いったん口を閉じた彼女は、興じていながらも言葉を選ぶように切りだした。
「普通に考えて、帰国早々、須藤さんと付き合うなんて急展開すぎない? 加納主任を通じての知り合い程度なら、海外から一度も戻らない間に発展したとは考えられない。それ以前にお互いに気持ちがあったんじゃなければそうはならないと思うわ。瑠依によれば離婚まえから夫婦不仲説があったし、それなら離婚まえから? って考えると納得できそうな気もするけど、それじゃあ、加納代理らしくない感じ。指輪、ずっとしてたって話だもの。奥さんの立場はともかく、須藤さんからすれば指輪をしてるなんて無神経ってことになるじゃない? つまり、このギャラリーにいた子の話と照合すれば、加納代理のもと奥さんと須藤さんが同一人物ってことがいちばんすっきりする」
どう? と云うかわりに、推論を述べた三沢は首をかしげた。
ギャラリーは幸いにして人事異動があっていて、今日、当時いた人と鉢合わせすることはなかった。まえもって建留に確認はしていたから安心していたのに、なんにもなっていない。
黙りこむということは肯定することになるとわかっていながら、違います、と千雪は笑ってごまかすこともできない。もとい、どんな筋道の立ったことを口にしようが、それが嘘であるかぎり、三沢にごまかしは利かないだろう。従兄妹だと本当のことを云ったとしても、旭人の後輩ということが先行してまかり通っているだけに、どちらも嘘ではないのに疑われて、結局は彼女の疑心を晴らすことはできない。
三沢は屈託なく微笑を浮かべた。
「何があったか知らないけど……というよりは、瑠依に引っ掻きまわされたんだろうけど、須藤さんと加納代理の間に入る隙はない。そんなふうに見えるってことよ」
その発言を栞里たちが云ったことに鑑(かんが)みると、瑠依はやはりあることないこと、自分の都合のいいように触れまわっているのだろう。
千雪はつとモデルルームを見渡し、それからまた三沢に目を戻した。
「……瑠依さんのせいじゃないんです。わたしと……加納代理は従兄妹同士で、だめになった理由は別にあって、瑠依さんの問題はあとからついてきたオマケみたいなものです」
千雪が観念して正直に打ち明けると――
「瑠依がオマケ?」
三沢は吹きだした。
「そんなふうに云われるなんて、瑠依もおちぶれたわね。瑠依は勝負するまえから負けてたんだ。加納代理の離婚は瑠依と結婚するためだって――そのずっとまえ、ロンドンに行ったって聞いたときはまさかって思った程度だったけど――あとでそんな噂も立ったから妙に納得したのよね。行いの良し悪しは別として。もともと長い付き合いだし。瑠依をまえにしても加納代理が表情一つ変えなくて、わたしたちに対するのと同じように瑠依に接してたのは、節度がきっちりしてる人だからと思ってた。でも違ってたみたい。仕事には差し支えない程度って意味ではいまでも節度は守られてるけど、須藤さんには素っ気なくはない」
会社ではどうなんだろう。離婚するまでの二年、ずっと瑠依とのことを気にしていながら知ることのできなかった時間。それをわずかではあるけれど思いがけなく三沢から聞かされ、信用とは別のところにあった千雪のわだかまりを解かした。
「表に出したがらないほど、愛妻家だって噂のほうが本当だったのね」とからかった三沢は一つため息をつくと、おもしろがった様から少し慮った表情へと変えた。
「瑠依が問題にならないってことはいいとして、わたしみたいに噂を納得してた人はいるわけだし、そうなると、瑠依にもプライドはあるから立て直しに躍起になるかも。邪魔されないうちに、確定的にしたほうがいいと思うわ。また一緒にいるってことは“理由”が解決したんだろうし」
千雪は何と答えようもなく、口もとにかすかな笑みを形づくってやりすごした。
「憧れちゃう。別れてもまたくっつきたくなるほど好きって。口外しないから心配無用よ」
三沢に限ってそこは疑っていない。ただ、“理由”とそして瑠依との結着、それらの解決策をまだ何も見いだしていないことに心細くなった。
雑談をさっと切りあげた三沢に倣(なら)い、千雪は憂慮を押しやってギャラリーのスタッフと一緒にスクリーンを準備した。
“何か”を知らない千雪が得策を見つけられるわけがなく、ぐずぐず考えてもしかたがない。
建留たちは十五分くらいで話を終え、モデルルームにやってきた。
目が合うと、何か千雪の顔に出ているのか、問うように建留は首をひねる。千雪は三沢を見やり、すぐに目を戻した。すると、建留の視線も同じように三沢へと移って気取(けど)られないうちにまた千雪に帰る。
それで察したのか。
モデルルームを一巡した建留は、千雪が独りで機材のチェックをしているところへ近づいて、「問題ない」と囁き――
「あとでここを案内してほしい」
建留は公然と千雪に依頼した。
建設業者の人にしてみればなんの不自然さも見えないだろうし、旭人と三沢は、知っているという逆の観念から何も訝ることはない。けれど、千雪にとっては居心地が悪いことに変わりはない。
複雑な気分のなか、千雪は手順どおり進めていく。
スクリーンに、外観や景観、共有や居住スペース、そして免震システムなどのCGを映しだし、建留の、ともすれば攻撃的に見えるほどの仕事への姿勢を目の当たりにしながら、問答を交えたプレゼンテーションが続いた。
ホーリースカイ事業のビジョンをひととおり消化すると、いったんマンションギャラリーを出て、建設現場に足を運んだ。
二カ月まえ千雪が来たときは、建築確認がすんで着工したばかりだった。今日も杭工事段階で、まだマンションの形状の欠片も見えない。地下二階地上二十五階のマンションが完成するまで、あと二年あまり待たなければならない。こんな長期プロデュースができるのも、業平不動産が大手だからこそだ。
終業時間を待って工事現場の中心に近づくと、三沢が進行状況を写真におさめる傍ら、建留と旭人は責任者や作業員から工程の確認を兼ねて説明を聞いた。建設は順調に進んでいて、二カ月後の免震システムの設置が予定どおりだと聞くと、建留はまたその頃訪れる旨を伝えた。
話を終え、現場を離れながらふと立ち止まった建留に釣られて、ほぼ並んで歩いていた千雪も足を止めた。旭人たちはそうしたふたりに気づかず、距離が空いていく。
「住む?」
訊ねた建留は振り返っていて、ヘルメットを軽く上げて空を見上げている。千雪もそうしてみた。
だだっ広い敷地のなか、乾いた冬の空は透きとおって見える。工事現場という殺風景さと、コートを羽織った内勤スタイルにヘルメットという不恰好さ、そんなシチュエーションでものびやかな気分になるから不思議だ。
それとも、建留の言葉を深読みしてしまったせいなのか。
ここが完成する頃には――建留がそんな展望を抱いているとしたら。
「高いところにばかりいたら空を飛べるって勘違いしそうだから」
「どういうことなんだ?」
「会社、窓が開けられなくて窒息死しそうなの」
「このマンションはバルコニー付きだし、開けられる」
建留は呆れた面持ちで笑った。
「だから、エレベーターも階段も、使うのが面倒くさくて飛びたくなるかもしれないってこと」
「……確かに、地上におりられなくなる場合もあり得るな」
千雪の遠回しな発言の意を察すると、建留は超高層ビルのリスクを認めた。
それから旭人たちと別れ、千雪と建留がギャラリーに戻ったのは六時すぎだった。
モデルルームは玄関のドアから忠実につくられていて、土足で入ることはできない。だれかの家を訪ねる気分でなかに入った。
「案内なんてしなくても建……加納代理なら見てわかりますよね。それに、わたしはここはじめてで役に立たないし、ギャラリーの人のほうが詳しく説明してくれると思いますけど」
玄関からLDKの部屋に行くなり、千雪はため息混じりで文句を云った。
「口実だってわかってるだろう」
一般の客がいて、それを案内するスタッフがいるというのに、建留は露骨に云ってのけた。
千雪は、ダイニングテーブルからパンフレットを取りかけていた手を止めた。さっと周囲を見ると、スタッフは客の質問を熱心に聞いているようでほっとする。千雪は責めた目で建留を見つめた。
「なんの口実?」
「ふたりにしてくれ、って旭人たちに主張しただけだ」
建留はもっと始末に負えないことを口にした。
「だったら、ここじゃなくてうちでよかったのに!」
反論したとたん建留がにやりとして、千雪は自分の声が必要以上に大きかったと気づかされた。
モデルルームはメゾネットタイプで、客と二階に行きかけていたスタッフを見やると、ばっちり目が合って、そのうえパッと目を逸らされた。
「おれのせいじゃない」
千雪がなじるまえに建留はおどけたトーンで機先を制した。
癪に障っても云い返すこともできず、階段をのぼる足音が消えるまで待って、千雪は口を開いた。
「金曜日はどうせうちに来るんだから、わざわざ云わなくても、ふたりになる時間はあったのに。三沢補佐はわたしたちのことに気づいてた」
「ああ。旭人から頭いいって聞いてる。瑠依にも近いし。けど、おれは人がなんて思おうがどうだっていい」
建留は、その発言どおり素っ気なく肩をそびやかしたかと思うと、何も見逃すまいといった雰囲気で千雪をじっと見た。
「ここは嫌な場所になってない? おれは、“四年間”を是が非でも続けようとして、あの日、ここに連れてきたんじゃない」
建留が宣言をするように云ったとたん、あの日、駐車場で無理強(むりじ)いされたキスのあとの言葉が甦る。
『おれは千雪に媚(こび)を売るためにいろいろやってるわけじゃない』
そのまえに建留が云った、勇気を掻き集めてる――そのときは訳のわからなかった言葉が、いまはその真意さえもはっきり理解できる。云い訳をするのに勇気が要ることはあっても、云いくるめるためなら勇気は要らない。
掻き集めたことはなんにもならなくて、茅乃が木っ端微塵(こっぱみじん)にしてしまったから、建留の勇気に千雪が応えられたかどうかはわからない。
「建留は些細なこと気にしてる。わたし、今日ここに来て、そんなふうに思うことなかったから」
「温度差あるな。千雪に関すると、おれは神経質になりすぎてるのかもしれない」
建留は自嘲するように薄く笑った。それから「この部屋で不服なところは?」と話題を変えた。
「LDKが三十畳分とか、広すぎない? 二階がダイニングから行けるってところまではいいけど、一階にここ通らなくても行ける部屋があるのは嫌」
「変わらないな」
「ケンカしても、家のなかで家族の顔も見ないとか、そんなふうにすれ違いたくないから」
「オーケー」
建留はお手上げだというようなしぐさをしたが、それとは裏腹におもしろがっている。
「何?」
「ケンカしても傍にいてほしいってことだろう? お安いご用だって云ったんだ」
深読みが増殖してしまうくらい、建留は思わせぶりだ。切り返すことができなくて、かわりに下くちびるを咬んで千雪は不満を見せる。すると。
「今度、新規の企画でマンションとか戸建てとか、話が出たらコンセプト案を出してみればいい」
建留は至って上司らしくアドバイスをした。
「わたしが出しても――」
「小さな意見であろうが、少しも耳を傾けないとしたら終わりだ。頭の硬い奴は業平に不要だ。見当せずして蹴られるんだったら云ってくれ」
そう云われたら、食事の間の何気ない会話として仕事の話はできなくなる。そう思うくらい、建留はぴしゃりと吐いた。
「いつまでこっちに出向なのかわからないけど、機会があったら出してみる」
建留はうなずきながら何を思ったのか。
「サービスに帰りたい?」
と、そんなことを千雪に訊ねた。
立場を考えたら帰りたい。けれど、仕事中もすぐ近くに建留がいることに慣れてしまったいまは、うんと即答するには迷ってしまう。
「家を出て暮らせたら、って思ったことは憶えてる」
建留の質問も唐突だったが、応えた千雪の言葉は建留よりもまったく唐突だろう。
建留は喰い入るような眼差しになった一瞬あと、呻くように笑った。
「帰ろう」