ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第4章 ダブルコーナー〜愛人の品格〜
1.実を結ばない初恋
東洋フーズ工業が福利厚生の一環として設けた社宅は経費削減の対象になり、手放されるところを業平不動産が買い取った。リノベーションは今週の会議で文句なしの承認が得られ、急ピッチで進みだした。
そうして売りに出されるマンションは、ビジネス街を離れ、スーパーや公園、そして学校など、生活するには文句なしという立地条件にある。中古の売買と違い、リノベーション物件は、これまで苦労してきた太陽光発電や防犯など、室内だけではなく建物自体の設備を丸ごと現在の仕様に見合ったものにする。そのうえ、業者だけでなく購入者にとっても新築物件よりコストを抑えられるという利点から、需要は多く見込める。
「どうですか」
午後半ばから東洋社宅の現場に行き、ひととおりモデルルームをチェックし終わると、業平デザイン設計の新鋭インテリアデザイナー、麻土蘭奈(あさどらな)は遠慮がちに訊ねた。
それを受けて、千雪と史也は再度、LDKの部屋を見渡した。
「今時の新築物件にも引けを取らない。間取りも開放感があって、まえとはえらい違いだ」
「キッチンはワークトップもシンクも人造大理石ですよね」
「そうなんです。傷がついたとき、ステンレスはどうしようもないけど、人造大理石だったら交換しなくても磨けばきれいになるし、シンクはパステルカラーにして、お料理を楽しんでもらえたらと思って」
「照明も、リビングはファン付きでスタジオみたいだし、ダイニングのほうはアンティークな縁取りがあって素敵です」
「千雪ちゃんの云うとおり、クラシックとモダンがうまく調和してる」
「クロスも上下違うデコレーションだし、こういう細かいお洒落感て女性は惹かれると思います」
麻土はほっとした面持ちでうなずいた。それを見た麻土の上司、佐竹(さたけ)が同じようにうなずいた。
「いまは女性の意見が優先される時代だ。まだ麻土は三年めだが、思いきって使った甲斐があったと思っている」
「いえ、申し訳ないくらい、佐竹課長のアドバイスに頼ってばかりでした。須藤さん、わざわざ付き合ってもらってありがとうございます。女性に気に入ってもらえると自信になります」
麻土とは初対面ではないが、一つとはいえ自分のほうが先輩にもかかわらず、彼女は千雪に低姿勢な様で一礼した。同じ騒がないタイプであっても、拗ねた感のある千雪と違って、麻土は純粋におとなしい感じだ。
「わざわざじゃないです。それよりも、こういうの見るのは好きなので、仕事上そうできるから得してます。もう少し、見てまわっていいですか」
「かまわない。何か気づいた点は挙げてほしい」
「はい」
「では僕も」
「じゃ、麻土、エントランスをチェックしてくれ」
佐竹は麻土を連れ立ってモデルルームを出ていった。
「外観の仕上がりも麻土さん、係わってるんですよね」
「ああ。こういうのは経験数じゃなくて、センスかもしれない」
「楽しみ」
かがんで竹材(バンブー)のフロアに触れていた史也は手を止め、おもむろに立ちあがった。
「会社に来るのも楽しい?」
「……どういう意味?」
「加納代理のこと。オープンになってうまくいってるみたいだから」
うまくいっている。人からはそう見えるのだろうか。
千雪と建留の間はうまくいっていることになるんだろうが――いや、それはけして“不確かな断定”ではなく、確かな断定だが、取り巻くものを考えると、素直にそうは云えない。
月曜日は出社したとたん、視線が突き刺さって、思っていたとおり針のむしろだった。けれど、建留が堂々と昼食を誘いにきたことが、決定打の明言をすることになったかもしれない。付き合っているのかという疑問は通り越し、追及されずにすんで、栞里によれば、いまや上のフロアでも噂は昇格して事実化した。
それでいいのだという確信は持てない。さらにほかのフロアにまで伝わっていないとは考えられなくて、だから瑠依が何も云ってこないことが気味悪い。
「瑠依ちゃんが怒ってるよ」
気味悪さを裏づける言葉だったが、史也は深刻そうではなく軽い調子だ。
「怒ってる?」
「十月の異動で、瑠依ちゃんが秘書課に移ったことは知っているだろう? 加納代理の帰国は上層部ではわかっていたことだし、いつと限定はできなくても帰国すること自体は瑠依ちゃんが知らないはずはない。加納代理の出世を見込んで、うまく秘書に就く算段だったらしい」
十月定例の異動辞令は社内報が出るから、瑠依が総務部内で秘書課に異動したことは千雪も知っていた。それは、史也の云うような目論見(もくろみ)のもと行われたのだ。
小泉社長は瑠依に甘い。グループ本部に来てわかったことだが、そう思うのは千雪ばかりではなく社内では諦観(ていかん)した気配が窺える。
ただし、建留からは、秘書に就いたのは男性だと聞いている。
「……それで?」
「加納代理は賢いよ。辞令が明らかになった時点で、先手を打って専属秘書を指名したんだ。社長はなんとか瑠依ちゃんを就けようと説得を試みたようだけど、加納代理は中東へ行ける人間でなければダメだと突っぱねた。おまけに二人も秘書はいらないって云われたらしい。社長は板挟みだよ。娘の希望は叶えたいけど、一人娘を危険に晒すわけにはいかないってね」
ほっとしたような、薄気味悪いような、千雪は複雑な感情を抱く。
「あきらめさせるには労力が要りそうだね」
史也は至って中立的な発言をする。不思議だった。
「小泉さん、秘密って何?」
「直球でくるね」
史也は吹きだした。
千雪は自分でも技がないと思う。
「教えてくれる人がいなくて、残ったのは小泉さんだけだから」
史也はにやりと口を歪めると。
「千雪ちゃんの初恋ってだれ? 加納代理?」
まるで繋がりのない話題に変えた。
答える気がないのだと判断して千雪は背を向ける。
「初恋の相手とは結ばれない、って云うけど、それは会長夫人も一緒みたいだよ」
おばあちゃん?
茅乃のことが史也の口から出るとは思わなくて、千雪はぱっと振り向いた。
「どういうこと? なぜ、そんなことまで知ってるの?」
「おれの情報源はわかりきってるだろ?」
それは瑠依に違いなく、茅乃はそんなことまで瑠依とお喋りをして、瑠依は史也に洩(も)らしている。困惑している間に――
「瑠依ちゃんも初恋の相手とは結ばれない。いつまでも夢見る少女で、かわいそうだと思わない? ちやほやする取り巻きはいても友だちはいないし、瑠依ちゃんはそれをわかっていて、だからおれに話す。誰彼かまわず喋ってるわけじゃないよ」
と、史也は瑠依をかばった。すると、いきなり千雪のなかに答えが浮かぶ。
「小泉さんて、もしかして……?」
「おれの初恋も成就(じょうじゅ)しなかった――って過去形にするにはまだ未練たらたらだけど」
千雪の質問に史也は遠回しに答えた。
「千雪ちゃん、伯父は成り上がりだけに加納家を狙ってる。加納家の一員となるには、瑠依ちゃんの初恋は願ったり叶ったりだったけど、千雪ちゃんが現れた。千雪ちゃんと加納代理は、うまくいってても順風満帆とはいかないだろうな。秘密の曝露(ばくろ)は必要に迫られないかぎり、もしくは、どうせ同じ結果になるというときにするよ。おれは加納家を刺激するつもりはない。せっかくここに来て、職を失うことにはなりたくないから。サービスにいるのはおれの本意じゃない。恋が手に入らなければ仕事に打ちこむっていうのはきれい事と思う? 伯父と一緒で野心はある。このまま不動産に留まりたいってのがおれの本音だ」
同じ結果とはどういうことだろう。
このままうまくいくとは思っていないけれど、第三者からもそう云われると簡単に不安が大きくなる。
建留。と、内心で呼びかけたとたん、携帯電話がふるえて千雪を呼びだす。バッグから取りだすと、電話は建留からだった。
「はい」
『大丈夫か?』
第一声は仕事中でも気にかけているという証拠で、千雪をうれしく、そして安堵させる。けれど。
「もう学生じゃないから。仕事中なの」
答えた声は自分でも怒っているように聞こえた。建留は真逆に笑う。
『オーケー。あとで』
そう云って電話は切れる。
到底、千雪が進歩しているとは云えず、それなのに、あとで――そんな短い言葉に不安を払拭(ふっしょく)され、離れていかないで、と心がわがままを吐いた。